2016年12月28日水曜日

第53回【1989 時代は角を曲がるか⑧】

8月」にゼミ生は以下のような記事を取り上げました。
「東側から西側への脱出急増 ハンガリー国境経由」「中米安定に大きな一歩 コントラ解体合意」「トルコが国境閉鎖(ブルガリアからの流入阻止)」「銃をとらされた少年たち」「体感測定やめる 震度 機械実用化にめど」「原爆ドーム保存に熱い思い 募金運動へ反響多数」

8月」の日本の新聞は、かなりの量の「終戦」にまつわる記事を掲載します。「原爆ドーム」もそうですし、「銃をとらされた少年」というのも、実は、ワルシャワ蜂起やアフリカの少年兵の話ではなく、終戦直後の満州に攻め込んできたソ連軍に対する日本人少年の話題です。

今は難民と言えば、シリアやアフガニスタン、リビアなどからヨーロッパへ逃れようとする人たちのことを言いますが、この当時は、東欧諸国の人びとが、冷戦体制が緩んだせいでできた隙間から西側に逃げようとしていました。ハンガリー国境が開かれ、多くの東ドイツ人がここからオーストリアを経由して西ドイツに逃れました。ブルガリアでは、元々いたトルコ系の人たちがトルコへと逃れだし、その数があまりにも多いため国境が閉鎖されました。トルコは今も難民の最大の受け入れ先のひとつで、アジアとヨーロッパに跨る国土の故にそうであるのが運命であるのかどうかは分かりませんが、世界が何らかの激動を迎える際には注目をされる国であると言えます。

私は「8月」の記事として、22日に21周年を迎えたプラハの春を論じた「民主化圧殺のチェコ事件から21年」を取り上げました。東欧自由化の試みとその失敗としては、1956年のハンガリー事件、68年のプラハの春、80年のポーランドの自主労組連帯の運動があげられますが、89年の自由化の動きとしては、ポーランド、ハンガリーが先行し、チェコスロバキアは12月に入るまでなかなか自由化へとは向かいませんでした。それどころか、8月のこの時点では、ハンガリーやポーランドの変化に批判的ですらありました。1989年の変化がいかに急速であったかが分かります。

9月」にゼミ生たちは以下の記事を取り上げました。
「リトアニア共和国ルポ 衰えぬ『自立』の決意」「日中交流を積極再開」「日航ジャンボ墜落事故 20人全員不起訴へ」「ビデオ業界の自制求める 朝日社説」「チェルノブイリに研究所 世界の学者集い汚染に取り組み」「新生ポーランドと東欧 国民との溝克服図る 党側、生き残りかけ模策」

リトアニア、ポーランドは東欧の変化の話題。リトアニアが後にソ連の解体を促したことを思うと目の付け所として秀逸と言えます。ジャンボ墜落は1985年、チェルノブイリは86年のことです。ビデオの話は、「宮崎勤事件」の余波ですが、インターネット時代の今となっては無意味な話となってしまいました。1989年には、一般人にとっては、インターネットもパソコンも携帯電話もなかったということを忘れていけないと思います。時代は大きく変化したものです。

9月」に私は、「ガリレオの迫害誤りでした ローマ法王が名誉を回復」という記事を取り上げました。カトリック教会がガリレオの名誉を回復したわけですが、それに約4世紀の時間がかかりました。

私がこの記事を取り上げた理由は、カトリック教会のこの行為が果たして浮世離れした話題であるかどうか疑ってみる必要があると感じたからです。当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、歴史上初のポーランド人法王でした。ポーランドは敬虔なカトリック信者が95%を占める国ですが、法王は、祖国の「連帯」や民主化運動を当初から圧倒的にモラル・サポートしていました。ポーランドを始めとする東欧の民主化は法王のバックアップなしでは成立していなかったかもしれないくらいです。ガリレオの名誉を回復するというこの反省の姿勢は、ソ連に対して、過去の東欧諸国に対する圧制の反省を促すものと深読みすることができるかもしれないと私はゼミ生に話しました。

ゼミ生たちは「10月」に以下のような記事を取り上げました。
「世界のデザイン、ソニー(全面広告 パスポートサイズのハンディカムが登場)」「アンゴラ内戦の自主解決に自信」「熱田派の小屋全焼(成田建設反対派運動)」「侵害される子どもの人権」「少年犯罪報道めぐり論議 弁護士・市民とマスコミ側がシンポ」「7万人デモ 東独政権揺さぶる 内からも改革圧力」

過去の新聞を読むと、記事以上に広告が面白いことに気付かされます。企業広告はもちろんですが、雑誌や週刊誌の広告に興味深いものがたくさんあります。ソニーの広告に注目したゼミ生がいたのは、彼らにとってもコマーシャルは面白いのでしょう。

私は「10月」にルーマニアの大統領チャウシェスクについての記事を取り上げました。「波及したら困る?ポーランド介入呼びかけ」という記事です。8月にポーランドでは「連帯」のマゾビエツキが首相に就任したのですが、就任直前に、チャウシェスクが東欧各国の共産党にポーランドへの介入を呼びかけました。結局、ゴルバチョフがこれを拒否し、介入は実現しなかったという記事。

ルーマニアと言えば、独自の社会主義を唱え、ソ連からの介入を嫌い、「プラハの春」への介入にも反対した存在でした。この時の指導者もチャウシェスクだったのですが、今度は一転してポーランドへの介入を主張したわけです。チャウシェスクは、最後の最後まで民主化、自由化の改革に反対をし続けたのですが、チェコへの介入の反対とポーランドへの介入の主張とを結びつけるものは、自己保身以外には考えられません。それを指導者は「国益」と呼んだりするわけですが、時にそれは「保身」以外の何ものでもないのです。チャウシェスクの存在故に、ルーマニアは民主化、自由化がもっとも遅れて進む結果となりました。

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2016年12月15日木曜日

第52回【1989 時代は角を曲がるか⑦】

1989年」に戻ることにしましょう。
6月」では、ゼミ生たちは以下のような記事を取り上げました。

「早稲田沈んで慶応浮上」「ホームレスの家づくり手助け カーター大統領も参加」「交配種で自由化に備え(乳牛、和牛)」「小声で宇野首相『公の場では…』」「切符の裏使って最も小さな広告 JR東日本の新商法」「主犯の『19歳』に死刑(アベック殺人)」

1989年は、時代の大きな変化の渦中にあったことは間違いありません。もちろん、その変化の意味を考えることがこの年の課題でした。グローバリズムという言葉がこの時期に使われていたかどうか分かりませんが、レーガン・サッチャー流の自由化が加速していたことは間違いありません。農業の自由化への備えの記事や民営化後のJRの試行錯誤についての記事などは、まさにそうした時代の変化を窺わせるものと言えます。

私は「6月」に、65日の朝刊の記事をいくつかコラージュして学生に示しました。この日の第1面のトップ記事は、北京における天安門事件の発生を伝えるものでした。事件の詳細は不明としながらも、この事件が鄧小平体制に大きな影響を与える可能性を指摘しています。同じ1面の真ん中に小さい記事で、「ホメイニ師が死去」との見出しもあります。天安門事件がもし起きていなければ、この記事がトップにあったはずです。そして、国際面に、わずか500字程度の記事で、ポーランドにおける社会主義国での初めての自由選挙の投票の開始の記事があります。この記事は大変に小さな扱いとなっていますが、他に大きなニュースのない日であれば、間違いなく、1面のトップを飾る記事だと私は思います。
新聞には紙面の制約、テレビには時間の制約があります。ニュースらしいニュースのない日もあれば、この日のように、トップを飾っても不思議でない事件がいくつも重なる日もあります。北京での事件が紙面のほとんどを覆い尽くした結果、冷戦の終わりの最終章の始まりと言ってもいいようなポーランドの自由選挙の記事は小さなコラム程度のスペースとなってしまいました。その日その時に、未来から振り返ってその日の何がより重要であったかを感じ取ることは簡単なことではありません。逆に、ニュースを見、新聞を読む側からすると、記事のスペースの大小に惑わされず、ニュースの価値を見抜く目が必要になります。

7月」にゼミ生たちが取り上げた記事は以下のようなものでした。

「ソ連議長 仏知識人2000人と対話」「東欧難民の子ら救え あす東京で救援コンサート」「部下なし『部・課長』を大幅増」「国際事件簿 マフィアに挑む母親」「カラヤン氏死去 世界に君臨 大指揮者」「生体肝移植に成功 豪州邦人母子?経過は良好」

今から振り返ると、1989年は、世界だけでなく、日本の会社も大きな変化をし始めていました。バブル経済がこの時期の最大の特色ですが、それだけでなく、団塊の世代(昭和22年~24年生まれ)が40歳代になり、その人口の規模が社会の質を転換させざるを得なくなったのだと思います。その遥か前から、団塊の世代の年齢の変化とともに社会全体が変化をしてきたわけで、現在の少子高齢化の問題もその延長線上にあると言えます。

私は「7月」に「『制限主権論』脱却鮮明に」という記事を取り上げました。制限主権論とは、一般にブレジネフ・ドクトリンと呼ばれていますが、1968年に、チェコスロバキアにおける自由化の動き(「プラハの春」)にワルシャワ条約機構軍(主力は圧倒的にソ連)が軍事介入をした際に、当時ソ連共産党書記長であったブレジネフが提示した考え方のことです。「共産主義陣営の利益のためには一国の主権は制限されうる」というものです。


1989年のポーランドにおける円卓会議以降、東欧諸国は自由化を恐る恐る進めてきました。ソ連から再びブレジネフ・ドクトリンをベースにした介入の動きがあり得るのではないかと考えていたからです。これに対して、ゴルバチョフは、すでに1985年に東欧諸国の自主性を認めるという発言をしていたのですが(この路線を「シナトラ・ドクトリン」と当時は呼んでいました)、誰もがこれに懐疑的でした。この記事は、ゴルバチョフがブカレストでの演説で、東欧諸国がそれぞれに改革を進めるよう「激励」の姿勢を示したと伝えています。次の半年で、東欧諸国のすべてが ”my wayを進むことになるとは、まだこの時誰も考えていませんでした。

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