2015年4月30日木曜日

【第13回】「今」はどんな時代か?⑧



それでは、カルドーのいう「新しい戦争」とは、どのようなものでしょうか。
「旧い戦争」は主権国家と主権国家の間で行われてきました。もちろん、逸脱はありますが、国際法に則って戦争は行われました。逸脱は戦争犯罪として裁かれました。

「新しい戦争」は、内戦あるいは国内紛争、テロリズム、低強度紛争などと様々な名前で呼ばれています。それは、これらが旧来の戦争の概念からはみ出す性質を多分にもった「旧い戦争」とは異なる「戦争」だからです。

「旧い戦争」は主権国家間のイシューに一時的に片を付ける外交の延長で、紛争の種にその時点での何らかの答えを見出すことが目標でした。
ところが、冷戦後に顕著となった「新しい戦争」では、こうした限定された明確なイシューや目的は存在しません。
カルドーは、「新しい戦争」の背景には「アイデンティティ・ポリティクス」が存在すると論じます。

「アイデンティティ・ポリティクス」とはなかなか難しい概念です。カルドーは、アイデンティティ・ポリティクスを「国家権力を掌握するために、民族的、人種的あるいは宗教的アイデンティティを中心として人々を動員する動きのこと」と定義しています。

中国の毛沢東やベトナム戦争時のベトコン、また、南米におけるゲバラたちのゲリラによる戦争は、人々の心をめぐる戦いでした。
そこに住む人々を惹きつけて自分たちの味方にするために戦ったり戦わなかったりしたのです。ゲリラはのべつ戦いませんでした。ゲリラが一般の人々を排除するのではなく、味方にしようとしたからです。

「新しい戦争」においても、ゲリラの使った手段と似た手段が使われているように見える場合が多くあります。しかし、「新しい戦争」においては、あるアイデンティティを共有できない人々を徹底的に排除し、それによりその地に支配を確立しようとします。テロや大量虐殺を常時行うことで社会全体に「恐怖と憎悪」を生み出し、それによって邪魔者を排除し支配を達成しようとします。
その結果、難民や国内避難民が大量に発生したり、大量虐殺が頻繁に起きるなどしているのです。
昔のゲリラとはまったく異なった存在です。
「新しい戦争」においては、兵士と比較して、圧倒的に一般市民の犠牲が多くなっています。それは、戦いのターゲットが一般市民に向けられているからだと言えます。

こうした「新しい戦争」が可能になった背景には世界の様々な変化が存在しています。グローバリズムの進展やITの発達も重要な影響をもたらしていますが、何よりも大きな影響を与えてるのは、主権国家の弱体化です。
ウクライナを始めとするソ連崩壊以後生まれた旧ソ連諸国や冷戦を背景として米ソの援助を受けていた独裁者が退場した後の諸国から、闇市場を通じて大量の武器が世界中に流通しました。こうした武器が「新しい戦争」を戦う武装集団に大量に流れ込んだのです。
また、国家が弱体化して生まれた権力の空白地帯がこうした武装組織のいわば苗床になっています。イラク、アフガニスタン、シリア、ソマリア、リビア、イエメンなどはその典型的な例です。

私たちが生きる世界は、こうした「新しい戦争」の前で立ち竦んでいるかのように見えます。
私たちは、新しい「戦争」の概念を確立し、それを抑止し制御する方途を模索しなければなりません。カルドーも言っていることですが、弱体化し有名無実化した主権国家を強化して暴力の拡散を押しとどめ、国家が組織的な暴力を独占しなければなりません。もちろん、強化された国家がいかなる性質を持つかがその後の重要な課題になります。


近代の国際社会は、国家の主権を至高のものとして、内政に対する干渉を禁じてきました。
しかし、私が『ウェストファリアは終わらない』でも論じたように、「新しい戦争」はこうした近代の国際社会の基本的なルールの見直しを迫っているように見えます。
私たちは、新しい「戦争」の概念や新しい「主権」の概念を考案し、これまでのルールとは異なるルールを生み出すことによって、それに対処しなければならない非常に困難な時代を生きているのかもしれません。

「新しい戦争」に対しては、「旧い戦争」のやり方ではまったく対処できないことは明らかです。

私たちは、新しいルールを築き上げることができるでしょうか。

日々のニュースで流れている世界の悲惨は、古い概念とまだ出来上がっていない新しい概念のズレた空間で起きていると受け止めるとすれば、案外それは、腕力ではなく、知的な勝負だということが理解できると思います。

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2015年4月15日水曜日

【第12回】「今」はどんな時代か?⑦

私たちが生きる「今」がどんな時代かを考えるために、これまで3冊の本を紹介しました。
4冊目はメアリー・カルドーの『新戦争論』です。
この本が出版されたのは1999年(日本語訳が2003年)、考察の対象の中心は旧ユーゴスラビア、特に、ボスニア・ヘルツェゴビナなのですが、最近の中東やアフリカにおける「新しい戦争」を考える場合にも、極めて重要な議論がこの本の中でなされています。

私たちは、戦争という言葉を何にでも気軽に使いがちですが、真面目に「戦争」に対処しようと思えば、戦争という概念に遡ってものを考えなければなりません。

そもそも戦争とは何でしょうか。

カルドーも論じていることですが、戦争とは、ある限定された時間と空間の中で行われる主権国家同士の合法的な戦いのことです。カルドーはこうした戦争を「旧い戦争」と呼びます。こうした「旧い戦争」は17世紀から18世紀のヨーロッパで確立した制度だと言うことができます。
大変に興味深い逆説ですが、国家が対外的な戦争に備えて暴力を独占するようになると、国家の内部には秩序が生まれ平和が確立されるようになりました。対外的な戦争への準備が国内の平和を生み出したわけです。同時に、国家と国家が戦争をしている時以外の時間が「平和」であると考えられるようになりました。つまり、国家が暴力を独占し戦争に備えることにより、国内的には秩序を通じて平和が生まれ、国際的には戦争と平和が区別されるようになったわけです。戦争への準備が平和という概念を生んだということになります。それ以前の社会は、戦争と平和が混然一体となっていて区別のできない世界であったのです。

戦争とは、それ故、主権国家が行う、国家間の紛争を処理する制度のひとつで、その開始と終結についても、また、戦争のやり方についても徐々にルールが確立し、そのルールに従って行われるゲームのようなものなのです。

しかし、紛争処理のゲームとしての戦争も、ナショナリズムを背景とした国民軍の登場と科学技術の発達による兵器の進歩によって、耐え難い悲惨さを伴うものに変化しました。それをヨーロッパ諸国に痛感させたのが第1次世界大戦でした。

戦争という言葉があまりにも気楽に使われているために意識されることはあまりないのですが、現代においては、戦争は紛争の解決の手段としては禁止されています。
戦争の禁止は、第1次大戦後から議論され始め、1928年のケロッグ・ブリアン協定(いわゆる「不戦条約」)で成果を見、現在の国連憲章に結実しました。しかしながら、今でも世界は「戦争」で溢れているように見えます。

しかし、主権国家と主権国家がルールに則って行う「旧い戦争」は、今では非常に珍しいものとなっています。その意味で、私たちは案外「旧い戦争」をコントロールできるようになったのかもしれません。
今、私たちが「戦争」と受け止めている「戦争」は、実は、内戦であり、テロであり、テロへの対抗としての戦いであり、そこで被害を受けている人は、国家による保護を受けることのできない難民や国内避難民や、テロのターゲットになる一般の市民なのです。こうした紛争は「旧い戦争」の概念では「戦争」とは言えない紛争であると言うことができます。カルドーが言うように、私たちは、こうした新しい暴力の行使に「新しい戦争」の概念を与えて対処しなくてはならない、そういう時代を生きていると言えるのかもしれません。

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