2015年6月30日火曜日

【第17回】主権の再検討③

ゼミ初年度の最後の講義として私が学生に示した主権論がベースとなり、それが発展してウェストファリは終わらない』の第2章となりました。伝統的な主権の概念を少し超えたものとなりました。
以下、その内容です。

主権について多様な議論が昔から存在していますが、もっとも重要なポイントは何かと言えば、その担い手は誰かということだと思います。
フランス革命以前の主権者は王でした。それがフランス革命以降、国民となったわけです。
現代では主権者は紛れもなく国民で、これが変更されることは考えられないものと思います。主権という概念は、主権者が王から国民に変化したように、多様に変容する概念ではありますが、主権者が国民ということは今後も永遠に変わらないものであると思います。要するに、この点では概念として行き着く所まで行き着いたのだと私は思います。
もちろん、以下で論じるように、担い手の部分を除けば、これからも主権の概念は様々に変化することは間違いありません。

ルソーが言うように、主権者たる国民は主権を自分自身で行使する主体ではありません。国民が主権を行使する瞬間というのは、選挙の投票をする一瞬だけのことで、国民が「主権を持っている」というのはFictionに過ぎません。ただ、このFictionは重大な事実です。

主権者たる国民は政府に主権の行使を委託します。この政府を選ぶのが選挙で、主権者たる国民が選挙で政府を選ぶとすれば、これはまさに民主政ということが言えます。つまり、国民主権であるとすれば、そこにおける政府は民主政によって選ばれなければならないわけです。つまり、国民主権と民主政は一体のものということができます。

主権者たる国民の、主権者として最も重要な、あるいは、根源的な機能は、主権を委託する主体、すなわち、政府を選択するということになります。
主権者たる国民と主権の行使を委託された政府の束が主権国家=国民国家で、民主政こそが主権者たる国民と主権を行使する政府を結ぶ接着剤になっていると考えることができます。
逆に言えば、民主政なきところでは、国民と政府とはばらばらで一体のものとはなり得ないと考えることができます。
これは現代の、あるいは、将来の主権国家を考える場合に非常に重要な考え方であると思います。


主権者たる国民が主権を託した政府の果たす役割について、次回、論じます。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。


2015年6月15日月曜日

【第16回】主権の再検討②

毎年、年度末には、ゼミ生に卒論「のようなもの」を提出してもらっています。なぜ「のようなもの」かと言えば、こうした論文は現在の大学(すくなくとも学習院大学法学部政治学科)では単位として認定されず、ゼミの単位に付随するものに過ぎないからです。ゼミによっては、こうした論文を単位の必須要件にしていない場合もあります。ですから、卒論とは呼ばず、ゼミ論と呼んだりするのが一般的です。

私が学生だった頃は、卒論と言えば、「100枚」というのが普通で、400字詰めの原稿用紙100枚が目安でした。今は原稿用紙に手書きで論文を書く学生がいませんし、40,000字は無理な分量だと思います。柴田ゼミでは、10,000字程度ということでゼミ論を提出してもらっています。

「主権の再検討」をテーマとしたゼミ初年度において、私はゼミ生たちに、「主権国家単独では扱いに困る大きな問題か小さな問題を取り上げて、主権国家について考察せよ」という課題を出しました。ゼミ生たちがどのような問題を取り上げてくるかを楽しみにしていたのですが、結果は私には意外なものでした。

まず第1に、小さな問題を取り上げるゼミ生がひとりもいませんでした。ゼミを選択する時点で「国際政治」を自分の専門としようとする学生が集まったせいか、どうしてもより大きな問題に目が向いたようです。

次に、8人のゼミ生のうち、3人がEUをテーマとして取り上げました。EUと各構成国の主権の問題は、確かに、重要な問題で、EUが国際政治上の未来の主体の在り方を示す可能性があるかもしれないという点で、取り上げるに値するものであることは間違いありません。ただ、3人が同じテーマとは少し驚きました。

3に、私はてっきり誰かが地球環境問題を取り上げるのではないかと思っていたのですが、これをテーマとした者はいませんでした。

毎年のことですが、学生が何をテーマとするかということは、案外、個性的で、私の予想通りにはいかないのが普通です。私は、できる限り、私からテーマを与えるのではなくて、学生がやろうとしたことを生かすように心がけています。それがうまく行く場合もあれば、もっと方向付けをしてやればよかったと後悔する場合もあります。

EU以外をテーマとした論文に個性的なものがあったように思います。

ひとりは「国際河川」をテーマとしました。
日本は島国で他国と共有する河川がひとつもないわけですが、これは国際的に見ると、圧倒的に少数派で、多くの国が重要な河川を他国と共有しています。ヨーロッパで言えば、ライン川やドナウ川が典型です。
このゼミ生は、ガンジス川とメコン川を取り上げました。河川は、物流においても、飲用水や工業用水の利用においても非常に重要な役割を果たすもので、多数の国を流れる川の利用については、主権国家間の協力が欠かせないものです。

ちなみに、21世紀の紛争の種には多様なものが考えられますが、ひとつ有力なものとして「水」が挙げられるように思います。河川が国際紛争の原因になる可能性は無視できないほど大きなもので、実に重要なテーマです。

「税制」をテーマとしたゼミ生もいました。現在は、企業が国境を易々と超えて移動する時代で、多くの国家は、企業にとって有利な税制を制定することで、企業を誘致し経済的な発展を図ろうと努力しています。つまり、税制とは、あるひとつの主権国家の独占的な国内政策ではなく、他国からの影響を大きく受ける存在になってしまっているのです。

私は、税制をテーマとするゼミ生が出てくるとは考えていなかったのですが、あらゆる種類のグローバル化が、主権国家の政策の自由度を狭めていることは紛れもない事実で、その一例として、税制は非常にいい例であると思いました。

私も一年間、現代における主権国家について大いに考えました。それが『ウェストファリアは終わらない』の第2章に結実したのですが、次回、この年のゼミの最後に行ったまとめの講義をご紹介します。