2016年1月31日日曜日

【第31回】難民は夢を見るか①

2008年度のテーマは「難民は夢を見るか」でした。毎年ゼミのタイトルは考えに考えるわけですが、私はこの年のこのタイトルが今までで一番だったと思います。

毎年そうですが、ゼミのテーマは夏明けから11月くらいまでには決定し、年末には翌年度のシラバス用の原稿を提出します。
テーマは、私の関心で選びますが、そのテーマがどこに行きつくかはその時点ではまったく分かっていません。過去に勉強して結論の出ているテーマを選んでいるわけではありません。思わぬ結論になる場合もありうるのですが、そういうことはめったにありません。ただ、2008年度は、こんな風な結論になるとはまったく考えてもいない、そんな結論に達しました。自分が潜在的に考えていたことが、このテーマを勉強しているうちに、内側から浮き出てきた、そんな感覚を感じました。

ここでの考察が『ウェストファリアは終わらない』の第1章になったのです。

2008年度のテーマは、もちろんタイトルとしては「難民は夢を見るか」というものだったわけですが、根源的には、人間とは何だろうか、国家とは何だろうか、人間と国家はどのように関わっているのだろうか、とうことを考えることだったように思います。また、これは毎年のゼミを通じて一貫していることですが、私たちがどんな世界に生きているかを知ることのひとつの切り口であったとも言えます。

まず、なぜ「難民」なのかについてお話ししましょう。

現代の世界の最大の特色は何かと言えば、それは、60億を超える人々のひとりひとりがあるひとつの国家に所属していて、それが現実に実現しているか否かは別としても、その国家の保護を受けることになっているということであると言えます。そして、その国家の深い刻印を濃厚に留めながら人は人生を生きることになります。

難民とは、一時的に(もちろん、場合によっては一時的とは言えないような長さになる場合もあるのですが。たとえば、パレスチナ難民のように)、国家の保護を離れざるを得なくなっている人たちです。
戦争や内戦や自然災害など、原因は様々ですが、国家が国民を保護できなくなり、国境を超えて助けを求めて国家を出た人たちが「難民」と呼ばれます。同じような苦境にあっても国境を出られない人たちは「国内避難民」などと呼ばれて「難民」と区別されます。国際法においては、「難民」と「国内避難民」では大きくその持つ権利が異なってきます。ある意味で、国内避難民の方が悲惨です。「難民」としての権利を欠いているからです。「難民」とは、法的な地位のことでもあるのです。

国家の保護を受けられないというのは、現代においては、明らかに例外状況で、こうした例外状況でこそ現代に生きる人間と国家とその関わりがよりよく見えるのではないか、これが「難民」をテーマに取り上げた理由です。例外にこそ、その時の状況が典型的に現れる、というのはひとつの大胆な仮説ですが、私は、この仮説を信じています。

難民の置かれた状況をできるだけ詳しく具体的に見ることで(いわば虫の眼で)、逆に、より大きな視点が得られるのではないかとも考えました(いわば鳥の眼で)。つまり、難民が、程度の差はあるにしても、何らかの悲惨な状況に置かれているのであるとすれば、それは難民が祖国から引き剥がされた存在であるからであって、こうした悲惨な状況をいくらかでも緩和し、できればなくすために、どのような世界を私たちが構想し作り上げていくべきであるかを考えざるを得ません。難民を考察するというミクロな視点が、こうした、世界を構想し直すといったマクロな大きな視点の出発点になるのではないかと考えたのでした。

次回から、学生たちがどのような難民を取り上げて勉強をしたかについてご紹介致します。

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2016年1月16日土曜日

【第30回】正しい戦争⑪

「正義」についての正しい態度は、面倒くさがらずに、常に状況を判断して「正義」を求め続けることです。その場合、「正義」を2つの段階に分けることが有効であると思います。

1に、「正義」のfloor(床、足元)を確立することです。これが「正義」について考え行動する場合の最初の課題となりますが、人類はまだこの課題を果たす段階に達していません。これが具体的にどんなことを意味するかと言えば、どんな状況においても守られるべき「正義」についてあらゆる主体が合意することです。つまり、どんな人々の間においても、どんな国々の間においても、どんな状況に置かれようとも、守られなければならない「正義」が存在することに合意し、しかも、その細目を網羅しそれらに合意するということです。しかも、こうしたことでさえも、時代が移り変われば変化していくことを認めなければなりません。

その上で、第2に、「正義」のceiling(天井)をより高くする努力を怠らないことです。「正義」のfloorはすべての主体が合意できる最低限度の「正義」なわけですが、その内容をできるだけ豊かにし、より高い次元を目指してたゆまぬ努力をすることが人間には求められます。

floor
が人類共通の「正義」となるべきものであるのに対して、ceilingは、それを常に高めようとする努力が伴わねばならないわけですが、それに係る人や国、状況によって、天井の高さは異なる場合があります。

「正義」は、残念ながら、現在の国際社会ではひとつではありませんから、「寛容」であることが絶対的に必要となります。ここで言う「寛容」とは、「正義」が複数存在し得ることを弁えて、自分の有する「正義」とは異なった「正義」の存在を許すということです。私は、世界における多様性の価値を考えれば、「寛容」こそがもっとも重要な「正義」であると思っています。正義のfloorを支え、ceilingを高くするものこそ「寛容」なのです。

この年度のテーマは「正しい戦争」でした。戦争の核心は暴力の行使です。暴力の行使とは悪でしょうか。今の日本では暴力の行使と聞けば、それを悪だと思う人が大半かもしれません。確かに、暴力の行使それ自体は「善」とは言えません。しかし、状況によっては「悪」とは言い切れない場合があることを理解することはそれほど難しいことではありません。つまり、恋人が目の前で暴漢に暴行されそうになっているのを見て、「話せば分かる」と言って手をこまねいているとすれば、それは「正義」と呼べるでしょうか。やはり、命がけで立ち向かう、つまり、暴力を行使することこそ正義ではないでしょうか。

論理的に、「正義」と「戦争」「平和」との結びつきには4つの形態が考えられます。つまり、①正しい戦争、②邪悪な戦争、③正しい平和、④邪悪な平和、です。これらを区別するためには、やはり、「正義」とは何かが明らかにされなければなりません。奴隷の平和をも平和と考える人もいるかもしれません。善意で始めるのであれば、どんな戦争も正義の戦いだと考える人もいるかもしれません。しかし、奴隷として生きる人生を平和と呼ぶことができるでしょうか。あるいは、他の国家の意思を無視する善意を正義と呼ぶことが可能でしょうか。正しい戦争や正しい平和でさえも簡単に確定できるものでないことは、以上のようなことをちょっと考えてみるだけでも理解できることです。


私たちは「邪悪な平和」を退ける勇気を持たなければなりません。また、私たちは「正しい戦争」を戦う勇気も持たなければなりません。そして、そのためにも、正邪を見分ける「眼」を養い、それを持つようにならなくてはいけません。そのためには、生涯、面倒がらず考え続けなくてはなりません。そうした「眼」とは、「常識に裏打ちされた状況判断」のことだと私は思いますが、これを身に付けるのが実に至難の業であるとつくづく思うわけです。



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