2017年12月30日土曜日

第77回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑰】

3に、核兵器は「勲章」であると言えます。
核兵器を持つようになった国家、政府は核兵器を国民に対する権威付けの道具として利用する場合があります。国際的な反発をはねつけて核兵器を持つようになった政府の、国民に対する権威が上がるわけです。「旗」も「勲章」もどちらかと言えば、内向きの核兵器の効用ということができます。核兵器は単なる武器ではなく、政治的な道具でもあるのです。
4に、これも内向きの機能ですが、核兵器は「餌」であると言えます。
どんな軍部でもそうですが、軍隊というものは核兵器に限らず一般に最新鋭の兵器をほしがるものです。核兵器の保有は多様な意味を持つので単純にそれを欲しがる軍隊ばかりとは言えませんが、それでも、最強の兵器を欲しがらない軍隊があるわけがありません。今の日本ではちょっと考えられないですが(戦前は一般的な課題だったのですが)、政府と軍の関係というのは案外微妙で、最新鋭の兵器の開発が軍部を手なずけるための道具として用いられることは珍しいことではありません。核兵器についても同じことが言えます。

5に、核兵器は「ドレス」であると言えます。
「旗」も「勲章」も「餌」もみな国内向きの機能だったわけですが、北朝鮮に顕著なように、核兵器を他国に対する権力の誇示として使う場合があります。これは対外向けの機能と言えます。確かに、核兵器の威力は大きく、その被害は想像を超えるものなので、それを恐怖して妥協する国家があっても不思議ではありません。しかし、核兵器が使えない兵器であることを考えると、なぜそのような兵器を怖がらねばならないのか私には理解できません。これは後でもう一度議論します。

6に、これも対外向けの機能となりますが、核兵器は「カード」であると言えます。
他国との外交交渉のための道具に核兵器を使うわけです。ただ、これはこれまでの世界ではあまり一般的ではありませんでした。これまた北朝鮮が典型的ですが、核兵器の使用を脅しとするのではなく、核兵器の存在や開発そのものをやめることを条件として外交交渉に臨む国家が出現しつつあります。たとえば、リビアは核兵器の開発を止めることで国際社会における孤立から脱却しました(北朝鮮は、その結果、カダフィのリビアが倒されたと理解しているようですが)。見ようによっては、北朝鮮もこれと似たようなことをしているように見えなくもありません。


私たちが問わなければならない最大の問いは以下のようなものだと思います。

「核兵器は実際に使用できるか?」

国益という言葉があります。核兵器を実際に使用して実現する国益とは何でしょうか。核兵器を実際に使用して、つまり、数十万、数百万の人間の命を奪ってまで実現しなければならない政治的目的とは何でしょうか。私はこれについてずいぶん考えましたが、そんなものはないと思います。仮に、核兵器を使用して何かある目的を達成したとしても、核兵器の使用による被害とその道義的マイナスでその目的は台なしになるというのが真実ではないでしょうか。

核兵器が実際には使用できない兵器であるとすると、その存在の意味・目的とは何でしょうか。核兵器の存在の唯一の意味とは、核兵器が存在する限り、つまり、永遠に、核戦争を抑止することです。これが核兵器の逆説で、核兵器を持つことの唯一の意味は、核兵器を使わせない、使わない(つまり「抑止」すること)ことなのです。今では、その点に少し不安を感じないわけにはいかないのですが、核兵器を保有するすべての国が、以上の核兵器という兵器の存在の持つ意味を理解していなくてはなりません。特に、「抑止」という考え方の持つ意味は重大であると言えます。なぜなら、抑止こそが核兵器が存在する唯一の意味だからです。「抑止」は単純な概念ではありません。それに伴う発想、政策は多くの矛盾を含みます。こうしたグレーゾーンで生き抜く知性なき国家が核兵器を持つことこそが人類最大の脅威なのです。

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2017年12月16日土曜日

第76回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑯】

さて、そもそも核兵器とは何でしょうか。核兵器とは、もちろん、兵器なわけですが、他の兵器とは比較にならない破壊力を持っているために、単なる兵器ではなく、多様な側面を持つ兵器以上の何物かになってしまっています。

まず第1に、核兵器は、当然ながら、「武器」です。

武器は、一般に、攻撃、防御、強要、抑止の4つの機能を持っています。攻撃と防御は、実際に使用する場合の2側面という理解ができます。ただ、何が攻撃で何が防御かということはそれほど易しい問題ではありません。すべての戦争は防衛を理由にして始まることを考えてもそれは分かります。
それに対して、強要と抑止は、実際には武器を使用せず、武器の使用の脅しによって相手に影響力を及ぼそうとするものです。強要と抑止の違いは次のようなことです。強要とは、武器の使用の脅しによって、敵側に、そうしなければやらないであろうことをやらせる、すなわち、do somethingを強制することです。これに対して、抑止とは、放っておいたら敵側がやるかもしれないことを、武器の使用の脅しによってやらせない、つまり、do nothingを強制することです。

武器はこのように、使用することで、あるいは、使用するとの脅しによって4つの機能を果たすわけです。ただ、抑止については、この機能を検証することが困難です。すなわち、「動くな」と命令して相手が動かない、というのが抑止であるということができますが、相手にそもそも動く気がなければ、相手が動かないという事実は、抑止によってもたらされているのか、それと関係なく単に相手が動かないでいるだけなのかは区別がつきません。抑止とは、それが働いているかどうかを確かめにくい機能なのです。核兵器の抑止の場合にも同じことが言えます。

これまでの核兵器の歴史によって、核兵器は抑止にしか使用できない武器である、と核兵器保有国は信ずるようになりました。アメリカは広島・長崎への核兵器の投下の後にその被害について徹底的に調査しましたが、その結論は、核兵器は実際には使用できない、ということだったと言われています。核兵器が製造・使用された当初のこの結論は、今も有効であると考えられます。ただ、アメリカを始めとする核保有国は、自国が保有する核兵器によって相手国よりも常に優位に立とうとしていますから、抑止を超えた核兵器の使用を模索してきました。すなわち、実践で使える核兵器の開発が常に行われてきました。

一般に方向としては、開発は核兵器の小型化と正確化に向かいました。核兵器が使えない兵器であることの最大の理由は、威力が大きすぎるために目的(戦争によって実現しようとする国益)と手段(核兵器の使用)の釣り合いがとれないということです。これを核兵器の小型化によって埋めようというわけですが、ならば、通常兵器で十分で、なにも核兵器をわざわざ用いる理由はないということになります。また、戦争の際の法的義務の最大のものは非戦闘員と戦闘員の区別ですが、核兵器を軍事的ターゲットに正確に打ち込むことで非戦闘員の被害を最小限にしようというのが、正確性を求める開発ということになります。

武器としての核兵器は以上のように
、使えない兵器であるとの暗黙の合意の下で、使える兵器を模索するという歴史を歩んできました。今後も、核兵器の開発は、それを保有する以上続いていくものと思います。愚かなことですが。

2に、核兵器は「旗」であると言えます。これは国によって相当に異なるような気もしますが、たとえば、パキスタンにおいて、また北朝鮮において顕著であるように、核兵器が国民の統合の象徴となる場合があります。自国が最強の武器を手にしたこと、最先端の科学的成果をあげたことが国民の統合を促すのです。こうした国威発揚を必要とする国家が依然として現在の世界では多数派であるということができます。

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