2017年2月28日火曜日

第57回【1989 時代は角を曲がるか⑫】

問題は、「時代」とは一様ではないということにあります。
私たちの実生活や心持ちは確かにポスト・モダンのそれかもしれませんが、その生活を底辺から支えているものは実は国家であって、すなわち、ポスト・モダンな生活を守っているのはモダンな国家の秩序なのです。ポスト・モダンの個人も依然として家族や親なくして大人とはなりえません。ポスト・モダンの家族や親子とはどのようなものでしょうか。そんなものあり得るのでしょうか。今はまだその答えはありません。

最大のズレは、すべての人類がポスト・モダンの時代を生きているわけではないということです。日本は間違いなくポスト・モダンを生きています。アメリカやカナダやオーストラリアやヨーロッパ諸国もポスト・モダンを生きているように思います。これらの国々の社会の抱える課題は、実は、驚くほど似通っています。それはその課題がそれぞれの国が直面している問題ではなくてポスト・モダンの社会が抱えている問題だからです。すでに近代化を終わって豊かな社会を築き上げた社会はどこも同じような問題を抱えて答えを探しているのです。

ただ、こうしたポスト・モダンの諸国は世界で圧倒的な少数派です。ほとんどの国は今まさにモダンを生きているのです。日本という国の特異性(あるいは、不幸と言ってもいいと思いますが)は、近隣にポスト・モダンの国がないということです。いつだってそうです。日本が近代化に突入して列強諸国に対抗した時も日本は孤独でした。中国や朝鮮はモダンに踏み出す勇気を持たず、いつまでもモダン以前に踏み止まろうとしました。最初にそれに踏み出し一気に走り去ったのが日本だったわけです。アジアで日本は今も孤独です。独りポスト・モダンの時代を迎えています。中国はようやくモダンを迎えて圧倒的なナショナリズムを謳歌しています。日本人から見ると、ああ、あんな時もあったなあ、という感じです。韓国も似たようなものです。北朝鮮のようなモダン以前の国が隣にあるせいで韓国はポスト・モダンに踏み出せそうもありません。中国とは尖閣列島、韓国とは竹島、それに、ロシアとは北方領土と、日本は領土問題を抱えていますが、ポスト・モダンに生きる日本人には領土問題が重要であるとは考えられません。諸国家が領土を奪い合っていたのがまさにモダンで、ポスト・モダンを生きる日本にはそれが重要なことだとは思えないのです。あんな島のためになんで戦争なんてしなければならないのか、というわけです。日本人には信じられないかもしれませんが、こうした日本人の感覚こそ中国人や韓国人には理解できないのです。

オリンピックの勝ち負けについても同じようなことが言えます。実はまもなく始まるワールドカップ(2010年ドイツワールドカップ)でも同様ですが、はっきり言ってどうでもいいのです。日本が勝てばそれなりに嬉しいのは事実なのですが、だからと言って、日本人は日本だけを応援することや日本の試合だけが放送されることに疑問を感じています。日本が勝つことも重要ですが、ロッベンが左足で生涯忘れられないようなボレーシュートを日本のゴールに決めたとしても、ああやっぱりオランダはすごいなあと思うのが日本人なのです(実際には、スナイデルにゴールを決められました)。フロンターレのファンが川崎のユニフォームでブラジル戦のチョン・テセ(在日の北朝鮮代表選手)を応援に行ってしまうのが現代の日本人なのです。私はそれをとても美しいことだと思っていますが、モダンに生きる国の人たちにはこうしたことは理解されません。不思議な連中だとか、アホかと思われるのが落ちです。それでも私たちはそうした時代を生きるようになってしまっています。アジアにおいて日本はつくづく孤独です。

こうした現代の日本の姿を知ろうと思えば、まずは、自分自身を分析することです。あるいは、小説を読むことです。小説家はそれを深く意識していない場合でも現代の空気やにおいに敏感です。漱石や鴎外の抱えていた課題と現代の小説家の抱えている問題は、もちろんどこかで共通している部分もあるに違いありませんが、決定的に異なっている部分もあります。漱石や鴎外は日本がひとり近代化を進めることの矛盾を論じたわけですが、現代の小説家は日本がひとり近代化を終えた果ての問題を論じているのです。私たちがどんな時代を生きているか、彼らは私たちと同じテーマに取り組んでいます。

世界は明らかにまだら模様です。モダン以前にいまだ停滞する国もあれば、モダン真っ盛りの国もあり、そして、日本のように近代化を終えてポスト・モダンを迎えた国もあります。それらの諸国が入り組んでいるが故に様々な問題が難しいわけです。ポスト・モダンの国とのみ付き合っていけたらどんなに楽でしょうか。

ポスト・モダンに私たちが生きていることはまず間違いありませんが、ポスト・モダンでの生き方が確立していないことが問題であるわけです。私たちはその意味で間違いなく過渡期に生きています。

それにしても、こんな時代が来るとは思っていませんでした。高度成長前は、豊かになったらどんなに幸せだろうと思ってみんな一所懸命働いたのです。そうして、冷蔵庫を買い、洗濯機を買い、テレビを買い、ついには自動車まで買って、それどころか、世界中からおいしいものを輸入して捨てるほど食って、一家にひとつどころか一人一台のテレビ、電話、車、どこまでも豊かになって…。そして、確かに豊かになってみたら、そこは天国ではなく、たとえ天国だとしても、なんと、天国には天国における悩みや問題がやっぱりあって、時々は貧しい時の方がよかったなあなんて考えたりする…。私たちは豊かになればてっきり幸せになれると思っていたのですが、豊かになれば豊かになったなりの問題が出現して、しかもそれは貧しい時に直面していた問題よりももっと複雑な問題だったりすることにようやく気付いたのです。そして、私たちの時代が新しいものであるために、答えが前の時代にはなかなか探せないというのが実情です。私たちは手探りで多くの課題に答えを見出さなければならないのかもしれません。大変な時代です。

ポスト・モダンのイメージが少しは浮かんだでしょうか。要するに、私たちの生きている時代がそれなのですが。私は新しい時代に否定的ではありません。どうせ後戻りはできません。自分の生きる時代を否定しても始まりません。あなたたち若者が答えを見出さねばなりません。

以上が4月にゼミ生たちにしたこの年度のテーマについてのヒントの講義でした。

次回より、年度末の最後の講義を再現致します。

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2017年2月15日水曜日

第56回【1989 時代は角を曲がるか⑪】

日本は明治維新によって近代化をスタートしました。もちろん、この近代化が他の諸国に比較して非常にうまくいった理由は、江戸期あるいはそれよりも前に培われた日本人の持つ特性が近代化と親和性を持っていたからだと考えることができますから、明治維新よりももっと前に近代化の始まりを設定することも可能だという議論には一理あります。ただ、これをやってしまうとどこかで線を引くということができなくなりますので、私はやはり日本の近代化は明治維新に発すると考えるのがひとまず適切ではないかと思います。

重要なことは、近代化はすでに終わったという事実です。これには賛否両論あると思いますが、私は70年代の早い時期に日本の近代化は終了したと考えています。つまり、60年代の高度成長が日本の近代化のラストステージであったと思うわけです。よく教科書にはオイルショックによって日本の高度成長は終わりを告げたなどと書かれていますが、私はそうは思っていません。偶然のタイミングでオイルショックが起きたことは事実ですが、日本の高度成長が終わったのはオイルショックが起きたためなどではなく、近代化が概ね終了したからだったのです。

高度成長を1955年から70年までの15年とすると、この15年をはさんだ時代の変化には驚くものがあります。すなわち、1950年の日本人の庶民の生活とは、70年以降の日本人の生活よりもはるかに江戸時代の日本人の生活に近かったものと思います。この時代は、一般の家庭にはまだテレビも冷蔵庫も洗濯機も自動車もありません。蛇口からお湯は出ません。江戸時代と違って確かに電気は通っていましたが、その電気を使う製品がほとんどなかったのです。たぶん明かりだけだったのではなでしょうか。だから今でも「電気をつける」とは明かりをつけることを意味するわけです。家庭にある機械はたぶんラジオくらいだったのではないでしょうか。そのラジオのない家庭も珍しくはありませんでした。

高度成長の15年間で日本人の生活は一変しました。1950年の日本人の生活が遠い祖先の生活と大差ないものであったのに対して、高度成長後の日本人の生活は、それとはまったく異なったものへと変貌しました。高度成長こそ明治維新以来の近代化の頂点であり、明治維新から1970年までの日本こそまさにモダン・ジャパンと呼べるものだったのです。ですから、それ以降の日本はそれより前の日本とは本質的にまったく異なった存在、何か別物であるわけです。これがポスト・モダン・ジャパンだと私は思うのです。

ポスト・モダンとは何か。これを定義することはなかなか難しいように思います。

ポスト・モダンとは何か。まず第一に、国家の役割の低下、あるいは、「国家の役割の低下という意識」を挙げることができると思います。私たちは心のどこかで、国家を強烈に意識することを忌避しようとしています。これがポスト・モダンのひとつの特色です。私たちはすでにナショナリズムの時代を遠く過ぎて、それとは異なった心持ちの中で生きています。

第二に、国家だけでなく、家族のような個人を強く縛り付ける社会組織と淡い関係しか取り結ばないような、個人がより中心的な役割を果たすような考え方を身に付けています。家族の崩壊とか親子関係の変化とか、あるいは、友人同士の関係の変化などが言われますが、これらの変化の根底には、ポスト・モダンへの移行が存在しています。私たちはモダンとはまったく異なった時代を生きているのです。そこにおける時代の構造や社会のルールや生き方のモデルがまだ確立されていないだけです。

私たちはモダンにおけるよりはるかにばらばらの人生を生きています。自由な生活を享受しています。便利な道具を身に纏っています。はっきり言いますが、後戻りはできません。私たちがやらねばならないことは、ポスト・モダンにおける新しい生き方を確立することなのです。つかみどころのないポスト・モダンの時代で私たちはどのようにしたらこれまでの時代を生きた人たちに勝るとも劣らないような幸せな生活をしていくことができるでしょうか。私は、この意味でなら、現代は明らかに過渡期であると断言します。


次回もこの講義を続けます。

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