2016年8月30日火曜日

第45回【保護する責任⑦】

さて、リアリズムをベースにして国際政治を考えてみると、国際政治はどのようなものに見えるでしょうか。

詳しくは『ウェストファリアは終わらない』に書きましたが、私は現在の国際政治を「主権国家構造」と呼ぼうと思っています。これを「ウェストファリア構造」と呼び代えても構いません。すなわち、主な要素を主権国家とし、その要素間の関係を国際法と戦争をも含んだ外交が規律している社会が国際社会です。そこには、中央政府が存在していません。しかし、だからと言って、国際社会が無秩序というわけではありません。国際社会には、国際法や国際組織や国際慣行が分厚く存在していて、中央政府がないにもかかわらずそれなりに秩序は存在しているのです。よくアナーキーを「無秩序」と訳す人がいますが、それは間違っています。「無秩序」はdisorderです。アナーキーはあくまで「無政府状態」で、そこに秩序が存するか否かは本来問題ではありません。もちろん、アナーキーであれば秩序の欠如している可能性は高いのは間違いのないところで、国際社会が研究に値するのは、アナーキーなのにそれなりに秩序が存在しており、それがなぜかを考えることに意味があるということであると私は思います。

さて、こうした国際構造から導き出される最大のルールこそが「内政不干渉」原則です。今年の最大のテーマは、この「内政不干渉」原則と「干渉・介入」をどう両立させたらいいか、という努力を跡付けることであったわけです。「保護する責任」はそれに成功しているでしょうか。ちなみに、「内政不干渉」原則と対をなしている概念こそが、去年のテーマであった「難民の保護」義務であるわけです。国境の内側には干渉しないけれども外にこぼれてきた人たちは徹底的に保護するというのが、このコインの裏表の考え方です。ただ、去年勉強して分かっている通りですが、本当に悲惨な状態に置かれているのは、国境の外に運よく逃れられた人々ではなく、国境の内側に残された人々であるわけで、「保護する責任」という概念はこの最も悲惨な状態に置かれた人々を何とか助けられないだろうかという倫理的・道義的義務感から発していると言えます。ただ、この概念はより広い概念で、そもそもこうした悲惨を未然に防ぐとか、介入の後も社会の再建に協力するというところまでを含み込んでいます。

さて、私は、物事が大きく変化する場合には、言い方を変えると、パラダイム・チェンジの際には、最も例外的な事象にその変化の兆しが現れるのではないかという仮説を持っています。

主権国家からなる国際社会において最も例外的な位置にある存在こそが難民あるいは国内避難民であり、これに対する国際社会のあり方の中に次の時代の芽があるのではないかという気がしているのです。「保護する責任」という新しい概念はまさにこうしたことに対するものとして国際社会に提出された概念であると言えます。「保護する責任」という概念の登場は国際社会のパラダイム・チェンジの兆候と言えるでしょうか。これを考えることが今年のテーマの真の目的であったわけです。

現代の国際社会には、自国の国民の保護を全うできない国家が続出しています。国家に代わって国際社会がこの保護を引き受けるとすれば、論理的には、世界政府が実現しなければならないということになります。責任を引き受ける個々の国家を建て直すのと、世界政府を樹立するのとではどちらが未来の国際社会像に近いのでしょうか。

「保護する責任」とは、人民を保護する責任は一義的に主権国家に存し、その主権国家がその責任を全うできない、あるいは、全うする意志が無い場合には、国際社会がその主権国家に代わってその責任を全うする義務があるというものの考え方です。これは「内政不干渉」原則に対する挑戦でしょうか。それとも、もっとささやかな試みに過ぎないのでしょうか。

1年をかけて報告書を読んだ限りで言えば、「保護する責任」委員会は「内政不干渉」原則に挑戦する意志はないようですし、現在の国連の存在を前提にしてすべての議論を構築しています。しかし、委員会の意図と、それが生み出す結果が同じになるとは限らない、というのが国際政治の面白いところでもあり難しいところでもあるのです。

この新しい概念は、それが仮にあるとして、パラダイムの転換を誘発する可能性のあるものとなるでしょうか。それとも、これまでにも出ては消えてきた新しい概念のひとつになるのでしょうか。私はこのことを問い続けなければならないと思います。こうした「概念」の積み重ねが国際社会を間違いなく変化させると考えるからです。

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2016年8月14日日曜日

第44回【保護する責任⑥】

国際政治の根源的な変化が、私たちの目の前で起きつつあるのか否か、それを考えることがこの年の真のテーマでした。国際政治における根本的変化とは、主権国家とは異なった権威が登場し、国際政治というゲームのルールが大きく変化するということで、内政不干渉原則がどのように変化するかということがその試金石であると私は思います。R2Pは内政不干渉原則に挑戦する概念かもしれないというのがこの年のゼミの問題意識でした。

こうした背景がありましたので、私の話は少し大きな話となりました。「国際政治にパラダイムチェンジはあるか」というタイトルでゼミ生に講義をしました。以下、その内容です。

「パラダイム」という言葉を聞いたことがあると思います。この語が今のように様々な場面で使われるようになった原点はトーマス・クーンの『科学革命の構造』という本です。この本は1962年出版されたものですが、私は故あって大学3年の時に東京工大の数学の天才たちと一緒にこの本の読書会に参加する機会に恵まれました。非常にエクサイティングな経験でした。

簡単に言うと、パラダイムとは、この世界の仕組みを説明するグランド・セオリーのことで、たとえば、物理学の世界では、ある時代まではニュートン力学がパラダイムであり、その後のパラダイムを提出したのがアインシュタインというわけです。パラダイムには詳細にこの世界のすべてをカバーする理論が網羅されているわけではありません。そうしたあらゆる理論の背景にあって、それらの理論を支え、さらにヒントを与え続けるものこそがパラダイムなのです。

クーンが提出したパラダイムに対応する概念が、クーンによれば「通常科学」というもので、これはパラダイムが提出する様々なヒントや仮説を証明してゆく営みで、普通の科学者の仕事がまさにこれに当たります。ところが、こうした普通の科学者の仕事の中から、パラダイムでは解答不能の様々な問題が発見されます。実は、パラダイムとは常に暫定的なもので、更なる疑問に答えを出すためには、新しいパラダイムの誕生が必要とされるようになります。新しいパラダイムを提出する存在こそまさに「天才」なわけです。

我々のゼミのテーマは、残念ながら、理系の、つまり、明確にパラダイムが存在する世界での話ではありません。国際政治学にはパラダイムが存在しません。あるいは、国際政治という人間の営みがパラダイムというひとつの大きな仮説では説明しきれないほどに複雑であるのかもしれません。人間の営みは、良くも悪くも、自然現象よりも複雑であるのです。
とはいえ、国際政治学も学問である以上、パラダイムめいたもの、あるいは、その候補ぐらいは存在しています。私はその最有力のものがリアリズム(現実主義)であると思います。リアリズムは国際政治学においても多様な批判をなされていますが、それでもなお国際政治という人間の営みをトータルに説明しようとする数少ない知的営為のひとつであると私は思います。

リアリズムは、国際政治の本質を、主権国家間のパワー・ゲームとして受け止めます。その思考の出発点は、国際社会とは政府の存在しない、つまり、その構成要素である主権国家が自分のことは自分で守り自分で自分の利益を増進する以外にはない場、すなわち、アナーキー(無政府状態)な世界だという認識にあります。

リアリズムには多くの批判があります。たとえば、リアリズムが主要な要素とする主権国家はすでに力を失いつつあるとか、主権国家以外の主体、たとえば、多国籍企業や国際機構、NGOなどが国際社会で力を持ちつつあるとか、国際社会は必ずしもアナーキーではないとか、国際社会には国内社会とは異なった秩序が存在している、などなど。これらの批判はどれも多かれ少なかれ正しいものであると思います。そうは言っても、リアリズムの提出するものの考え方のすべてを否定し去ることは不可能であると私は思います。そう考えるという点で、私は自分がリアリスト(現実主義者)であることを認めようと思っています。


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