2016年12月28日水曜日

第53回【1989 時代は角を曲がるか⑧】

8月」にゼミ生は以下のような記事を取り上げました。
「東側から西側への脱出急増 ハンガリー国境経由」「中米安定に大きな一歩 コントラ解体合意」「トルコが国境閉鎖(ブルガリアからの流入阻止)」「銃をとらされた少年たち」「体感測定やめる 震度 機械実用化にめど」「原爆ドーム保存に熱い思い 募金運動へ反響多数」

8月」の日本の新聞は、かなりの量の「終戦」にまつわる記事を掲載します。「原爆ドーム」もそうですし、「銃をとらされた少年」というのも、実は、ワルシャワ蜂起やアフリカの少年兵の話ではなく、終戦直後の満州に攻め込んできたソ連軍に対する日本人少年の話題です。

今は難民と言えば、シリアやアフガニスタン、リビアなどからヨーロッパへ逃れようとする人たちのことを言いますが、この当時は、東欧諸国の人びとが、冷戦体制が緩んだせいでできた隙間から西側に逃げようとしていました。ハンガリー国境が開かれ、多くの東ドイツ人がここからオーストリアを経由して西ドイツに逃れました。ブルガリアでは、元々いたトルコ系の人たちがトルコへと逃れだし、その数があまりにも多いため国境が閉鎖されました。トルコは今も難民の最大の受け入れ先のひとつで、アジアとヨーロッパに跨る国土の故にそうであるのが運命であるのかどうかは分かりませんが、世界が何らかの激動を迎える際には注目をされる国であると言えます。

私は「8月」の記事として、22日に21周年を迎えたプラハの春を論じた「民主化圧殺のチェコ事件から21年」を取り上げました。東欧自由化の試みとその失敗としては、1956年のハンガリー事件、68年のプラハの春、80年のポーランドの自主労組連帯の運動があげられますが、89年の自由化の動きとしては、ポーランド、ハンガリーが先行し、チェコスロバキアは12月に入るまでなかなか自由化へとは向かいませんでした。それどころか、8月のこの時点では、ハンガリーやポーランドの変化に批判的ですらありました。1989年の変化がいかに急速であったかが分かります。

9月」にゼミ生たちは以下の記事を取り上げました。
「リトアニア共和国ルポ 衰えぬ『自立』の決意」「日中交流を積極再開」「日航ジャンボ墜落事故 20人全員不起訴へ」「ビデオ業界の自制求める 朝日社説」「チェルノブイリに研究所 世界の学者集い汚染に取り組み」「新生ポーランドと東欧 国民との溝克服図る 党側、生き残りかけ模策」

リトアニア、ポーランドは東欧の変化の話題。リトアニアが後にソ連の解体を促したことを思うと目の付け所として秀逸と言えます。ジャンボ墜落は1985年、チェルノブイリは86年のことです。ビデオの話は、「宮崎勤事件」の余波ですが、インターネット時代の今となっては無意味な話となってしまいました。1989年には、一般人にとっては、インターネットもパソコンも携帯電話もなかったということを忘れていけないと思います。時代は大きく変化したものです。

9月」に私は、「ガリレオの迫害誤りでした ローマ法王が名誉を回復」という記事を取り上げました。カトリック教会がガリレオの名誉を回復したわけですが、それに約4世紀の時間がかかりました。

私がこの記事を取り上げた理由は、カトリック教会のこの行為が果たして浮世離れした話題であるかどうか疑ってみる必要があると感じたからです。当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、歴史上初のポーランド人法王でした。ポーランドは敬虔なカトリック信者が95%を占める国ですが、法王は、祖国の「連帯」や民主化運動を当初から圧倒的にモラル・サポートしていました。ポーランドを始めとする東欧の民主化は法王のバックアップなしでは成立していなかったかもしれないくらいです。ガリレオの名誉を回復するというこの反省の姿勢は、ソ連に対して、過去の東欧諸国に対する圧制の反省を促すものと深読みすることができるかもしれないと私はゼミ生に話しました。

ゼミ生たちは「10月」に以下のような記事を取り上げました。
「世界のデザイン、ソニー(全面広告 パスポートサイズのハンディカムが登場)」「アンゴラ内戦の自主解決に自信」「熱田派の小屋全焼(成田建設反対派運動)」「侵害される子どもの人権」「少年犯罪報道めぐり論議 弁護士・市民とマスコミ側がシンポ」「7万人デモ 東独政権揺さぶる 内からも改革圧力」

過去の新聞を読むと、記事以上に広告が面白いことに気付かされます。企業広告はもちろんですが、雑誌や週刊誌の広告に興味深いものがたくさんあります。ソニーの広告に注目したゼミ生がいたのは、彼らにとってもコマーシャルは面白いのでしょう。

私は「10月」にルーマニアの大統領チャウシェスクについての記事を取り上げました。「波及したら困る?ポーランド介入呼びかけ」という記事です。8月にポーランドでは「連帯」のマゾビエツキが首相に就任したのですが、就任直前に、チャウシェスクが東欧各国の共産党にポーランドへの介入を呼びかけました。結局、ゴルバチョフがこれを拒否し、介入は実現しなかったという記事。

ルーマニアと言えば、独自の社会主義を唱え、ソ連からの介入を嫌い、「プラハの春」への介入にも反対した存在でした。この時の指導者もチャウシェスクだったのですが、今度は一転してポーランドへの介入を主張したわけです。チャウシェスクは、最後の最後まで民主化、自由化の改革に反対をし続けたのですが、チェコへの介入の反対とポーランドへの介入の主張とを結びつけるものは、自己保身以外には考えられません。それを指導者は「国益」と呼んだりするわけですが、時にそれは「保身」以外の何ものでもないのです。チャウシェスクの存在故に、ルーマニアは民主化、自由化がもっとも遅れて進む結果となりました。

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2016年12月15日木曜日

第52回【1989 時代は角を曲がるか⑦】

1989年」に戻ることにしましょう。
6月」では、ゼミ生たちは以下のような記事を取り上げました。

「早稲田沈んで慶応浮上」「ホームレスの家づくり手助け カーター大統領も参加」「交配種で自由化に備え(乳牛、和牛)」「小声で宇野首相『公の場では…』」「切符の裏使って最も小さな広告 JR東日本の新商法」「主犯の『19歳』に死刑(アベック殺人)」

1989年は、時代の大きな変化の渦中にあったことは間違いありません。もちろん、その変化の意味を考えることがこの年の課題でした。グローバリズムという言葉がこの時期に使われていたかどうか分かりませんが、レーガン・サッチャー流の自由化が加速していたことは間違いありません。農業の自由化への備えの記事や民営化後のJRの試行錯誤についての記事などは、まさにそうした時代の変化を窺わせるものと言えます。

私は「6月」に、65日の朝刊の記事をいくつかコラージュして学生に示しました。この日の第1面のトップ記事は、北京における天安門事件の発生を伝えるものでした。事件の詳細は不明としながらも、この事件が鄧小平体制に大きな影響を与える可能性を指摘しています。同じ1面の真ん中に小さい記事で、「ホメイニ師が死去」との見出しもあります。天安門事件がもし起きていなければ、この記事がトップにあったはずです。そして、国際面に、わずか500字程度の記事で、ポーランドにおける社会主義国での初めての自由選挙の投票の開始の記事があります。この記事は大変に小さな扱いとなっていますが、他に大きなニュースのない日であれば、間違いなく、1面のトップを飾る記事だと私は思います。
新聞には紙面の制約、テレビには時間の制約があります。ニュースらしいニュースのない日もあれば、この日のように、トップを飾っても不思議でない事件がいくつも重なる日もあります。北京での事件が紙面のほとんどを覆い尽くした結果、冷戦の終わりの最終章の始まりと言ってもいいようなポーランドの自由選挙の記事は小さなコラム程度のスペースとなってしまいました。その日その時に、未来から振り返ってその日の何がより重要であったかを感じ取ることは簡単なことではありません。逆に、ニュースを見、新聞を読む側からすると、記事のスペースの大小に惑わされず、ニュースの価値を見抜く目が必要になります。

7月」にゼミ生たちが取り上げた記事は以下のようなものでした。

「ソ連議長 仏知識人2000人と対話」「東欧難民の子ら救え あす東京で救援コンサート」「部下なし『部・課長』を大幅増」「国際事件簿 マフィアに挑む母親」「カラヤン氏死去 世界に君臨 大指揮者」「生体肝移植に成功 豪州邦人母子?経過は良好」

今から振り返ると、1989年は、世界だけでなく、日本の会社も大きな変化をし始めていました。バブル経済がこの時期の最大の特色ですが、それだけでなく、団塊の世代(昭和22年~24年生まれ)が40歳代になり、その人口の規模が社会の質を転換させざるを得なくなったのだと思います。その遥か前から、団塊の世代の年齢の変化とともに社会全体が変化をしてきたわけで、現在の少子高齢化の問題もその延長線上にあると言えます。

私は「7月」に「『制限主権論』脱却鮮明に」という記事を取り上げました。制限主権論とは、一般にブレジネフ・ドクトリンと呼ばれていますが、1968年に、チェコスロバキアにおける自由化の動き(「プラハの春」)にワルシャワ条約機構軍(主力は圧倒的にソ連)が軍事介入をした際に、当時ソ連共産党書記長であったブレジネフが提示した考え方のことです。「共産主義陣営の利益のためには一国の主権は制限されうる」というものです。


1989年のポーランドにおける円卓会議以降、東欧諸国は自由化を恐る恐る進めてきました。ソ連から再びブレジネフ・ドクトリンをベースにした介入の動きがあり得るのではないかと考えていたからです。これに対して、ゴルバチョフは、すでに1985年に東欧諸国の自主性を認めるという発言をしていたのですが(この路線を「シナトラ・ドクトリン」と当時は呼んでいました)、誰もがこれに懐疑的でした。この記事は、ゴルバチョフがブカレストでの演説で、東欧諸国がそれぞれに改革を進めるよう「激励」の姿勢を示したと伝えています。次の半年で、東欧諸国のすべてが ”my wayを進むことになるとは、まだこの時誰も考えていませんでした。

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2016年11月30日水曜日

第51回【1989 時代は角を曲がるか⑥】

人間が、生まれて以後、外から取り入れる情報によって真の人間になっていかざるを得ないのは宿命と言ってよいものです。その結果、何らかの形で本当の世界(本当の世界とは、人間には知りようのないものと言えます)とずれてしまうのも仕方がないことです。しかしながら、その「ずれ」を最小限にする努力はすべきだと思います。この「ずれ」が尋常でないものとなった人を私たちは「狂人」と呼ぶのです。だから、取り入れる情報が適切であることが必要となります。私たちはそれに値する情報に取り囲まれていると言えるでしょうか。

そこで重要になるのは正しく情報を見分けることとなります。
以下、情報を見分けるポイントを簡単に述べます。
1 事実(ファクト)と解釈を区別する
2 信頼に足る1次情報と2次・3次の情報を区別し検証する
3 証拠なき解釈を常に疑う
4 同じ事実に直面しても複数の解釈があり得ることを知る
5 解釈に「常識」を働かせる

「常識」とは何かと言えば、長い歴史の中で積み重ねられ、試され生き残ってきた良識のことです。次に、どのようにして「常識」を知るかということが問題になりますが、それは真面目に生きること以外にありません。

そして、もうひとつ重要な心構えがあります。それは、この世のほとんどのあらゆる議論が「仮説」に過ぎないことを知ることです。私たちの周りには過去から未来永劫変わらぬ真実というものはほとんど存在していません。人間は元来面倒臭がる動物ですから常に考え続けるということをしたがりません。ですから、すべてを疑ってかかるということは極めて難しいことなのですが、あらゆることが実はあやふやなものだとして常に半分は疑ってみなければならないのです。

私たちを取り囲む情報の種類は以下のように分類できます。
1 正しい情報と正しい解釈
2 ステレオタイプ

人間は基本的に考えることを面倒臭がる動物なので、ステレオタイプは人間に考える面倒を省いてくれるものと言えます。これによってよく考えなくても多くの人が受け入れてくれる解釈が容易に得られることになります。
3 正しい情報と間違った解釈
4 間違った情報

人間は間違いを犯します。目の前で起きたことでさえ、時に、正しく認識できない場合があります。これは本当に驚くべきことです。

5 捏造された情報

人間の中には、嘘を平気でつく人たちが存在しています。嘘を病的に重ねる人、他人の目を自分に向けるために嘘をつき続ける人、自己の利益のためには嘘を躊躇わない人、嘘も百遍唱えれば本当になる場合があることを知っている人、こういう人たちが残念ながら私たちの世界には大勢います。だから、「真実はひとつだ」とか「真実が最後には勝つはずだ」とか「分かる人には分かる」というのは意味のない一種の精神論以外の何者でもありません。

私たちが生きている世界は真偽の定かでない多様な情報と実際には正しいかどうかわからない「仮説」から成り立っていると言えます。私たちの世界は実にあやふやな基盤の上に成立しているわけです。こうした世界で生きる私たちが身につけるべき態度として最も重要なのが、あらゆることを疑うことであると私は思います。ファクトを見極め、信じるに値する仮説や解釈を考え抜くことが重要です。その際に、人ではなく自分を信じて自分の頭で考えることが肝要です。

そして、最後に、最も重要なことを付け加えるとすれば、それは、自分自身をも疑うことです。信用ならない自分を信じて自分を含むあらゆることを疑ってかっかること。これを知るために7冊の本を読んでもらいました。

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2016年11月15日火曜日

第50回【1989 時代は角を曲がるか⑤】

2010年度は、課題図書として以下の7冊をゼミ生に読んでもらい、感想を提出させました。7冊も読ませるのは異例のことで、事情はすでにお話しました。

1 福田ますみ 『でっちあげ』 
2 菅原琢 『世論の曲解』 
3 川島博之 『「食糧危機」をあおってはいけない』 
4 森田浩之 『メディアスポーツ解体』  
5 黒木亮 『排出権商人』 
6 稲田朋美 『百人斬り事件から南京へ』 
7 工藤美代子 『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』

1年を通してこの7冊を読んでもらい、私は、「定説を疑え」と題してゼミ生に以下のような話をしました。

わざわざ本を読ませて感想を書かせるわけですからそこには意図があります。私の狙いはそれほど難しくも意外なものでもなかったと思います。問題は、それがどこまで身に着くかということです。少し話を大きくして私の狙いをお話します。

そもそも人間とはどんな存在でしょうか。これには無数の角度からアプローチが可能です。
人間とは、肉体と精神の両方からなる存在です。肉体は分かりやすいものですが、精神が何かを知ることはそれほど簡単ではないかもしれません。また、肉体と精神が渾然一体となったような領域があることも事実だと思います。肉体の構成物質は人による違いはありません。個人を特定できる物質はないということです。DNAによって個人を特定することが可能ですが、それは物質ではなく塩基の配列、つまり、情報による判別だと考えられます。

詳しくは論じませんが、精神とは、すなわち、メモリーのことです。メモリーは基本的に情報から成り立っています。ひとりひとりの人間が異なる存在であるのはメモリーの相違によるのであって、物質によるのではありません。つまり、私とは誰か、他人とは何が違うかと言えば、決定的な相違は私の中に記憶されたメモリー、情報の相違であるということが出来ます。メモリーにこそ私のアイデンティティが宿っているわけです。

ならば、自分の中に積み重なる情報こそが決定的に重要なものとなります。情報を自分の中に積み重ねていくことこそが成長であり、ある時点でようやく人は本来の人間になるわけです。情報で充分に満たされていない人は未熟児にとどまるわけです。なぜ勉強をしなければならないかと言えば、こどもに関しては、それは人間になるためと言うことができます。具体的には「立派な日本人」になるためです。人間にとって学習は欠かすことのできないものです。
人間が人間になるために、そして、自分自身になるために情報が必要だとして、人はどこから情報を得るでしょうか。人の成長ということを考慮して情報の出所を考えてみると以下のようになります。
  1 親の躾
  2 学校教育=教師と教科書と友人
  3 多様な情報環境
     現代であれば、マスコミ(テレビ、ラジオ、新聞、雑誌)、インターネット
このように考えると、親の躾はもちろん、マスコミと教科書の重要性が非常によくわかる
と思います。そこで、基本的な疑問をこれらのメディアに向けてしておくことにしましょ
う。今年読んだ7冊の本はどれもこれらの問いかけをして、それらのものが案外信ずるに
は足りないと主張しています。
マスコミが流す情報は信じるに値するか
教科書に書かれている事は信じられるか
専門家の言論は信じられるか
国会の議論は信じるに値するか
政府の言は信じられるか
  裁判の判決は正しいのか

私たちは何を信じて生きていけばいいのでしょうか。

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2016年11月1日火曜日

第49回【1989 時代は角を曲がるか④】

3月」にゼミ生たちは、以下のようなトピックを取り上げました。
「『非グルメ本』続々と」「増える情報誌の就業トラブル」「日朝改善にどう取り組むか」「女子高生拉致し、殺害」「『悪魔の詩』殺人 モスク院長らを射殺」「巨大な墳丘墓もあった 佐賀吉野ヶ里遺跡」
ゼミ生たちが、報告前にトピックが重ならないように相談をしていたわけではないのですが、面白いことに、複数のゼミ生が同じ記事を取り上げるということはありませんでした。1989年は、それにしても、色々なことがあった年です。バブル経済が背景にあったことを常に意識する必要があります。犯罪もそれ以前とは異なった様相を表してきています。前月には「宮崎勤事件」が取り上げられましたが、この月には、「女子高生コンクリート詰め事件」が取り上げられています。今となっては最重要と思われることが、当時はなぜか無視されているという指摘が北朝鮮問題で、この時期の日朝問題では拉致問題が登場しません。リクルート事件もこの年のことです。

私が取り上げた記事は「東独『東欧の改革』批判へ論陣」というものでした。東独は、東欧の優等生で、もっとも成功した共産主義国と言われていました。それ故なのか、ソ連を始めとする兄弟諸国における「改革」に猛烈に反対を唱えました。とはいえ、優等生との評価は過大評価であったことが冷戦後に判明したことを考えると、この時点で自国の抱える問題や「時代の変化」を感じ取ることができなかったことには疑問を感じます。ホーネッカーの最後の足掻きだったのかもしれません。

ゼミ生が「4月」に取り上げた記事は以下のようなものでした。
「消費税スタート」「血液凝固製剤完全国産化へ」「はやくも就職協定110番」「松下幸之助氏 死去」「資生堂と鐘紡、フロン使用スプレー全廃へ 1年以内に代替商品化」「軍縮進展へ課題浮き彫り 国連京都会議」
この月、消費税がスタートしました。日本では3%でのスタートでしたが、ポーランドは今23%、日本人の消費税に対するアレルギーには特別に注目すべきものがあると私は思います。この年は、昭和を代表するような人物が多く亡くなりました。昭和天皇に始まり、松下幸之助、手塚治、美空ひばり・・。

私が取り上げた記事は、読売新聞の「脱出ならず」というキャプションがついた写真でした。東ベルリンの2人の若者が西側への脱出を試みて走り出した瞬間の写真です。試みは失敗に終わり2人は逮捕されたようですが、半年我慢すれば、そんなことをしなくても壁はなくなったのだから皮肉なものです。この記事を取り上げて、東西に分かれたベルリンの歴史の話をゼミ生にしました。ちなみに、逃亡に成功した者は28年間で5000人あまり、192人が射殺されています。

5月」にゼミ生が取り上げたのは以下のような記事でした。
「捏造だったサンゴ取材」「煙たい少女増加の一途(あす、世界禁煙デー)」「ハンガリー、国境の壁撤去」「サッチャー主義貫き『鉄の政権』10周年」「液晶パソコンもカラーの時代に」「帰宅後に急性心不全で死亡 過労と労災認定」
今からわずか25年ほど前のことを振り返っているのですが、パソコンがブラウン管で白黒だったなど、思い出すこともできません。1989年、私は大学院生でしたが、論文は手書きで提出していました。過労死は今でも過去の問題とはなっていませんが、バブルのこの時期はとりわけ問題となっていた記憶があります。友人の妻は、毎日夫が何時に出社し何時に帰宅したかを記録していると言っていたのを覚えています。労災向けの準備だったはずです。

私が取り上げた記事は、「現代学生は『独文』嫌い?」というものでした。東大の独文科が、前年には志望者ゼロ、この年も7人で、この傾向が続いていたため定員を20人に減らされているという記事。世は英語の時代で、21世紀は英語の時代か、などと言われるわけですが、すでにそうなってしまっており、それにいかに向き合うかこそが問題であると思います。英語以外のすべての言語が直面している問題と言えます。ゼミ生たちには、水村美苗『日本語が亡びるとき』をぜひ読むように薦めました。


次回は、「1989」を少し離れて、この年の読書課題についてご紹介致します。

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2016年10月17日月曜日

第48回 【1989 時代は角を曲がるか③】

学生たちが、実際にどのような事件、事実をゼミで取り上げたかを見てみることにしましょう。

ちなみに、1989年は、彼らが生まれた年です。考えてみると、生まれた年に起きたこと、というのは、私自身のこととして考えてみると、昔々の出来事以外の何ものでもありません。今の大学生の中に、ソ連や冷戦を知らない者がいるのも仕方のないことなのかもしれません。

ゼミ生たちは、「1月」に以下のようなものを取り上げました。
「ポケットにファミコン(ゲームボーイの登場)」「南北朝鮮 軍事協議は分断後初」「ゴルフ場建設ラッシュ」「国際事件簿 殴られた婦人警官」「化学兵器 ソ連が廃棄表明」「ブッシュ大統領就任」
1月には、昭和天皇の崩御という大ニュースがありましたが、これは取り上げないという約束で報告をしました。
ゼミ生たちの中には、犯罪マニアっぽいのがいたり、経済に関心の傾く者がいたり、少しズラして受けを狙い続ける者がいたりで、なかなか多様なトピックが毎回取り上げられました。

1月」に私が取り上げた記事は以下のようなものでした。1年を通じて考えてほしいテーマとしてゼミ生に提出しました。
2つの小さな記事を並べて報告をしました。ひとつは、朝日新聞の110日夕刊の記事で、アメリカのシュルツ国務長官が「冷戦は終わった」と発言したというものです。そして、もうひとつは、朝日新聞の123日夕刊の記事で、ブッシュ新政権のスコウクロフト国家安全保障担当補佐官が「冷戦は終わっていない」と発言したというものです。
19891月は、ゼミ生の一人が取り上げていますが、20日でレーガン大統領が退任し、副大統領だったブッシュ(父)が大統領に就任した月です。退任間近の国務長官が「冷戦は終わった」と発言し、就任直後の大統領補佐官がこうした楽観的な見方を退けたということになります。

ここに、冷戦の特色が如実に表れていると言えます。つまり、冷戦がいつ始まり、いつ終わったのかは、実は、はっきりとしないのです。それは、冷戦とは何か、がきちんとした形で定義されていないからです。『ウェストファリアは終わらない』で詳しく論じましたが、冷戦は定義によって、その始まりも終わりも変化してしまうのです。そのような中で、「1989年」は時代の転換の象徴的な年となりうるでしょうか。そもそも、冷戦とは何か。冷戦とは「戦争」なのか。いつ始まり、いつ終わったのか。「冷戦」とは、固有名詞なのか、それとも、普通名詞なのか。答えのないいくつもの疑問をゼミ生にぶつけて、今後こうした疑問を常に意識するように話しました。

ゼミ生たちは、「2月」に以下のようなものを取り上げました。
「いたずら電話 なくす決め手はなぜないのか」「スーダン内戦 和平模索する米」「中国の人口 今世紀末、13億突破か」「男性は中東 女性は日本へ」「『ひどすぎる』母親絶句 人骨入り段ボール箱」「夫婦別姓認めよう」
1989年という年は、今から振り返ると、色々なことのあった年でした。もちろん、この年のゼミのようにして振り返れば、どの年も色々あったのだと思いますが。1989年は、日本はバブル真っ盛りの年でした。4人目のゼミ生の取り上げた記事は、フィリピンの出稼ぎ事情の話ですが、確かに、女性ではフィリピン人が、男性ではイラン人が日本にたくさん来ていたと記憶しています。「1月」にあった「ゴルフ場建設ラッシュ」もバブルの一側面です。

冷戦が終わったかどうかという議論は脇に置くとしても、米ソの対立が緩み、また、共産諸国や途上国に対するソ連の影響力が弱体化したことは間違いのないことでした。冷戦という体制は、国際政治の様々な問題を冷凍保存したようなものだったと振り返って思いますが、冷戦が緩むにつれて、冷凍保存したはずの多様な問題が解凍され動き出しました。2人目のゼミ生が取り上げたスーダンの内戦などは、解凍された問題が動き出したひとつの例であると言えます。これ以後、数十年ぶりに動き出した諸問題に世界は翻弄され、今に至っているのです。

1989年は、日本の犯罪においても印象的な年でした。5人目のゼミ生が取り上げた事件は、有名な「宮崎勤事件」です。今後も、今でも記憶に残る事件が取り上げられます。
2月」に私は、「ポーランド 円卓会議始まる」を取り上げました。


冷戦の終わりが仮に1989年だったとして、ファーガソン流に考えて、その「終わりの始まり」がいつだったかと言えば、1980年のポーランドにおける自主労組「連帯」の結成であったと言うことができるかもしれません。「連帯」は約十年間の苦闘の末に、この円卓会議にたどり着き、6月には自由選挙が行われ、この年のうちにすべての東欧諸国が共産主義を廃し、自由化が達成されるのです。ポーランドは間違いなく新しい時代(これが新しい時代だったとして!)の先駆けとなったのです。

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2016年9月30日金曜日

第47回 【1989 時代は角を曲がるか②】

2010年度のゼミ生に、私が最初に与えた課題は、ハーバード大学の教授で歴史学者のニーアル・ファーガソンの、ごく短い論文『世界史に真の転機をもたらした「1979年」』を読んでそれに論評を加えるというものでした。

ゼミでは、1989年という年が世界史の転換点であったか否かを検証するわけですが、ファーガソンは、その10年前にこそ出発点があると論じています。世界史が大きく転換するという場合には、少なくても20年や30年、あるいはそれよりも多くの年月必要とするのが普通で、それの出発点がいつであったかを論じるのと、変化の数十年の中でその変化を象徴するような事件の起きた年を特定することは、確かに、別のことで、ファーガソンの議論と私のゼミの設定とはその点でズレがあると言えます。ただ、出発点と言ってもいい時点で何があったかを知っておくことは重要であると思います。

ファーガソンが1979年こそ転換点であると論じるのは、この年に以下のようなことがあったからです。ソ連のアフガニスタン侵攻、イギリスの首相にサッチャーが就任、イランにおけるイスラム革命の成功、中国の改革開放路線の開始。これらの余波が現在も国際社会を翻弄しているわけで、ベルリンの壁の崩壊とは、そうした国際社会の大波がもたらした小さな事件に過ぎないというわけです。

確かに、アフガニスタンへの侵攻はソ連の崩壊を促し、さらに、イスラム革命と相俟って、その後の世界中で起きるイスラム原理主義によるテロの原点になり、「文明の衝突」という新しい時代を開いたように見えます。また、改革開放後の中国は順調に経済発展を果たし、アメリカに対抗する超大国として台頭してきています。サッチャー・レーガン流の新自由主義は、その後30年に渡って世界の経済に影響を及ぼしました。ベルリンの壁の崩壊は、こうした世界史の大きな波の中の、小さなエピソードに過ぎないというのがファーガソンの主張であると言えます。

世界を、あるいは、歴史をどう見るか、ということは、それを考える人の立つ場所によって、あるいは、関心の持ち方の角度によって、かなり幅のあるものです。私は、『ウェストファリアは終わらない』で、近代以降の国際政治構造という存在を前提に考えれば、冷戦の終焉という近年最大の国際政治上の変化も、システム上の変化という小波に過ぎないと論じたわけですが、ファーガソンの議論はそこまで射程の広いものではないようです。

20世紀後半に時間を限定して考えてみると、国際政治上の最大の事件は、やはり、ソ連の崩壊で、これに直接的な影響を及ぼしたのは、1985年に登場したゴルバチョフその人だったのではないかと思います。ゴルバチョフ登場から1991年のソ連邦の解体消滅までの6年間を象徴する事件は、やはり、ベルリンの壁の崩壊であると思います。サッチャーやレーガンが重要であるのは、こうしたソ連崩壊にまで行き着いてしまったゴルバチョフの改革路線を側面から支持し支援したことにあったように思います。もちろん、ゴルバチョフの意図していたことは、共産主義ソ連を立て直すことであったのですが。

ファーガソンは、もともと金融史の専門家ですから、サッチャー・レーガンと言えば、経済における新自由主義的改革の旗手としての役割がより重要と考えるのかもしれません。そうした視線からは、世界の見え方が、政治を専門とする私とは異なるのだろうと思います。


学生には、世界は、視点の置き場によって、まったく異なったものに見えることもあると強調しました。1989年が歴史の曲がり角であったか否かは、その視点をどこに置くかによって答えが異なってくる。それ故、議論の最重要点は、置いた視点の置き場所がいかに説得力を持つかということになるわけです。以上のようなことを頭の片隅において1989年を検証するよう話しました。

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2016年9月15日木曜日

第46回【1989 時代は角を曲がるか①】

2010年度の柴田ゼミは、様々な点で曲がり角を迎えました。

まず第1に、前年度に英語のテキストを使ったためにゼミ生が激減、その影響から、2010年度は4年生のゼミ生がいなくなり、新たに加わった6人の3年生のみとなったのでした。ゼミをゼロからスタートさせるかのような感じでした。ただ、3年生にとってこれは幸運であったということが言えるかもしれません。例年、3年生は4年生に遠慮するからか、私との距離をなかなか近づけられない印象があるのですが、この年は4年生がいないことで、私との距離が、3年生としては、例年になく近いものとなった実感がありました。

2に、ゼミのタイトルは今も昔も「国際システムの変容」というものなのですが、この問題意識にひとつの答えを出すことが出来ました。2012年には『ウェストファリアは終わらない』を出版したわけですが、2006年度からのゼミでの考察によって、「現在の国際システムが過渡期にあって、変容しつつあるか否か」という当初の疑問には、自分なりの答えを出すことができました。その成果が『ウェストファリアは終わらない』だったのですが、2006年にゼミを始める前にはほとんど考えもしなかった結論に達したのでした。この年でこの関心には区切りをつけ、次年度からはまったく新しいテーマとなることを予感しながら1年を過ごしました。
大学の講義やゼミ、学生とのかかわりは、生き物あるいは生ものだなとつくづく感じる時があります。同じことの繰り返しということはないのです。

2010年度のテーマは「1989 時代は角を曲がるか」というものでした。

1989年は、年が明けてすぐに昭和天皇が崩御し、6月の同じ日に、ポーランドでは戦後初の自由選挙が行われたのに対して、中国では天安門事件が起き、119日にはベルリンの壁が崩壊し、12月末までには東ヨーロッパのすべての国が恐る恐る自由化を達成し、なんとそれをゴルバチョフ率いるソ連が容認し、年の最後には、ルーマニアの独裁者チャウシェスクが処刑されることで幕を閉じた1年でした。戦後長く続いた冷戦が終わりを告げた年とされています。

「時代が変わった」とか「世界はその時曲がり角を曲がったのだ」とか言われることがありますが、1989年はそのような年であったでしょうか。あるいは、そういう年としては2001年の方が相応しいでしょうか。20019月11日には、アルカイダによるニューヨークと国防総省への航空機によるテロがありました。それによって世界は変わったでしょうか。

1989年を検証するために、学生たちには新聞の縮刷版を使って1989年の新聞を克明に読ませました。ゼミの2回を使って1ヶ月を扱うこととしました。420日と27日に「1月」をテーマとしました。ゼミ生は、1月の新聞を読んで、もっとも自分が注目すべきだという事件、事実を取り上げて、背景などを調べ、ゼミで報告をし、それらを全員で討論しました。ちなみに、私も学生に混じって同じ報告をしました。
ゼミ生が注目する事件、事実には、予想もしないものもありました。たとえば、1月には、「この月に、任天堂のゲームボーイが登場」という報告をしたゼミ生がいましたが、確かに、こういうものが若者の生活を根底から変えるのかもしれません。

2010年度は、学生に課題図書として多くの本を読ませました。学習院では、ひとつのゼミに1年間で20万円の予算がつくのですが、私のゼミでは、10万円を合宿の費用の補助に、10万円を課題図書の購入に当てることにしています。ゼミ生の人数が少なくなればそれだけ多くの本が買えるようになるわけで、2010年度のゼミ生は幸運であったと言えます。私は、せっかくなので、ひとつの一貫したテーマを設けて本を選びました。7冊の本を与え、レポートをそれぞれについて提出させました。意外な反応でしたが、普段本を読まない学生たちが、レポートがあっても構わないからもっと本を与えて欲しいと言ってきたりしました。この読書の課題についても、後ほど報告します。

次回からは、私が学生に出した課題、発したメッセージや学生たちが取り上げた事件、事実などをご紹介していきたいと思います。

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2016年8月30日火曜日

第45回【保護する責任⑦】

さて、リアリズムをベースにして国際政治を考えてみると、国際政治はどのようなものに見えるでしょうか。

詳しくは『ウェストファリアは終わらない』に書きましたが、私は現在の国際政治を「主権国家構造」と呼ぼうと思っています。これを「ウェストファリア構造」と呼び代えても構いません。すなわち、主な要素を主権国家とし、その要素間の関係を国際法と戦争をも含んだ外交が規律している社会が国際社会です。そこには、中央政府が存在していません。しかし、だからと言って、国際社会が無秩序というわけではありません。国際社会には、国際法や国際組織や国際慣行が分厚く存在していて、中央政府がないにもかかわらずそれなりに秩序は存在しているのです。よくアナーキーを「無秩序」と訳す人がいますが、それは間違っています。「無秩序」はdisorderです。アナーキーはあくまで「無政府状態」で、そこに秩序が存するか否かは本来問題ではありません。もちろん、アナーキーであれば秩序の欠如している可能性は高いのは間違いのないところで、国際社会が研究に値するのは、アナーキーなのにそれなりに秩序が存在しており、それがなぜかを考えることに意味があるということであると私は思います。

さて、こうした国際構造から導き出される最大のルールこそが「内政不干渉」原則です。今年の最大のテーマは、この「内政不干渉」原則と「干渉・介入」をどう両立させたらいいか、という努力を跡付けることであったわけです。「保護する責任」はそれに成功しているでしょうか。ちなみに、「内政不干渉」原則と対をなしている概念こそが、去年のテーマであった「難民の保護」義務であるわけです。国境の内側には干渉しないけれども外にこぼれてきた人たちは徹底的に保護するというのが、このコインの裏表の考え方です。ただ、去年勉強して分かっている通りですが、本当に悲惨な状態に置かれているのは、国境の外に運よく逃れられた人々ではなく、国境の内側に残された人々であるわけで、「保護する責任」という概念はこの最も悲惨な状態に置かれた人々を何とか助けられないだろうかという倫理的・道義的義務感から発していると言えます。ただ、この概念はより広い概念で、そもそもこうした悲惨を未然に防ぐとか、介入の後も社会の再建に協力するというところまでを含み込んでいます。

さて、私は、物事が大きく変化する場合には、言い方を変えると、パラダイム・チェンジの際には、最も例外的な事象にその変化の兆しが現れるのではないかという仮説を持っています。

主権国家からなる国際社会において最も例外的な位置にある存在こそが難民あるいは国内避難民であり、これに対する国際社会のあり方の中に次の時代の芽があるのではないかという気がしているのです。「保護する責任」という新しい概念はまさにこうしたことに対するものとして国際社会に提出された概念であると言えます。「保護する責任」という概念の登場は国際社会のパラダイム・チェンジの兆候と言えるでしょうか。これを考えることが今年のテーマの真の目的であったわけです。

現代の国際社会には、自国の国民の保護を全うできない国家が続出しています。国家に代わって国際社会がこの保護を引き受けるとすれば、論理的には、世界政府が実現しなければならないということになります。責任を引き受ける個々の国家を建て直すのと、世界政府を樹立するのとではどちらが未来の国際社会像に近いのでしょうか。

「保護する責任」とは、人民を保護する責任は一義的に主権国家に存し、その主権国家がその責任を全うできない、あるいは、全うする意志が無い場合には、国際社会がその主権国家に代わってその責任を全うする義務があるというものの考え方です。これは「内政不干渉」原則に対する挑戦でしょうか。それとも、もっとささやかな試みに過ぎないのでしょうか。

1年をかけて報告書を読んだ限りで言えば、「保護する責任」委員会は「内政不干渉」原則に挑戦する意志はないようですし、現在の国連の存在を前提にしてすべての議論を構築しています。しかし、委員会の意図と、それが生み出す結果が同じになるとは限らない、というのが国際政治の面白いところでもあり難しいところでもあるのです。

この新しい概念は、それが仮にあるとして、パラダイムの転換を誘発する可能性のあるものとなるでしょうか。それとも、これまでにも出ては消えてきた新しい概念のひとつになるのでしょうか。私はこのことを問い続けなければならないと思います。こうした「概念」の積み重ねが国際社会を間違いなく変化させると考えるからです。

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2016年8月14日日曜日

第44回【保護する責任⑥】

国際政治の根源的な変化が、私たちの目の前で起きつつあるのか否か、それを考えることがこの年の真のテーマでした。国際政治における根本的変化とは、主権国家とは異なった権威が登場し、国際政治というゲームのルールが大きく変化するということで、内政不干渉原則がどのように変化するかということがその試金石であると私は思います。R2Pは内政不干渉原則に挑戦する概念かもしれないというのがこの年のゼミの問題意識でした。

こうした背景がありましたので、私の話は少し大きな話となりました。「国際政治にパラダイムチェンジはあるか」というタイトルでゼミ生に講義をしました。以下、その内容です。

「パラダイム」という言葉を聞いたことがあると思います。この語が今のように様々な場面で使われるようになった原点はトーマス・クーンの『科学革命の構造』という本です。この本は1962年出版されたものですが、私は故あって大学3年の時に東京工大の数学の天才たちと一緒にこの本の読書会に参加する機会に恵まれました。非常にエクサイティングな経験でした。

簡単に言うと、パラダイムとは、この世界の仕組みを説明するグランド・セオリーのことで、たとえば、物理学の世界では、ある時代まではニュートン力学がパラダイムであり、その後のパラダイムを提出したのがアインシュタインというわけです。パラダイムには詳細にこの世界のすべてをカバーする理論が網羅されているわけではありません。そうしたあらゆる理論の背景にあって、それらの理論を支え、さらにヒントを与え続けるものこそがパラダイムなのです。

クーンが提出したパラダイムに対応する概念が、クーンによれば「通常科学」というもので、これはパラダイムが提出する様々なヒントや仮説を証明してゆく営みで、普通の科学者の仕事がまさにこれに当たります。ところが、こうした普通の科学者の仕事の中から、パラダイムでは解答不能の様々な問題が発見されます。実は、パラダイムとは常に暫定的なもので、更なる疑問に答えを出すためには、新しいパラダイムの誕生が必要とされるようになります。新しいパラダイムを提出する存在こそまさに「天才」なわけです。

我々のゼミのテーマは、残念ながら、理系の、つまり、明確にパラダイムが存在する世界での話ではありません。国際政治学にはパラダイムが存在しません。あるいは、国際政治という人間の営みがパラダイムというひとつの大きな仮説では説明しきれないほどに複雑であるのかもしれません。人間の営みは、良くも悪くも、自然現象よりも複雑であるのです。
とはいえ、国際政治学も学問である以上、パラダイムめいたもの、あるいは、その候補ぐらいは存在しています。私はその最有力のものがリアリズム(現実主義)であると思います。リアリズムは国際政治学においても多様な批判をなされていますが、それでもなお国際政治という人間の営みをトータルに説明しようとする数少ない知的営為のひとつであると私は思います。

リアリズムは、国際政治の本質を、主権国家間のパワー・ゲームとして受け止めます。その思考の出発点は、国際社会とは政府の存在しない、つまり、その構成要素である主権国家が自分のことは自分で守り自分で自分の利益を増進する以外にはない場、すなわち、アナーキー(無政府状態)な世界だという認識にあります。

リアリズムには多くの批判があります。たとえば、リアリズムが主要な要素とする主権国家はすでに力を失いつつあるとか、主権国家以外の主体、たとえば、多国籍企業や国際機構、NGOなどが国際社会で力を持ちつつあるとか、国際社会は必ずしもアナーキーではないとか、国際社会には国内社会とは異なった秩序が存在している、などなど。これらの批判はどれも多かれ少なかれ正しいものであると思います。そうは言っても、リアリズムの提出するものの考え方のすべてを否定し去ることは不可能であると私は思います。そう考えるという点で、私は自分がリアリスト(現実主義者)であることを認めようと思っています。


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2016年7月30日土曜日

【第43回】保護する責任⑤

国連事務総長への国際委員会の報告を読んで、ゼミ生たちに与えた課題は以下のようなものでした。

「保護する責任という概念の限界と可能性について考察せよ」

日本人は、国連に対して、幾分か的外れと言ってもいいくらいの超国家的な存在としての期待をしているように思います。しかし、国連憲章を始めとする多様な国連発の文書を読んでみると分かるように、国連とは、とことん主権国家の集合体に過ぎず、主権国家の持つ諸々の権利を侵すことなく存在する、まさに国際機関であるのです。主権国家の立場から考えてみると、自らの持つ主権を脅かされない限りにおいて国連の存在を認め、それに加盟するかもしれない、ということいになります。

ですから、国連から出される文書を読んで、てっきり国連が超国家的な存在であると思っている人がまず第一に感じることは、無力感であると思います。主権国家では解決できない問題に取り組むのが国連だと思っていたのに、その国連は何よりもまず主権の絶対性を肯定し、そこを出発点として問題に取り組もうとすることが明らかだからです。

ゼミ生たちは若いのですから、こうした「現実」に対して大きな疑問を感じて欲しかったのですが、彼らは案外大人で、主権の絶対性やそこから導き出される内政不干渉原則という現在の国際社会の大原則や常識に根底から異を唱えることはありませんでした。
私は、こうした常識に疑問を呈して、ゼロベースで国際秩序を考え直すゼミ生が出てくることを、実は望んでいるのですが、残念ながら、なかなかそういう学生は現れません。もちろん、そのような試みはどこかで挫折せざるを得ないわけですが、この挫折を乗り越えて初めて現代の国際社会を考える眼が養われるのです。私の場合、若い時分に国連に失望し、それでも国連しかないのかと思い至るまでに10年以上の時間を要しました。

この年のゼミ生の論文には、現代の国際社会を根底から問い直すようなワイルドな論文はありませんでした。保護する責任という新しい概念の限界と可能性を、それなりにうまくまとめたものが揃ったわけですが、全体として、保護する責任という概念の登場に可能性を認めるものの、将来性についてはよく分からない、というのが共通した結論であったと思います。


英文を読みながら全員が痛感していたのは、まさに無力感でした。悲惨な状況に置かれている人々に手を差し伸べるという行為ですら、国家主権と内政不干渉原則にがんじがらめに縛られて、また、大国や周辺諸国の利害関係に翻弄されて、結局は、うまく機能する余地がない。それらの間にあるかもしれないわずかな隙間に新しい概念を埋め込むことで、そうした行為を実現しようとするわけですが、それすら簡単にはいかない。そして、その間にも多くの無力で無実の人びとが悲惨な状況に投げ込まれ、そこから抜け出せないまま放置される。どうにかならんのかねえ、というのが毎回のゼミでの私たちの感想でした。それと同時に、私たちがいかに恵まれた環境で生きているかを痛感するのでした。

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2016年7月15日金曜日

【第42回】保護する責任④

「保護する責任(R2P)」とは、どのような概念でしょうか。

そもそもこうした概念の登場の背景には、国際政治上の様々な悲惨があります。R2Pに直接つながるものとしては、1992年から93年にかけての国連平和維持活動のソマリアにおける大失敗、1994年のルワンダの大虐殺、1995年のボスニア・スレブレニツァにおける虐殺、そして、1999年のNATOによるコソボ空爆があげられます。どの事例も、国家が国民を保護できず、あるいは、保護する意思がなく、それに対して国際社会が対応したにもかかわらず十分に機能できなかったものです。こうした事態により有効に国際社会が対応するためにはどうしたらよいか、という問題意識がR2Pという概念の登場を促しました。

こうした人道的な危機において、国際社会の活動の前に立ち塞がるのが、国家主権と内政不干渉原則という概念で、上にあげた事例のどの場合でも、こうした国際法上の原則を忖度(そんたく)することで、対応が不十分に終わり、結局は、大規模な悲惨を抑止することができなかったのでした。国家主権と内政不干渉原則という概念に、いかに風穴を開けて介入・干渉を実行するか、そのための有力な概念の工夫こそR2Pであるのです。

「保護する責任」とは、国家主権には人々を保護する責任が伴い、国家がその責任を果たせない場合には、国際社会がその責任を国家に代わって果たさなければならないというもので、国際社会の「保護する責任」は不干渉原則に優先するという考え方のことです。

国連は、その憲章において、本質的に国家の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を持たないとされているのですが、そうした限界を踏み越えようとする試みと位置付けられます。

それ以前にあった「人道的介入(干渉)」という概念とほとんど違わないように見えますが、「人道的介入」が介入する側の視点、ある意味、上からの目線であるのに対して、R2Pは、支援を求める側からの視点であり、また、第一の責任はあくまでも当該国家にあるのだという視点がもたらされる故に、国際社会により受け入れられ易い概念であると言われています。

保護する責任が、主権国家にあるだけでなく、それが国家によって実現しない場合には、国際社会にその責任があるとしたことに大きな特徴があると言えますが、この概念にも多様な問題があります。
そもそも国際社会とは何でしょうか。誰が、国際社会による、ある国家に対する干渉を決定するのでしょうか。国連安全保障理事会がもっとも相応しいのは言うまでもないのですが、経験的に言って、重大な問題になればなるほど、安保理がうまく機能しないことは明らかです。

また、国際社会による介入は、ある意味、余計なお世話であって、それは新しい植民地主義であるとの議論もあります。国連による介入のある段階では、委任統治的な段階が確かにあるわけで、それは、植民地主義の延長線上の政策に非常に似通ったものとならざるを得ません。植民地から独立した諸国が多数を占める国連においては、こうした議論はなかなか難しいのです。

ゼミで読んだ国連の報告書とは、以下のようなものです。
20009月にカナダのアクスワージー外相が設置した「干渉と国家主権に関する国際委員会(International Commission on Intervention and State Sovereignty ICISS)」が、200112月にアナン国連事務総長に対して提出した報告書です。そのタイトルが「The Responsibility to Protect(保護する責任)」。ICISSの委員長は、ギャレス・エバンス元オーストラリア外相とアルジェリア人であるモハメド・サヌーン国連事務総長特別顧問。委員は、カナダ、アメリカ、ロシア、ドイツ、南アフリカ、フィリピン、グアテマラ、インドの学者や政治家や外交官でした。委員会は、世界各地で、政府関係者、学者、NGOなどを招いて議論を行い、この報告書をまとめ上げていきました。


ゼミ生たちが格闘したのは、このような報告書だったのです。

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2016年6月30日木曜日

【第41回】保護する責任③

国家は、現代においては、国民を保護する義務を負っています。世界中のすべての人がどこかの国に所属している、つまり、国籍を持っていることを考えると、ひとりひとりのすべての人がどこかの国家に保護をされているということになるのですが、残念ながら、すべての国家が平等に十分に国民を保護できる状態にはありません。すべての国民を十分に保護できる国家から、その保護が不十分な国家、そして、そもそも国民を保護する意思のない国家まで、現代の世界には多様な国家が存在しています。

このように考えると、国家によって十分な保護が与えられている国民と、国籍を持つ国家以外の国家から保護されている難民と、そして、どこからも保護されていない人びとが世界には存在しているということが分かります。どこからも保護をされていない人びととはどのような人びとでしょうか。自国の国境を越えず、すなわち、母国に留まり、しかも、その国家が人びとに保護を与えられないか、与える意思のない状態に置かれている人々ということになります。現代における人間の生において、国家の提供する保護が決定的に重要であるとすれば、それを欠いているという点で、もっとも悲惨な状態に置かれている人々と考えることができます。

国際社会は、こうした人びとを無視したり放置するほど冷たくはありません。昔であれば、こうした人びとが世界のどこかにいることを知ること自体なかなか困難でした。現代においては、情報はより迅速に伝わります。ジャーナリストなどの果たす役割は今も昔もたいへんに重要であると言えます。問題は、いかにしてそうした人びとに手を差し伸べるかということなのですが、実は、これが案外難しい。

国内に保護を受けることのできない避難民が存在する国家が、他国や国際機関の介入を認めてそれを迎え入れるのであれば、話はかなり簡単です。しかし、こうした避難民が存在するということは、そこに国家の正常な機能を失わせる何らかの紛争などのような事態が起きているからで、通常の場合、その国家は他国や国際機関が国境を越えて自国民に影響を及ぼすことを嫌います。また、国家自体が国民の保護を履行する意思がないのであれば、そうした国家はそもそも他国からもそうした援助を受ける意思を持たないのが普通です。
国家の保護を受けられない悲惨な状態の中にいる人びとの前に立ちはだかっているのは、物理的、経済的、軍事的障害というよりは、実は、法的な原則の問題なのです。たとえそれが人道的に正しい行為であるとしても、内政不干渉原則を侵して他国に干渉することは、現代の国際法秩序の下では、許されないことなのです。

2009年度のテーマ「保護する責任」とは、こうした状態を突破しようとするアイディアだと位置づけることができます。「保護する責任」は、英語で、「The Responsibility to Protect」と言い、国連では、これを略して「R2P」と呼んでいます。これまでにも、内政不干渉原則の例外を求める試みが繰り返し国連において議論されてきました。「人道的介入(干渉)」などがもっともよく知られたものかもしれません。R2Pはその最新のもので、たぶん、もっとも有力なものであると思います。もちろん、これまでも有力とされる概念が出ては消えしてきたことを思えば、R2Pもそうした消え行く概念の一番新しいものなのかもしれません。

国境を越えて援助を与えることに伴う困難の最大のものは、こうした行為に軍事的な介入が不可欠であるということです。援助する側の安全が確保されなければ援助は効果的に避難民に届けることができないわけですが、この安全の確保には、軍隊の存在が不可欠です。国家が国民に保護を提供できない状況の最大の問題は秩序の欠如なのですが、秩序の回復には軍隊の効果的な介入と駐留が欠かせないものとなります。日本のような平和な社会では通常意識されないわけですが、秩序の背景には効果的な暴力の存在が不可欠です。つまり、人道的な干渉には軍事的な側面が不可欠で、ところが、他国の軍事的な介入を易々と受け入れる国家は存在しません。こうした介入をいかに当該国家に認めさせるか、あるいは、その国家が認めないとしても、どのようにしてそうした軍事面を伴う介入・干渉を現在の国際社会で正当化するか、が問題の核心となるわけです。

R2Pのような概念が国連で議論され続けるのは、以上のような理由からです。

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