2016年11月30日水曜日

第51回【1989 時代は角を曲がるか⑥】

人間が、生まれて以後、外から取り入れる情報によって真の人間になっていかざるを得ないのは宿命と言ってよいものです。その結果、何らかの形で本当の世界(本当の世界とは、人間には知りようのないものと言えます)とずれてしまうのも仕方がないことです。しかしながら、その「ずれ」を最小限にする努力はすべきだと思います。この「ずれ」が尋常でないものとなった人を私たちは「狂人」と呼ぶのです。だから、取り入れる情報が適切であることが必要となります。私たちはそれに値する情報に取り囲まれていると言えるでしょうか。

そこで重要になるのは正しく情報を見分けることとなります。
以下、情報を見分けるポイントを簡単に述べます。
1 事実(ファクト)と解釈を区別する
2 信頼に足る1次情報と2次・3次の情報を区別し検証する
3 証拠なき解釈を常に疑う
4 同じ事実に直面しても複数の解釈があり得ることを知る
5 解釈に「常識」を働かせる

「常識」とは何かと言えば、長い歴史の中で積み重ねられ、試され生き残ってきた良識のことです。次に、どのようにして「常識」を知るかということが問題になりますが、それは真面目に生きること以外にありません。

そして、もうひとつ重要な心構えがあります。それは、この世のほとんどのあらゆる議論が「仮説」に過ぎないことを知ることです。私たちの周りには過去から未来永劫変わらぬ真実というものはほとんど存在していません。人間は元来面倒臭がる動物ですから常に考え続けるということをしたがりません。ですから、すべてを疑ってかかるということは極めて難しいことなのですが、あらゆることが実はあやふやなものだとして常に半分は疑ってみなければならないのです。

私たちを取り囲む情報の種類は以下のように分類できます。
1 正しい情報と正しい解釈
2 ステレオタイプ

人間は基本的に考えることを面倒臭がる動物なので、ステレオタイプは人間に考える面倒を省いてくれるものと言えます。これによってよく考えなくても多くの人が受け入れてくれる解釈が容易に得られることになります。
3 正しい情報と間違った解釈
4 間違った情報

人間は間違いを犯します。目の前で起きたことでさえ、時に、正しく認識できない場合があります。これは本当に驚くべきことです。

5 捏造された情報

人間の中には、嘘を平気でつく人たちが存在しています。嘘を病的に重ねる人、他人の目を自分に向けるために嘘をつき続ける人、自己の利益のためには嘘を躊躇わない人、嘘も百遍唱えれば本当になる場合があることを知っている人、こういう人たちが残念ながら私たちの世界には大勢います。だから、「真実はひとつだ」とか「真実が最後には勝つはずだ」とか「分かる人には分かる」というのは意味のない一種の精神論以外の何者でもありません。

私たちが生きている世界は真偽の定かでない多様な情報と実際には正しいかどうかわからない「仮説」から成り立っていると言えます。私たちの世界は実にあやふやな基盤の上に成立しているわけです。こうした世界で生きる私たちが身につけるべき態度として最も重要なのが、あらゆることを疑うことであると私は思います。ファクトを見極め、信じるに値する仮説や解釈を考え抜くことが重要です。その際に、人ではなく自分を信じて自分の頭で考えることが肝要です。

そして、最後に、最も重要なことを付け加えるとすれば、それは、自分自身をも疑うことです。信用ならない自分を信じて自分を含むあらゆることを疑ってかっかること。これを知るために7冊の本を読んでもらいました。

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2016年11月15日火曜日

第50回【1989 時代は角を曲がるか⑤】

2010年度は、課題図書として以下の7冊をゼミ生に読んでもらい、感想を提出させました。7冊も読ませるのは異例のことで、事情はすでにお話しました。

1 福田ますみ 『でっちあげ』 
2 菅原琢 『世論の曲解』 
3 川島博之 『「食糧危機」をあおってはいけない』 
4 森田浩之 『メディアスポーツ解体』  
5 黒木亮 『排出権商人』 
6 稲田朋美 『百人斬り事件から南京へ』 
7 工藤美代子 『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』

1年を通してこの7冊を読んでもらい、私は、「定説を疑え」と題してゼミ生に以下のような話をしました。

わざわざ本を読ませて感想を書かせるわけですからそこには意図があります。私の狙いはそれほど難しくも意外なものでもなかったと思います。問題は、それがどこまで身に着くかということです。少し話を大きくして私の狙いをお話します。

そもそも人間とはどんな存在でしょうか。これには無数の角度からアプローチが可能です。
人間とは、肉体と精神の両方からなる存在です。肉体は分かりやすいものですが、精神が何かを知ることはそれほど簡単ではないかもしれません。また、肉体と精神が渾然一体となったような領域があることも事実だと思います。肉体の構成物質は人による違いはありません。個人を特定できる物質はないということです。DNAによって個人を特定することが可能ですが、それは物質ではなく塩基の配列、つまり、情報による判別だと考えられます。

詳しくは論じませんが、精神とは、すなわち、メモリーのことです。メモリーは基本的に情報から成り立っています。ひとりひとりの人間が異なる存在であるのはメモリーの相違によるのであって、物質によるのではありません。つまり、私とは誰か、他人とは何が違うかと言えば、決定的な相違は私の中に記憶されたメモリー、情報の相違であるということが出来ます。メモリーにこそ私のアイデンティティが宿っているわけです。

ならば、自分の中に積み重なる情報こそが決定的に重要なものとなります。情報を自分の中に積み重ねていくことこそが成長であり、ある時点でようやく人は本来の人間になるわけです。情報で充分に満たされていない人は未熟児にとどまるわけです。なぜ勉強をしなければならないかと言えば、こどもに関しては、それは人間になるためと言うことができます。具体的には「立派な日本人」になるためです。人間にとって学習は欠かすことのできないものです。
人間が人間になるために、そして、自分自身になるために情報が必要だとして、人はどこから情報を得るでしょうか。人の成長ということを考慮して情報の出所を考えてみると以下のようになります。
  1 親の躾
  2 学校教育=教師と教科書と友人
  3 多様な情報環境
     現代であれば、マスコミ(テレビ、ラジオ、新聞、雑誌)、インターネット
このように考えると、親の躾はもちろん、マスコミと教科書の重要性が非常によくわかる
と思います。そこで、基本的な疑問をこれらのメディアに向けてしておくことにしましょ
う。今年読んだ7冊の本はどれもこれらの問いかけをして、それらのものが案外信ずるに
は足りないと主張しています。
マスコミが流す情報は信じるに値するか
教科書に書かれている事は信じられるか
専門家の言論は信じられるか
国会の議論は信じるに値するか
政府の言は信じられるか
  裁判の判決は正しいのか

私たちは何を信じて生きていけばいいのでしょうか。

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2016年11月1日火曜日

第49回【1989 時代は角を曲がるか④】

3月」にゼミ生たちは、以下のようなトピックを取り上げました。
「『非グルメ本』続々と」「増える情報誌の就業トラブル」「日朝改善にどう取り組むか」「女子高生拉致し、殺害」「『悪魔の詩』殺人 モスク院長らを射殺」「巨大な墳丘墓もあった 佐賀吉野ヶ里遺跡」
ゼミ生たちが、報告前にトピックが重ならないように相談をしていたわけではないのですが、面白いことに、複数のゼミ生が同じ記事を取り上げるということはありませんでした。1989年は、それにしても、色々なことがあった年です。バブル経済が背景にあったことを常に意識する必要があります。犯罪もそれ以前とは異なった様相を表してきています。前月には「宮崎勤事件」が取り上げられましたが、この月には、「女子高生コンクリート詰め事件」が取り上げられています。今となっては最重要と思われることが、当時はなぜか無視されているという指摘が北朝鮮問題で、この時期の日朝問題では拉致問題が登場しません。リクルート事件もこの年のことです。

私が取り上げた記事は「東独『東欧の改革』批判へ論陣」というものでした。東独は、東欧の優等生で、もっとも成功した共産主義国と言われていました。それ故なのか、ソ連を始めとする兄弟諸国における「改革」に猛烈に反対を唱えました。とはいえ、優等生との評価は過大評価であったことが冷戦後に判明したことを考えると、この時点で自国の抱える問題や「時代の変化」を感じ取ることができなかったことには疑問を感じます。ホーネッカーの最後の足掻きだったのかもしれません。

ゼミ生が「4月」に取り上げた記事は以下のようなものでした。
「消費税スタート」「血液凝固製剤完全国産化へ」「はやくも就職協定110番」「松下幸之助氏 死去」「資生堂と鐘紡、フロン使用スプレー全廃へ 1年以内に代替商品化」「軍縮進展へ課題浮き彫り 国連京都会議」
この月、消費税がスタートしました。日本では3%でのスタートでしたが、ポーランドは今23%、日本人の消費税に対するアレルギーには特別に注目すべきものがあると私は思います。この年は、昭和を代表するような人物が多く亡くなりました。昭和天皇に始まり、松下幸之助、手塚治、美空ひばり・・。

私が取り上げた記事は、読売新聞の「脱出ならず」というキャプションがついた写真でした。東ベルリンの2人の若者が西側への脱出を試みて走り出した瞬間の写真です。試みは失敗に終わり2人は逮捕されたようですが、半年我慢すれば、そんなことをしなくても壁はなくなったのだから皮肉なものです。この記事を取り上げて、東西に分かれたベルリンの歴史の話をゼミ生にしました。ちなみに、逃亡に成功した者は28年間で5000人あまり、192人が射殺されています。

5月」にゼミ生が取り上げたのは以下のような記事でした。
「捏造だったサンゴ取材」「煙たい少女増加の一途(あす、世界禁煙デー)」「ハンガリー、国境の壁撤去」「サッチャー主義貫き『鉄の政権』10周年」「液晶パソコンもカラーの時代に」「帰宅後に急性心不全で死亡 過労と労災認定」
今からわずか25年ほど前のことを振り返っているのですが、パソコンがブラウン管で白黒だったなど、思い出すこともできません。1989年、私は大学院生でしたが、論文は手書きで提出していました。過労死は今でも過去の問題とはなっていませんが、バブルのこの時期はとりわけ問題となっていた記憶があります。友人の妻は、毎日夫が何時に出社し何時に帰宅したかを記録していると言っていたのを覚えています。労災向けの準備だったはずです。

私が取り上げた記事は、「現代学生は『独文』嫌い?」というものでした。東大の独文科が、前年には志望者ゼロ、この年も7人で、この傾向が続いていたため定員を20人に減らされているという記事。世は英語の時代で、21世紀は英語の時代か、などと言われるわけですが、すでにそうなってしまっており、それにいかに向き合うかこそが問題であると思います。英語以外のすべての言語が直面している問題と言えます。ゼミ生たちには、水村美苗『日本語が亡びるとき』をぜひ読むように薦めました。


次回は、「1989」を少し離れて、この年の読書課題についてご紹介致します。

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