2014年11月15日土曜日

【第2回】もっとも難しい言葉・平和①

柴田ゼミは国際政治学を勉強するゼミですが、そもそも国際政治学とは何をテーマとする学問でしょうか。4月にゼミをスタートして最初に学生に与える主題がまさにそれで、「戦争と平和」です。そう、国際政治学は「戦争と平和」について考える学問なのです。

ゼミ生にはまず「平和」とは何かを考えてもらいます。世の中には「平和」という言葉が溢れているように思いますが、「平和」の意味は必ずしも自明ではありません。「平和」とは何ですか、と改めて聞かれると答えに窮するのではないでしょうか。

「平和」と「戦争」は反対語のように使われる場合がありますが、それは正しいことでしょうか。そもそも、「平和」や「戦争」は目的でしょうか、あるいは、何らかの目的を達成する手段でしょうか、それともある状態を表す言葉でしょうか。このように尋ねると、「平和」という言葉を突き詰めて真面目に考えてこなかったことにゼミ生たちは気が付きます。

考えてみると、「平和」とは、達成すべき目的であったり、ある状態であることはありえますが、その先にある何か別の目的を達成する手段であるとは考えられません。
これに対して「戦争」は、それ自体が目的であるということは考えられませんし、単にある状態を表すものとも考えられません。「戦争」は何らかの目的を達成するための手段であるはずです。「平和」が手段であるとは考えられず、「戦争」が手段であるとすれば、これらが相互に反対語ではないことは明らかです。

それでは、「戦争」の反対語とは何であり、「平和」の反対語は何でしょうか。

「戦争」が、国家が暴力を用いてある目的を達成する手段であるとすれば、反対語は、暴力を使わない手段である「外交」ということになります。「戦争」と「外交」は、国家が国際政治の場で、何らかの目的を達成する手段の両方の極端ということになります。「戦争」は暴力を用いた「外交」であり、「外交」は暴力を使わない「戦争」ということになるのかもしれません。

それでは、「平和」の反対語は何でしょうか。

これが案外難しい。「平和」が目的であるとすれば、反対語はないのではないかと私は思います。
「平和」の反対が私たちの社会の目的ということがあり得るでしょうか。そう考えると、反対語を持つ「平和」という言葉はある状態を表しているということになります。「平和」でない状態とはどのような状態でしょうか。単純に考えるとそれは「戦争」ということになりますが、これが必ずしも正しくないことはこれまでの議論でお分かり頂いたと思います。

ウェストファリアは終わらない』の第1章「人間の条件」において、私は、人間がよく生きるために欠かせない条件を「秩序」が存在することであると主張しました。これは、言い換えれば、人間が「平和」に暮らすためには「秩序」が必要だということで、そのように考えると、平和の反対語は「無秩序」と言えるのかもしれません。
しかし、「無秩序」の反対語は「秩序」でしょうから、「平和」と「無秩序」を互いに反対語だと言うのには少し無理があると思いますし、「秩序」=「平和」とするわけにもいかないと思います。「平和」が秩序ある社会の状態を表すのであるとすれば、秩序が決定的に欠けた状態である「無政府状態(アナーキー)」こそが「平和」の反対語だということになるのかもしれません。

しかし、そうだとすれば、現代の国際政治の最大の特色は、世界政府の存在しない「無政府状態」であることであるわけですから、私たちの生きる世界にはけっして「平和」は訪れないということになってしまいます。
アナーキーな世界でどのようにして「平和」を確立するかが国際政治(あるいは、国際政治学)の課題であるわけですから、「平和」の反対語が「無政府状態」というのは、国際政治を勉強する場合には、ちょっとまずいわけです。もちろん、一部の国際政治学者や国際法学者は、この点を捉えて「世界政府」の樹立以外に「平和」への道は存在しないと主張するわけですが。


以上のように、「平和」という言葉は、いったん真面目に考え出すと非常に難しい言葉であるということが分かります。現代における「平和」という言葉の意味を次回にももう少し考え続けます。

2014年11月8日土曜日

【第1回】当世大学ゼミ事情

大学のゼミというと、どんなことをイメージするでしょうか。私(55歳)が大学生だった頃と現在とではゼミの意味が相当に異なってきています。


私が大学生だった頃は、2年続けて同じゼミに所属するのが普通でした。さらに、ゼミの先生の専門分野が大学生としての自分の専門という意識でした。たとえば、先生の専門がアメリカ政治ならば、「私の専門はアメリカです」という感じでした。

我が学習院大学法学部政治学科の柴田ゼミは3・4年次の専門ゼミです。
政治学科のゼミの特色は、ゼミを3・4年まとめて一緒に行うことにあるように思います。つまり、ゼミは1年間のプロジェクトで、1年後には解散、次年度には改めてゼミ生を募集するというイメージです。
昔のゼミとはかなりイメージが異なります。ただ、政治学科のゼミに関して言えば、カリキュラムの狙いとは異なって、多くの学生は2年続けて同じゼミに所属する場合が多いようです。サークルや体育会とは違った居場所を学生は求めているのかもしれません。

ゼミを短期で解散してしまうというカリキュラムは最近では珍しくないようです。
ゼミを半年(1セメスター)で解散して、学生は次々に異なるゼミを渡り歩くというようにしている大学もあるようです。前回は中国のゼミを、今は社会学のゼミを、次は政治思想のゼミを、というようにです。
私は、これでは自分の専門が何かということが分からなくなってしまうのではないかと心配になるのですが、これにも別の配慮があるようです。つまり、学生と先生との相性が悪い場合に、2年間我慢するのはとても無理だから、ゼミを変えるチャンスをできるだけ学生に多く与えるという配慮だということです。
学生との付き合いもなかなか難しくなってきました。

政治学科では、2月の終りか3月の初めに翌年度のゼミの説明会が行われて、3月の末には、ゼミによって異なりますが、課題を提出させ面接を行ってゼミ生を絞り込みます。全員がどこかのゼミに所属できるわけでないことは分かっていますから、自分の入りたいゼミに入るために学生も必死の努力をします(しているはずです)。場合によっては、2次募集、3次募集まで行われてゼミのメンバーが決定します。

私はゼミを担当して今年9年目ですが、ゼミを担当することになった当初、どんなことをテーマにしようかと真剣に考えました。
どうせなら自分が考えたいことをテーマにして、学生にそれを勉強させる傍ら、自分もそれにきちんとした答えを出したいと思うようになりました。大学生の時から国際政治を専門として勉強してきたわけですが、多くの主題にそろそろ自分なりの答えを出してもいい頃だと思いました。そこで、国際政治の現在と未来を考えてみよう、つまり、私たちが今過渡期に生きているとして、その先にどんな時代があり得るのかを考えてみようと考えたわけです。

この時、私は「私たちは過渡期を生きている」とぼんやり考えていたのです。そこでゼミを「国際システムの変容」と名付けました。国際システムは変化していて、それがどんな変化でいずれどうなっていくのかを考えてみたかったわけです。我ながら未熟だったと今は思います。拙著『ウェストファリアは終わらない』で出した結論は、私たちは過渡期なんかにはいないということだったわけですから。これについては追々詳しく論じていくつもりです。
ウェストファリアは終わらない』のあとがきにも書きましたが、ゼミのテーマが基礎となってこの本は生まれました。
まさかゼミのテーマから本が生まれるなんて考えてもいなかったのですが、今から振り返ると、こうなる以外にない流れだったように思えるから不思議です。
これからこの連載で、ゼミでどんなことが議論されたかを振り返ることで、現在の国際政治について様々なことを書き綴っていこうと思います。
皆様方にとっての「国際政治入門」になればと思います。

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