2015年12月30日水曜日

【第29回】正しい戦争⑩

ゼミ2年目のこの年は、テーマが難しかったと考えたからか、あるいは、そのくせ時間が余ったからなのかどうか、今となっては思い出せませんが、まとめの講義を2回行いました。1つ目の講義は前回までにすでにご紹介済みですが、今回と次回で2つ目の講義をご紹介致します。タイトルは「『正義』のfloorとceiling」でした。

「正義」とは非常に捉え所のない代物です。「善」と「悪」とを区別することは非常に困難で、それらを区別する基準を提出することは不可能でないにしても、極めて難しいと言えます。

「善」と「悪」が明確に区別できないとはいかなることかと言えば、ある時に「悪」であることが、別の時に「善」であることもあるということです。社会全体に渡る重要なことになるにつれてこういうことがまま起きます。よかれと思ってしたことが最悪の事態をもたらすことがあり、また、悪意を以てしたことが事態の改善を促すということは珍しいことではありません。だから、「善」と「悪」は、実は、状況に依存しているとも考えることができます。

では、「正義」とは状況判断のことなのでしょうか。善意で始めたことが「悪」となり、悪意で始めたことが「善」たる結果に繋がることもあるとすれば、人間のなす行為はあたかも「メビウスの輪」のようだとも言えます。ならば、「善」「悪」には区別はなく、「正義」は存在しないのでしょうか。結論から言えば、答えは明確に「否」であって、間違いなく「正義」は存在しています。ただ、それを簡単には見いだせないということなのです。

「正義」をめぐって断じて避けなければならない態度が2つあります。
第1は、「正義」を確定してしまおうとすることです。つまり、「万能薬(panacea)」を見出そうとすることです。第2は、どうせ「正義」など存在しないと諦めて開き直ることです。価値相対主義と言いますが、所詮「絶対なもの」などない、すべて「相対的なもの」に過ぎないと考えるのがこの考え方で、行き着く先は「ニヒリズム(冷笑主義)」ということになります。

以上2つの態度に共通することは何でしょうか。
それは、ある時点で「考えること」をやめてしまうということです。第1の態度では、panaceaを見出したと思った時点でそれ以上考えようとしなくなります。あとは設定した図式に事実を載せてしまえばいいとなってしまうからです。第2の態度では、すでに諦めてしまっているわけですから、それ以上考えることは無駄であるということになってしまい、現に考えることをやめてしまいます。

人間がどんな動物であるかには様々な答えがあります。道具を使う動物であるとか、言語を操る動物であるとか、「考える葦」であるとか、そういったものです。
私は、人間とは「面倒くさがる動物」であると思っています。他のすべての動物は、ほとんどあらゆることを本能に従ってやるわけですが、ひとり人間のみは本能が壊れていますから理性に従って行動をします。それ故、動物は面倒くさがることをしませんが、人間はあらゆることを面倒くさがるわけです。とりわけ人間は考え続けるということが苦手ですから、考えることを適当に切り上げて、あるいは、問題を解決したことにして、それ以降できるだけそれについて考えずに済まそうとします。はっきりと言いますが、だから人生の極意は「面倒くさがらない」ことです。何であれ、面倒くさがってはいけません。

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2015年12月15日火曜日

【第28回】正しい戦争⑨

国際連盟の創立と不戦条約の締結に始まり、国連の発足に至る、戦争の違法化の歴史は、まさに戦争という絶対悪を根絶しようとする試みであると言えます。戦争の禁止は確かに誰にも反対のできない正義であると思います。しかし、武力を用いて世界に立ち向かう人間が現に存在する世界において、戦争を禁止することで平和がもたらされると単純に考えることができるでしょうか。

そもそも、第1次大戦の頃から戦争は国民全体を巻き込む「総力戦」の時代となり、前線と銃後の区別は曖昧となりました。それは時代が下るにつれてますますそうなっています。

2次大戦後には、独立戦争を始めとしてゲリラ戦が一般化しました。本来力のない者が大きな力を持つ者に対抗する手段としてゲリラ戦が採用されたわけですが、一般大衆と兵士との区別がつかないのがゲリラ戦の特色です。ゲリラは一般大衆の「海」を泳ぐ存在なのです。テロはそれがさらに進化した形であると考えられます。テロは敵の社会の一般大衆の中に混じって敵の社会の中で暴力を用います。味方の国民と敵のテロリストの区別がつかない時代が現代なのです。

性の分野で素人と玄人の区別がなくなったように、戦争においても、素人と玄人の区別は消滅してしまいました。兵士と民間人の区別は今や無きに等しいと言えます。それどころか、敵たるテロリストは味方の社会の大衆の「海」を泳いでいる可能性が高いのです。誰が味方で誰が敵かを見分けることが非常に難しい時代を私たちは生きているのです。

また、これは紛争の犠牲者についても言えることです。古典的な戦争においては、戦争の犠牲者は、敵でも味方でも概ね兵士だったわけですが、今では、民間人が戦争の犠牲者になることは珍しいことではありません。東京大空襲やヒロシマ・ナガサキを例に出すまでもないと思います。それどころか、現代では、戦争をしているわけでもないのに、いきなりテロの被害者となることだってあるのです。

つまり、戦争を禁止した時代において、昔だったら戦争でしかあり得なかったことが、日常生活で起きるようになっているのです。19世紀までの戦争では可能だった、戦争を限られた場所に封じ込め、限られた人間のみがそれに係わるというあり方は、現代においてまったく不可能になってしまいました。私たちは19世紀以前よりも文明的な生き方をしていると言えるでしょうか。

「性」と「戦争」の例で見てきたように、「悪」を根絶しようとする試みは、意図こそ完璧に正しいものの、意図とは正反対の結果を生み出しているように見えます。私たちは、善と悪についてもっとよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。

「悪」には、「風の谷のナウシカ」における「王蟲」のように、ナウシカのみが気付き、私たちの多くが気付かないでいる重要な役割が実はあるのではないでしょうか。なかなか困難なことですが、「悪」を根絶することで失われるものは何であるかに想像力を働かせる必要があります。
「王蟲」の存在がそうであるように、「悪」が、隠れた「善」を守る働きを果たしているということはないでしょうか。なぜなら、「善」とは、「悪」によってしか守られないほどにはかないものだからです。

「悪」を根絶しようとすることは、その「悪」が、たとえば「天然痘」のように、完全に人間の外部にあるものである場合には成功することもあるわけですが、その「悪」が人間の内側から滲み出るようなものであるとすれば、そのことが却って「悪」を蔓延らせるきっかけになる場合があります。
「『戦争』と『売春』」あるいは「『暴力』と『性』」はまさに人間の本質に食い込んだ部分に存在するものなので、それらを根絶しようとする試みは、絶対に成功しないどころか、思ってみない結果をもたらすことになって、しかも、取り返しがつかないのです。

私たちは、「悪」との付き合い方に習熟する必要があります。「悪」を一定の領域に囲い込み飼いならすことこそ、私たちが身に付けなければならない術(わざ、art)なのです。

以上、数回に渡って書いてきた内容を1回の講義で話しました。1時間半の講義で話すことのできる内容は、文字で書いてみると意外なほどの分量になるものです。ゼミでは、学生の報告が中心で、講義はほとんどしませんが、大学のひとつの講義は通常年間25回ですので、このように考えると、かなりの厚みの話がなされていると実感できます。

この年度は、例外的に、2度まとめの講義をしました。次回からは、もうひとつのまとめの講義をご紹介致します。

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