2018年12月30日日曜日

第101回【ひとを殺す道具③】

2013年度は「人を殺す道具」と題して1年間ゼミを行いました。ゼミ生がどんな「武器」を取り上げ、どのような議論を展開したかを何回かにわたってご紹介致します。

例年、私はゼミ生に対して、ゼミ論のタイトルの重要性について強調してきました。タイトルは、筆者のテーマへの理解の深さと角度を明確に表すものであるべきで、徹底的に工夫されなければならないものです。私の著書『ウェストファリアは終わらない』がその点で優れたタイトルかどうかは自分では判定しかねるのですが。

2013年度は例外的に、私が全員に同一のタイトルを与えました。すなわち、「人を殺す道具――〇〇」の〇〇のところに自分の取り上げた「武器」を入れなさいという指示です。もちろん、副題を付けることは自由であるとしました。副題を付けたゼミ生もいれば、何もつけないゼミ生もいました。
全員のテーマを並べてみると、案外面白いので、今回はゼミ生がどんな武器を取り上げたかの一覧をお見せ致します。
  1 潜水艦
  2 小型武器(小火器)
  3 プロパガンダ
  4 攻撃ヘリコプター
  5 音響兵器
  6 AK47
  7 マスタードガス
  8 こども
  9 対潜哨戒機
  10 無人航空機
  11 魚雷
  12 地雷
  13 地雷
  14 化学兵器
  15 処刑(のための器具)
  16 クラスター爆弾
  17 劣化ウラン弾
これらを、いくつかに分類して次回以降その内容を簡単にご紹介致します。

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2018年12月17日月曜日

第100回【ひとを殺す道具②】

2013年度のテーマは「ひとを殺す道具」。武器をテーマとします。
武器と言っても、できるだけ広い意味でこれを考えていきたいと思っています。銃はもちろん兵器ですが、ナイフだって兵器として使用できないわけではありません。銃にも様々な種類があります。もう少し大きくなると、ミサイルや飛行機、潜水艦、空母のような兵器もあります。また、馬や犬や鳩も兵器として用いられたことがあります。

直接的に兵器とは言えなくても、兵器の一部として無視できない機能を果たしている部品も重要かもしれません。ミサイルの先端部分に取り付けられているカメラや戦場で使用されているオフロード用の自動車だって立派な兵器の一部です。日本ではあまり取り上げられませんが、スペースシャトルで行われている実験の大半は軍事目的のはずです。

逆に、インターネットは軍事向けに作られたものが一般に普及して今ではなくてはならないものに発展しています。CDMAなどの携帯電話の技術も軍事目的で開発されたものです。つまり、軍事用の技術と民間向けの技術は今では広い範囲で共有されていて一線を画すことは非常に難しくなっています。これらのすべてを2013年度のテーマの範囲とします。

武器には、その武器そのものの効用(目的と言い換えてもいいですが)がまずあります。たとえば、地雷の中には次のようなものがあります。その地雷はひとを殺しません。片足を吹っ飛ばすだけ。片足を失った少年少女や大人の治療に、そして、その後のその人たちの生活に、社会は何らかの負担をしなければなりません。彼らは障碍者になってしまったのですから。社会に負担をわざわざ強いることが目的の地雷ということになります。だからわざと人が死なないように作られている地雷なのです。こういう武器の効用を調べます。

また、武器の開発には様々な局面があります。こうしたプロセスに特色があればそれを調べるのも面白いはずです。民間で開発された技術が重要な武器に使用される過程などがこれに当たります。たとえば、ステルス戦闘機。レーダーではその存在が読み取れない飛行機ですが、この飛行機には特殊な塗料が塗られています。その塗料は、日本の会社が、テレビの電波を吸収して跳ね返さない塗料として開発してビルなどに塗って使用するはずでした。レーダーは飛ばした電波の跳ね返りを読み取るものなので電波が跳ね返らないで吸収されると読み取りは不可能になります。これを飛行機に塗ればレーダーに捕捉されない、つまり見えない戦闘機が作れると考えたのはアメリカ人で、日本人の開発者には想像もつかないことでした。こうした民需と軍需の相互乗り入れもテーマになります。

あるいは、映画「戦火の馬」でも描かれているように、馬は戦争の重要な一部でした。第1次大戦を境にそれは戦車に取って代わられることになりました。なぜ戦車が登場したかといえば、機関銃の登場が欠かせません。機関銃の登場、鉄条網と塹壕での戦い、これが馬を戦場において無用の長物にしたのです。馬にとってはラッキーですが。こういう移り変わりもテーマになります。


以上のような、武器(ひとを殺す道具)をめぐる様々には無数のテーマが隠れています。それらを発掘して、そのうちのひとつを自分のテーマとして掘り下げるのが2013年度の柴田ゼミとなります。そうした考察から現代の国際政治を捉え直し、21世紀の未来の世界を思い描いてみたいと思っています。

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2018年12月5日水曜日

第99回【ひとを殺す道具①】

2013年度の柴田ゼミのテーマとそこでの議論をご報告致します。
ゼミに臨むに際して、ゼミ生に対して以下のような話を致しました。
前回(98回目)で述べましたように、この時期はまだピンカー教授の著書を読んでおらず、20世紀の評価につきましては古いままにしてあります。ただ、10万人当たりの数字での統計的な理解ではなく、規模それ自体の理解としては、20世紀が大規模な「殺人」を繰り返したことは否定できません。ここでは、2013年における私の議論をそのままにしてご報告を続けることと致します。

2012年度のテーマもその一環だったのですが、たぶん数年がかりとなる現在の柴田ゼミのテーマは、20世紀がなぜあんなにも野蛮で残酷な世紀になったのかということなのです。
2011年度は「核兵器」がテーマでした。20世紀が残した最大の難問(difficulties)のひとつです。核兵器の双子の弟、原発も20世紀が残した難問であることに今や日本人のすべてが気づいています。2012年度のテーマは「民族自決」。20世紀が血塗られたものとなったのは、共産主義やら民族自決やらといったイデオロギーが人々を戦いへと駆り立てたからだと私は思います。

2011年度は、「核兵器」というテーマに対する「結論」を考えながら、2012年度のテーマ「民族自決」のことをこれまた考えていたのですが、実は、その時点では、私自身がまだ私自身の問題意識に気が付いていない状態だったと思います。2013年度のテーマを決めたのは2012年秋になってからですが、自分で自分の関心に気が付いたのは、その時になってからのことです。


大きく言うと、「大量殺人のハードとソフト」に現在私は関心があります。20世紀は人類史上最も野蛮な世紀で、最も大量に人間が殺された100年間でした。なぜそうなったかについては、様々な議論がありえますが、私は、大量殺人のための「ハード」と「ソフト」が出揃ったからだと思います。言うまでもなく、核兵器は大量殺人のハードの典型的なものです。2012年度に取り上げた民族自決は、独立を求める多くの人々の大量殺人を肯定するソフト、つまり、イデオロギーとして機能した側面を否定できません。このように考えると、2011年度のテーマ(「核兵器」)と2012年度のテーマ(「民族自決」)は実は繋がっていたのです。2013年度のテーマを考える中でようやくそれに気が付きました。

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2018年11月16日金曜日

第98回【20世紀の悪魔・民族自決⑱】

前回の最後に予告致しました通り、今回は「冒険」の番外編です。

2012年度は「20世紀の悪魔・民族自決」と題してゼミを1年間行いました。テーマの背景には、20世紀が人類の歴史でもっとも野蛮な世紀であって、なぜそんなことになってしまったのか、という関心が常に存在していました。

しかしながら、考えてみれば、20世紀がとりわけ野蛮であるということは、どこまでも印象論に過ぎないものでした。第1次大戦、ロシア革命からスターリンへ、そして、ナチスドイツの所業と第2次大戦、毛沢東による大躍進や文化大革命による自国民虐殺、ビルマ・ポルポトによる毛にならったかのような自国民の大虐殺、さらに、ルワンダなどの虐殺と、20世紀を振り返ると確かに億単位で人が殺されたわけで、これを「野蛮の世紀」と呼ばずしてどの時代を野蛮と呼ぶのかと考えてしまうのは当然のことです。しかしながら、統計的な考慮を勘案して人類の歴史を振り返ってみると、20世紀は、案外、印象ほど悪くないということが人類学者の間では常識であるということを最近になって知るようになりました。

ハーバード大学のスティーブン・ピンカー教授によれば、古代の狩猟採集社会、その後の部族社会から近代国家中心の現代までの戦争や暴力による死者数を推定して比較すると、人口10万人当たりの死者数は、国家の下にある場合の方が、それ以前の伝統的な社会よりもはるかに少ないということで、このことは、ピンカー教授の『暴力の人類史』に詳しく書かれています。日本語訳で上下2巻1200ページを超え、註と参考文献表だけでも100ページ以上になる大著です。

確かに、20世紀は戦争やその他の暴力によって多くの人命が失われたわけですが、死者を分子とし、人口を分母とする統計的な処理をすると、随分とその印象が変わります。そして、印象の変化以上に重要であることは、なぜそうした変化が起きたのか、つまり、印象とは違って、20世紀において理不尽な暴力による死者の割合が減ったのはなぜか、という疑問に対する答えであると思います。

ピンカー教授は、その答えを単一のものに求めてはいませんが、そのうちの最も重要なものとして主権国家の確立を挙げています。それが必ずしも民主的でないとしても、政府の管理下に入ることで、すなわち、法の支配を受け入れることで、殺人は激減するということは、文化人類学者の常識であるとのことです。残念ながら、政治学者の常識とはなっていませんが。

手前みそになりますが、私は自著『ウェストファリアは終わらない』において、未来の平和な世界を、民主的な主権国民国家による外交と国際法の世界として描きました。カント的な平和の発想であり、それはそれほど珍しい主張ではないのですが、ピンカー教授の証明する暴力の減少という現象と響きあうところがあります。国家が暴力を国内において独占することによって国内社会に平和を築き上げ、その国家がことごとく民主化されることによって、国家による対外的な暴力の使用が制限されるようになる世界こそ、私たちが望むことのできる最も平和な世界なのではないでしょうか。私は、20世紀が野蛮な世紀であると信じながらなお、その延長線上にしか平和は存在しないと考えたわけですが、ピンカー教授が提示しているように、20世紀が人類のそれまでの歴史に比較してそう悪くないものだとすれば、ますます希望が湧くというものです。

アフガニスタンやイラク、シリアの問題にしても、また、中米からアメリカへ徒歩で向かう移民の群れにしても、天文学的なインフレで多くの国民が国外に逃れているヴェネズエラの問題にしても、根本的な問題は、そこに民主的な主権国家が確立されていないということに尽きるように思います。20世紀の後半以来、主権国家の時代は終わり新しい時代がやって来るかのような言説が多く登場したのですが、それらは大いに間違っていたのではないでしょうか。21世紀の今もなお、民主的な主権国家による世界は未確立で、その確立こそがまさに現下と将来の課題なのではないでしょうか。

ウェストファリアは終わらない』において私は以上のような問題を考えました。20世紀への評価がピンカー教授の影響によって大いに変化したとしても、そこで論じたことについてはなんら影響を受けなかったことを喜ばしく感じています。今後も勉強をしなければと改めて思いました。

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2018年10月26日金曜日

第97回【20世紀の悪魔・民族自決⑰】

21世紀を20世紀とは異なる平和な世紀とする鍵は、「寛容」と「独立自尊」であると私は考えるようになりました。
「人民」の自決を許す「寛容」。誰が人民の資格を持つかはその時々で検討をする以外にないものと思います。抽象的な定義はたぶんできないのです。しかしながら、ゼミで勉強した皆さんには分かると思いますが、自決をした「人民」は断じて「独立自尊」を果たさねばなりません。これを果たす気のない、あるいは、果たす能力のない集団は「人民」ではないのです。そういう集団はより大きな国家に依存して生きるべきです。独立など考える資格はありません。しかしながら、ある集団が「独立自尊」を果たすまで、いったい、どれくらい待つべきなのでしょうか。私は気長に待つべきだと思っているのですが、それにしても、どれくらいの期間、先進国は援助をし続けるべきなのでしょうか。たとえば、カリブ海の島国ハイチは、アメリカ大陸で2番目に早く独立を果たした国(ちなみに1番目はアメリカ合衆国)ですが、現在も「独立自尊」を全うしたとは言い難い状態にあります。独立後200年経ってなお「独立自尊」が果たせないとしたら・・200年は長いのでしょうか、それとも、まだまだ短いのでしょうか。

人民の自決を許すとすれば、世界には現在よりはるかに多くの主権国民国家が生まれざるを得ません。その中には、ハイチのような例がたくさん含まれる可能性が高いと思います。私が今年度のゼミで得た最大のアイディアは「自治」という民族の在り方でした。どの人民も独立せずとも「自治」によってより容易に「独立自尊」に到達できるかもしれないという考えです。もちろん、自治にも「独立自尊」の責任が伴います。そして、肝心なことは、自治を獲得する側だけでなく、自治を与える側の国家の成熟が非常に重要だということです。分離独立の問題を抱える国家の多くが、この成熟とは無縁であるかのような国家であることは大変に大きな問題ですが、それでもなお、する側とされる側にとって分離独立よりは自治という解決の方がより容易な解決法であるように思います。

21世紀において、現在よりもはるかに多くの主権国民国家が生まれざるを得ないと私は考えます。仮に、自治という中間的な解決方法が相当にうまくいっても独立でしか満足できない人民・民族が多数存在することは否定できません。これをどのようにして可能にするかが21世紀の「難問」のひとつであると思います。私は、「許す」ことと「非真面目」が21世紀を生きる人が身に付ける態度であると信じています。もちろん、それによって「難問」が解決されるわけではありません。しかし、その宙ぶらりんな状態を許しそれに甘んじることこそが平和に生きる道なのです。

私たちは、自決しようとする人民・民族にそれを「許す」必要があります。それは独立でも自治でも構いません。そして、「独立自尊=自立」に至るまで彼らに多くの時間を与えることを「許さ」ねばなりません。その時間は人の一生を超える時間になる可能性があります。国家づくりとはそのような試みであるのです。だから、長ーく援助をしなければならなくなるかもしれません。そして、何事についても熱狂的に信じるようなことをしてはいけません。それを私は「非真面目」と呼びます。20世紀の教訓には様々なものがありますが、真面目で勤勉な公務員こそが大量殺人の実行者になるのだ、というのがその最大のもののひとつで、私は、何に対しても熱狂的にならない「非真面目」の態度こそがそれに対する有効な解毒剤であると思います。「許す」ということを背景から支えるのもこの「非真面目」の態度であると思います。私たちは21世紀をあまり真面目に生きてはいけません。あらゆる変化を受け流し認め適応する「非真面目」な態度こそが21世紀を平和にしうる態度なのです。

以上、2012年度末にゼミ生を対象にしてした講義の内容を再録致しました。

通常ですと、次回は2013年度のテーマに移るところですが、2012年から6年経った現在、その後私もちょっとは勉強をしたわけで、その結果、大きく認識を変えた部分が出てきました。次回それにつきまして論じたいと思います。

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2018年10月15日月曜日

第96回【20世紀の悪魔・民族自決⑯】

さて、以上のことを踏まえて21世紀を展望してみましょう。
20世紀を史上もっとも野蛮にした3つの要因はどうなったでしょうか、あるいは、どのようになる見込みでしょうか。
第1に、武器・兵器は依然として進化し続けています。たぶん、武器・兵器は今後もずっと発展し続けるのだと思います。つまり、より効率よくより大量に人を殺す道具が工夫され続けるということです。人類はどこまで愚かなのでしょうか。

しかし、これにはこれまでの発展と多少違う方向も観察されます。つまり、アメリカが典型ですが、敵はいくら死んでもいいけれども、味方つまりアメリカ人が死ぬのは耐えられない社会が出来つつあります。今はアメリカが典型ですが、いずれどこの国でもそうなっていくものと思います。つまり、敵を一気に大量に殺す技術を発展させると同時に、味方をいかに戦闘で死なせないかという方向の兵器の開発が行われるはずです。無人飛行機の偵察や攻撃が今注目されていますが、これがその典型です。いずれSF映画のように、ロボットの兵士が登場することは間違いないと思います。

第2に、国際法は今後も間違いなく発展していくものと思いますし、それを無視してまともな主権国家が行動し続けられるとは考えられません。どんな国家も何事か行動を起こす場合には国際法を視野に入れないわけにはいきません。ただし、その進歩の歩みは遅々としたもので、そして、時には無力で、国際法が十分に国家の行動を縛るようになるまでには数百年の時を費やさざるを得ないものと思います。何度でも言いますが、それでもなお、国際法の発展にしか国際社会の未来はありません。

第3に、イデオロギーとしての共産主義はさすがに実効性を失いましたが、しかし、共産主義に代わるイデオロギーの登場までもなくなったとは言えないものと思います。イスラムをベースにしたかのようなテロリスト集団の狂信性は、共産主義のイデオロギーを凌ぐもののようにすら感じられます。テロは21世紀の主要テーマとなった感があります。

民族自決というものの考え方は21世紀においても有効で紛争の重要な鍵になるものと思います。だからこそこれを2012年度のテーマとしました。民族自決というものの考え方は間違いなく正義に適っています。問題はその概念が曖昧で、この権利を行使する主体が誰なのかが明確でないということであるように思います。植民地主義の遺産はまだ清算されていません。現に今ある国家の枠組みはどこまでも暫定的ということができます。

何しろ、植民地から独立したわけではない西欧諸国においてすら民族独立を訴える分離主義が珍しくありません。スコットランド、ウェールズは長期的にはイギリスから独立するのではないでしょうか。ベルギーが2つに分裂する可能性はかなり高いと思います。カナダのケベックも分離独立の可能性を依然秘めています。共産主義から解き放たれたチェコスロバキアはすでにチェコとスロバキアに分離しました。バルセロナ有するカタルーニャやバスクはスペインから独立する道を選ぶのでしょうか。かなり成熟した西欧の主権国民国家においてすら現在の国家の枠組みは盤石とは言えないわけです。

まして、50年前、60年前に植民地から独立した諸国においては、現在の国家の枠組み、もっと分かり易く言うと、現在の国境は、むしろ虚構に近いと言ってもいい場合がざらなわけです。こうした諸国においては、無数と言っていいほどの分離独立運動が存在しています。重要なのは、私たちが民族自決が正義だと考えるのであれば、こうした運動を認めなければならないということです。それとも、民族自決というイデオロギーを否定することは可能でしょうか。私はこれを不可能だと考えています。なぜならば、民族自決という考え方は正義に適っていると考えるからです。もちろん、何度も言うように、この概念はあまりにも曖昧なので、もっと明確化しなければならないとは思います。しかし、まるごと否定することは不可能であると考えます。つまり、私たちは、民族自決を疑問の余地のないように定義しなければならないのです。「民族」とは何かという問題です。そして、実は、これこそがまさに困難な問題で、簡単には解決されないと思うわけです。20世紀の悪魔のひとり「民族自決」を21世紀に飼いならすためには、だから、言葉の定義の問題とともに以下のような態度を身に付ける必要があると私は考えます。
(第97回に続く)

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2018年10月2日火曜日

第95回【20世紀の悪魔・民族自決⑮】

20世紀を人類史上もっとも野蛮にしたイデオロギーの東の横綱が共産主義でした。共産主義はまず第1に自国の国家内部の敵に向けた暴力へと繋がりました。それがさらに他国に対しても共産主義を広めなければならないということで外に対しても暴力が向かっていったわけです。共産主義という「正しい」思想・体制を世界に広めていくためには、必要ならば(そして必ず必要になるんですが)暴力に訴えてもそれは正しいと考えられたわけです。

対する西の横綱が、今年のテーマ、民族自決(人民の自決の権利)というイデオロギーであったと思います。厄介なのは、この人民の自決の権利というものの考え方が正しいということだと思います。そのくせ、人民とか民族とか自決といった重要な概念が極めて曖昧なのです。その結果、多くの紛争が引き起こされる結果となりました。これはこれから数百年続くものと思います。民族自決の考え方を背景に持った民族解放闘争・戦争が20世紀に盛んに行われました。植民地主義のことを考えれば、そして、植民地帝国が簡単に植民地の独立を認めなかったことを思えば、こうした闘争・戦争はたぶん不可避、あるいは、必要のあったものなのかもしれないとも思います。しかし、その結果、多くの人命が失われました。そして、重要なことは、そこで死んだ多くの人々が、独立のためであれば自分の命は失われても仕方ないと信じながら死んだということです。ひとは何かを信じれば確かに進んで死ぬ存在でもあるのです。しかし、だからといって人間が大量に死んでいいものでしょうか。たとえそれが正しいものの考え方であったとしても、民族自決は間違いなく、20世紀を野蛮な世紀に導いたのでした。

考えてみれば、ヨーロッパの18世紀ははるかに文明的であったと言えます。もちろん、20世紀とは違って、瞬時に大量の人間を殺すような技術がなかったことも幸いしていたことは否定できません。それでも、この時代と20世紀との違いは、ものの考え方の相違であったということも重要であると思います。

18世紀においては、戦争は正しい「何か」のために行われるのではなく、徹底して「利益」のために行われると信じられていました。戦争に伴う被害が戦争で得られる可能性のある利益を上回るようであっては馬鹿げているとすべての関係者が心から信じていました。だから、戦争は正義と悪魔の戦いではないということ、所詮一時の利害のためだということが肝に銘じられていました。こうした戦争は様式化せざるを得ません。つまり、一種のスポーツになるわけです。この時代の戦争は傭兵による戦争ですが、傭兵はもちろん金目当てで、死んでしまっては意味がありません。だからこそ、戦争はぬるく、場合によっては、兵士の展開の状況によって、戦わずして勝敗が決まったりしたわけです。


このようなスポーツとしての戦争の終わりがフランス革命に伴う戦争(ナポレオン戦争、それを終わらせたのが1815年ウィーン会議)で、この革命によってイデオロギーを背景にした戦いと傭兵ではない国民軍が登場し、それまでの戦争を一変させたのです。20世紀はまさに19世紀の延長線上に花開いた野蛮の世紀だったわけです。

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2018年9月15日土曜日

第94回【20世紀の悪魔・民族自決⑭】

2012年度のゼミの総括の講義の再録を続けます。

20世紀の戦争においては、軍人よりも民間人の死者が圧倒的に多くなりました。その原因の大半は、都市に対する空爆が一般化したことが挙げられます。もちろん、これは国際法違反です。もっとも残酷と言っていい都市に対する空爆は、東京大空襲とドレスデン爆撃であったろうと思いますが、こうした民間人をターゲットにした攻撃が20世紀の大きな特色で、だからこそ人類史上もっとも野蛮な世紀であると言えるわけです。その極めつけが広島と長崎への原爆の投下でした。

国際法違反の戦闘でその他に代表的と思われるのがゲリラ戦です。戦争とは、ある国家の正規軍と他の対立する国家の正規軍の戦いで、その戦い方のルールが戦時国際法なのですが、そして、戦時と平時を区別することこそが現代の国際社会の大原則なのですが、20世紀においては、不正規軍(ゲリラ)がむしろ主力として戦う戦争が珍しくなくなりました。ベトナム戦争が典型的な例です。その結果、軍人と民間人の区別があいまいになりました。戦時と平時が混ざり合い区別が困難になりました。民間人が戦争に巻き込まれる確率が高くなり、兵士はあらゆる場面で気の抜けない戦いを強いられるようになりました。

まさに国際法が踏みにじられるような戦い方が一般的になったわけですが、それでも、私は国際法の発展にしか未来はないと思います。なぜなら、世界政府などというものは不可能だし不適切だと思うからです。これについての議論はここではしませんが。

第3に、大量に人間を殺すことを正当化するようなイデオロギーが20世紀においては蔓延りました。ひとを大量に殺すことは、実は、大変なことで、しかも、それを正気を失わずにやることは至難の業です。そのためには、人を大量に殺すことが正しいと信じることができる「何か」を熱狂的に信じなければなりません。あるいは、人を大量に殺すことに心を込めないような、つまり、毎日行っている単なる仕事=ルーティンにしてしまわなければなりません。後者が真面目な公務員の仕事と言えます。アウシュビッツに努めるドイツの公務員は、朝、妻や息子や娘と朝食を食べ、「行ってきます」と手を振り出掛け、仕事をきっちりとして、夕方「ただいま」と家に帰り、家族で夕食を食べ、夜は読書をしたり、音楽を聴いたり、たまには妻との勤めを果たして真面目に暮らしていたわけです。ただ、たまたまその仕事の内容が、ユダヤ人を500人とか1000人その日のうちに殺すことだっただけです。こういう公務員はいつでも存在します。犬や猫が大好きで獣医になり、そして、公務員になる。仕事は、野犬や野良猫の処理、ということはいくらでも起きるのです。気を付けないと、私たちは真面目にこういう仕事をしてしまうのです。真面目に生きてはいけません。

前者、つまり、人を大量に殺すことを正当化する「何か」ですが、これこそイデオロギーということになります。ある社会が狂信的にあるイデオロギーを信じるようになると、こういうことが起きます。20世紀はまさにイデオロギーの世紀だったと言えると思います。

ナチスのユダヤ人虐殺の背景には強烈な反ユダヤ主義が存在しました。ナチス・ドイツは戦争をしながら、あるいは、戦争を脇に置いて、ユダヤ人の絶滅に向けて虐殺を続けました。アメリカがアフガニスタンやイランなど世界中に介入し続け、そこで結局は人を大量に殺してしまう背景にはデモクラシーを世界に広げるのはいいことだと信じるイデオロギーが存在しています。ナチスと一緒にしたら怒る人もいるかもしれませんが、同じ病気の仲間だと私は思っています。デモクラシーでさえあまりにもそれを熱狂的に信じてはいけないのです。

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2018年8月30日木曜日

第93回【20世紀の悪魔・民族自決⑬】

2012年度は、民族自決をテーマとしてゼミでの勉強をしてきましたが、1年を終えるにあたって、私は、「許す政治学、あるいは、醒ます政治学」と題して、以下のような総括の講義を致しました。

私は1959年生まれで、21世紀よりは20世紀の人間なのでなんとなく認めたくない気持ちもなくはないのですが、それでもやはり20世紀は人類史上とびぬけて野蛮な100年でした。私たちは自分たちが文明的な生活を送っているように錯覚していますが、実は、これほど野蛮な時代はこれまでの人類の歴史に存在しなかったと思います。何が野蛮かと言えば、人間が人間をもっともたくさん殺したということです。ひとがひとを殺すくらい野蛮なことはありません。20世紀の戦争と革命で死んだ人の数はたぶん億単位です。

さて、なぜ20世紀はこんな風にとてつもなく野蛮な世紀になってしまったのでしょうか。

まず第1に、武器や兵器が飛躍的に発展したことが挙げられます。その背景には科学技術の発展があることは言うまでもありません。20世紀に入って最初の大きな戦争は日露戦争でしたが、そこでは、第1次大戦でヨーロッパ諸国に甚大な被害を与える機関銃が登場しました。新しい武器・兵器の出現は、それに対する対応である防御がある程度確立されるまでの間は、それはそれは悲惨な結果をもたらします。それが日本の戦った日露戦争だったわけです。旅順における203高地での大量の戦死も、機関銃にどう対応すればよいかがまだ分からないところでの戦いだったから起きたことです。そして、それへの有効な手段が確立されずに第1次大戦が勃発し、その戦争中に飛行機や戦車が登場したのは、主に機関銃への対処であったということができます。第2次大戦になると、これらの兵器はさらに発展し、究極の兵器である核兵器が戦争末期には登場し、現に日本に対してそれが使用されました。核兵器に対する有効な兵器レベルでの防御は未だに確立されていません。核抑止政策という別の対処が長年されてきましたが、これに対する批判には非常に大きなものがあります。

核兵器を頂点とする軍拡競争は、人類を何度も滅亡させるほどの量の核兵器を地球上に蓄積させました。20世紀の人類は野蛮であるだけでなく、人類史上もっとも愚かでもあったのかもしれません。その延長線上に私たちは生きています。いずれにしても、武器・兵器が飛躍的に発展したために、一度に大量の人間の殺害が可能となりました。


第2に、この間、国際法は無力でした。国際法の原点がどこにあるかを確定することはなかなか難しいことですが、17世紀の半ば、つまり、近代の始まりとともに国際法が登場したと考えてそう間違いはないはずです。つまり、300年程度の歴史を持つ国際法は、20世紀において、ほとんど有効に機能しなかったということができます。主権国家は、国際法に平時は敬意を払っても、肝心な時には国際法よりも国益を優先してきたわけです。誤解してほしくありませんが、それでも私は国際法の発展にしか国際社会の未来はないと今は信じています。500年経てば、今とはずいぶん違うはずだと思います。まあ、500年というところが問題なんですが。

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2018年8月17日金曜日

第92回【20世紀の悪魔・民族自決⑫】

バルト海からボスニア湾に向かうちょうど入口の所、スウェーデンとフィンランドの中間地点にオーランド諸島があります。日本人でここを知る人はあまりいないかもしれませんが、このオーランド諸島の有り様を論文に取り上げたゼミ生がいました。

オーランドは、現在はフィンランドの一部となっていますが、歴史的にはスウェーデンとのかかわりが深く、島民は皆スウェーデン語を話します。スウェーデンからフィンランド、一時期はロシア、そしてまたフィンランドと、オーランドの帰属は変化してきました。オーランド島民がスウェーデン語を話し、オーランド旗がスウェーデンの国旗にそっくりなのを見てもスウェーデンへの帰属を望む人々が多いということが窺えます。ストックホルムからフィンランドのトゥルク行きのフェリーに乗ると、レストランのメニューがスウェーデン語とフィンランド語とロシア語で書かれていますが、以上の歴史がメニューに反映しているわけです。

ところで、オーランドを取り上げた学生が紹介しているのが「内的自決」という概念です。「内的自決」とは、独立は実際にはしないけれども、ひとつの主権国家の内部において「自治」を成立させることで自決が可能になるという考え方です。こうしたことは果たして可能でしょうか。また、それが可能だとして、果たしてそれは民族自決による主権国家の確立に代わるものたり得るでしょうか。どんな条件の下でなら、そのように言えるのでしょうか。

オーランド諸島は、その存在する位置の戦略的重要性から、長い年月、スウェーデンやフィンランドと深いかかわりを持ってきました。つまり、よくも悪くも歴史を共有してきたのです。ただ、オーランド諸島が人口が希少で十分な軍事的強さを持つことができないが故に、スウェーデンやフィンランドやロシアの保護下に置かれたわけです。その帰属は、周りの相対的な大国の力関係次第だったのです。その帰属に最終的な答えを与えたのが国際連盟でした。

オーランドは、1921年に、国際連盟の裁定によって大幅な自治を獲得しました。スウェーデンとフィンランドがともにオーランドの帰属を主張し、オーランドはスウェーデンへの帰属を希望していました。しかし、ロシアの支配を受ける前のオーランドはフィンランドに帰属しており、第1次大戦後のフィンランドの独立に際して、フィンランドがオーランドの帰属を自国に求めることは自然なことでした。スウェーデンはオーランドの戦略的に重要な位置から自国への帰属を主張しました。両国による交渉は暗礁に乗り上げ、国際連盟による裁定を求めることとなりました。この際、両国は、どのような裁定が出ようともその裁定に従うことを誓約しました。

国際連盟が出した裁定は絶妙なものだったということができます。まず第1に、オーランドへの主権はフィンランドに帰属するとされました。第2に、フィンランドに帰属することになったオーランドに住むスウェーデン語系フィンランド人(要するに、オーランド人)に対しては大幅な住民自治を保証しました。第3に、スウェーデンの意向に従い、オーランドを非武装中立の地域としました。つまり、フィンランドに主権、オーランドに自治権、スウェーデンに安全保障を与え、三者三様に不満を抱えながらも、受け入れ可能な妥協案が提出されたのです。

これにより、オーランドはフィンランドという主権国家の中で大幅な自治権を持つ地域として生きることとなったわけですが、現在では、この連盟の裁定自体が、オーランド住民のアイデンティティの中核になっていると言われています。オーランドは、こうした形で、確かに自決を果たし、フィンランドという主権国家の中で、小なりといえども確固たる自治を実現しているという意味で、前回紹介しましたダライ・ラマの「中道のアプローチ」を現実のものとした存在と言えるのだと思います。

これをフィンランド側から捉えると、それはフィンランドの選択というよりは連盟の裁定を認めざるを得なかったものということになるのですが、フィンランドの憲法を始めとする国内体制の中にオーランドを位置づけ、それを寛容に受け入れることを実現したということを考えると、フィンランドが裁定後はその裁定に従って主体的に自己の国家像を幾分変容させたということができるものと思います。

オーランドのような「内的自決」を実現させる条件とはどのようなものでしょうか。こうした「内的自決」は、私は21世紀における民族自決の問題の解決に重要なヒントを与えるものと思いますが、どこにでも成立するものとは考えられません。チベットが中国において「内的自決」を果たすことはたぶんできないのではないでしょうか。

ゼミ生は、これを実現するには2つの鍵があると主張しました。私は、それをまったく正しいことだと思っています。すなわち、第1に、自治地区を持つ主体、つまり、オーランドの場合はフィンランドということになりますが、この主体が十分に民主的に成熟していなければなりません。大幅な自治権を持つ主体を大らかに包み込む寛容さとそのためには自己変革も行うことができる柔軟性がなければなりません。20世紀の初頭に、フィンランドとスウェーデンは、すでにこうした段階に達する国家だったのだと評価できます。

第2に、自治地区とそれを抱える主体がともに歴史を共有しなければならないと言います。『ウェストファリアは終わらない』の第1章で強調したことですが、メモリーの共有こそが主権国家の核にあるもので、「内的自決」を実現する場合でも、メモリーの共有こそが鍵となるのです。

オーランド・モデルは21世紀において、もっと注目をされてよい国際政治の事例であると私は思います。このように、ゼミ生から教えられることがあるというのが大学のゼミの醍醐味であるとこの年私はまた確認したのでした。


来週から、2012年度の私の総括の講義を再録致します。

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2018年7月30日月曜日

第91回【20世紀の悪魔・民族自決⑪】

ゼミ生の論文の紹介を続けます。
2人のゼミ生が、他のゼミ生とは異なった視点からの考察を提出しました。大変に興味深いものでした。

ひとりは、チベットのダライ・ラマの提出する「中道のアプローチ」を取り上げました。チベットが自決を当然にすべきひとつの独立した民族であることは明らかですが、中国による侵略を受け、その支配下にあり、その現状を変化させられないということもまた自明であると思います。チベットは、まさに命を懸けて中国と戦い、自決の権利を取戻し、主権を持つ国家を打ち立てるべきでしょうか。

ダライ・ラマも、1987年までは中国からの分離独立を主張していました。しかし、中国がそれを許さないことはあまりにも明らかで、それ故、1988年になって大きく方針を変更しました。その際に提出されたのが「中道のアプローチ」というもので、これは、国家としては独立することなく、それでもなお民族自決を達成するという発想です。「中道のアプローチ」は、欧州議会議員に対する講演の中で明らかにされたもので「ストラスブール提案」とも呼ばれます。

ダライ・ラマは、この講演の中で、中国に対してチベットによる「高度な自治」を要求します。すなわち、外交と軍事を中国政府に委ねる代わりに、その他の事項に関してはチベットによる自由裁量を要求します。信教の自由や宗教教育、使用言語や歴史教育などがその中核となります。これが「中道のアプローチ」と呼ばれるようになったのです。

なぜ「中道」かと言えば、それは自決を要求しながらも独立を断念する主張だからです。ダライ・ラマは、それまでに主張していた分離独立を諦め、現実と妥協し、独立ではない「高度な自治」を目指すこととしたのです。逆に言えば、それほどまでに強い中国の態度、つまり、チベットに対して自決どころか思想・良心の自由や言論の自由さえも許そうとしない態度の頑なさに絶望し、独立を諦める代わりに、より高い自治をせめて認めてほしいと訴えるようになったわけです。

ゼミ生は、「中道のアプローチ」に対するチベット人たちの態度を様々に検討しています。この妥協を許容する人々と、若者を中心とするこうした妥協に絶望し、過激な独立運動に向かう人々がいることを指摘しています。確かに、絶望した多くの若者が焼身自殺するという悲劇も近年続いています。
民族自決は、現在の国際社会では、否定できない正義と言って構いませんが、それは必ずしも容易に達成されるものではありません。カタルーニャに見られるように、どちらかと言えば寛容な政治制度を持つヨーロッパにおいてさえも、分離独立を果たすことは容易ではありません。まして、チベットが相手にしているのが中国であることを考えると、自決を果たしての分離独立は夢のまた夢で、現在のチベットの置かれた状況を考えると理解できるように、最低限の自治すら認められないというのが現実です。

そうした現実があるにもかかわらず、ダライ・ラマの提出する「中道のアプローチ」は、21世紀の国際社会を考える場合に、重要なアイディアを提出していると私は考えます。民族として自決はするが、分離独立は果たさず、既存の国家の中で高度の自治を獲得し、それによって、血で血を洗う戦いを回避しながら、実質的に独立に近い成果を獲得する。ここに、私は、果たすべき理念と変え難い現実の、わずかながらの接点を見出すのです。ヨーロッパにその実例があります。
次回、その実例を取り上げたゼミ生の論文をご紹介致します。

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2018年7月14日土曜日

第90回【20世紀の悪魔・民族自決⑩】


ある民族が自決を果たすとすれば、その民族は、自決を果たす程度に一体感を持っていなければなりません。すなわち、自決を果たした瞬間から国民としての統合された意識を持たねばならないのです。これが簡単でないことは、60年代以降に独立を達成したアフリカの多くの諸国で経験済みです。これをテーマとして取り上げたゼミ生もいました。「国民意識と教育」というテーマです。

このゼミ生は、アフリカにおいて、国民統合のための教育がいかになされてきたか、あるいは、それがいかに不足したり、うまくいかなかったかを論じました。国民としての意識は自然に発生するものではなく、作り上げるものだという認識は日本人に欠けているものと思います。教育はその中心に存在する重要な事業なのです。

帝国の一部となっていたり、植民地とされていた民族が実際に独立を果たしていった過程をテーマとした学生が多くいました。

古いところでは、ばらばらの領邦国家の集まりに過ぎないドイツに、最有力の国家であるプロイセンがいかにして集団としての国民意識を植え付け、統一国家に導いたかを取り上げたゼミ生がいましたし、また、第1次大戦後に独立を果たしたチェコスロバキアの独立までのプロセスを取り上げたゼミ生もいました。

新しいところでは、第2次大戦中に日本が占領をしていた地域、具体的には、インドネシアとフィリピンを取り上げて、その自決、独立の過程を描いたゼミ生がいましたし、同様に、スリランカの独立の過程を取り上げたゼミ生もいました。また、インドの独立を女性の視点から描いたゼミ生もいました。一番新しいものとしては、ルワンダの独立の過程を取り上げたゼミ生がいました。

以上は、自決・独立をすでに果たした事例を取り上げた論文ですが、ゼミ生の中には、未だに自決・独立を果たせていない主体を取り上げたゼミ生もいます。パレスチナと台湾がそれです。どちらも大変に難しい問題であると思います。ある民族が自決を果たし、国民が自身の政府を持ち、国家を成立させるには様々な困難が存在するわけですが、パレスチナと台湾には、とりわけ大きな壁が立ちはだかっているように思います。

さらに、最近になって、分離・独立のホットな問題として取り上げられているカタルーニャを取り上げたゼミ生がいました。国際社会で「民族自決」が重要な基本的原則となっていることは間違いのないことですが、現在存在している国家から分離して自決・独立を果たすことは奨励されていません。ヨーロッパにおいては、成功例としてチェコとスロバキアの分離があります。また、大きな犠牲を伴ったものとしては、ユーゴスラビアが、コソボを含めて、7カ国に分裂した例があります。他にも、ベルギーに分裂の議論が昔からあり、また、スコットランドやウェールズにも独立の兆しが存在しています。

カタルーニャはその最新の例ですが、まだこの問題が現在のように現実の政治課題とはなっていない2012年にこのゼミ生はこの問題を取り上げました。

カタルーニャと似た例としてコルシカ島の独立運動を取り上げたゼミ生もいました。コルシカ島はフランス領ですが、やはり昔から独立の議論が存在してきました。こうした例を通じて分かることは、民族自決と国家の独立は、国際社会の原則とはいえ、非常に困難な事業であるということです。そもそも、文字通りに民族自決や独立が許されるとすれば、現在の国家システムは見る影もなく分裂したものとなることは間違いありません。どこで歯止めを掛けるかが大きな問題ですが、線を引くのは容易ではありません。スコットランドの独立、カタルーニャ、チェチェン、その例を挙げれば切りがないくらいです。ヨーロッパにおいてもそうなのですから、アフリカなどでは想像がつかないような事態になると思われます。一説によると、文字通りの民族自決を行えば、アフリカに1000を超える国家ができるだろうと言われています。以前の国連事務総長が言ったことばです。

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2018年6月30日土曜日

第89回【20世紀の悪魔・民族自決⑨】

2012年度の柴田ゼミのテーマは「20世紀の悪魔 民族自決」だったのですが、ゼミ生たちは、様々な角度からこのテーマにアプローチしてくれました。
こうした国際政治の根幹にかかわるようなテーマの場合、学生たちの示す関心は拡散して多様な方向に行くのが普通ですが、2012年度の場合も、学生の選び出したテーマは多岐に渡りました。

まず第1に、民族自決という概念・理念それ自体をテーマとするゼミ生がいました。
ひとりは、理念としての「民族自決」がどのようにして国際政治の場に登場したのかを考察し、第1次大戦後のレーニンとウィルソンによるこの理念の提示を比較検討しました。第1次大戦前後から現在に至るまで、これら両国は国際政治を圧倒的に左右する力を示し続けているわけですが、民族自決のような理念の国際社会に対する提示には、内向きの作用と外向きの作用があります。
ロシア革命直後のソ連は、多様な民族をソ連という連邦国家に統合していかなければならないという内向きの大きな課題を抱えていました。レーニンの提案した民族自決は、国際社会に向けたものであると同時に、そして、それ以上の重要性をもって、ソ連という新生国家の、連邦を構成する諸民族に向けた国内向けの政治的デモンストレーションという傾きがありました。希望すれば、各民族は民族自決を果たして、独立国家としてソヴィエト連邦を離脱できるという寛容さを示すことを通じて、それとは逆の結果、つまり、ソ連への諸民族の統合を果たそうとしたのです。
興味深いことに、冷戦終結後に、この理念は一気に復活し、ソ連国内の各民族に独立を果たさせ、ソ連を解体に導いたのです。チェチェンに代表されるように、今でも分離独立の運動は続いています。
ウィルソンの民族自決の国際社会に対する提案は、レーニンのこうした動きに遅れまいとしたものと言えます。普遍的な価値の提案は、リーダーたるアメリカがなさねばならないし、それによって、国際社会におけるアメリカの威信を高めんとしたものと言えます。ウィルソンの民族自決の提案は、レーニンとはまったく異なって、圧倒的に外向きのベクトルを持っていたということができます。
そもそも、アメリカは、植民地から独立を果たした最初の国でした。こうした理念を国際社会に対して提案する存在としては、自らがもっとも相応しいと考えていたのです。ただ、依然として植民地を所有しているヨーロッパ諸国との関係から、この理念をとことん突き詰めて推し進める意志がアメリカにあったとは言えません。第1次大戦後の講和会議の中においても、アメリカの植民地独立に対する態度には腰の引けたものがありました。実際、この結果民族独立を実現したのは、ポーランドからブルガリアに至るヨーロッパ諸国のみで、アジア・アフリカにおける民族自決はまったく実現をしませんでした。
もちろん、確かに種は蒔かれたわけで、第2次大戦後に、この種は芽を出し実を実らせたのです。ただし、そこには、大量の血が流される場合が珍しくなかったのです。だから私は、これを「20世紀の悪魔」と呼んだわけです。
別のゼミ生は、民族自決の理念が、どのようにして国際法に取り入れられていったかを考察しました。

確かに、こうした理念・概念は、言いっぱなしでは国際正義として定着していかないわけで、「法化」されなければなりません。国内法とは違い、警察や裁判所があっても希薄な国際社会において「法化」することの意義を疑問視するような人もいなくはありませんが、こうした「正義」は反対するのが難しいだけに、いざという時には、案外多くの国家の行動を縛る場合があります。レーニンもウィルソンもどちらかと言えば、自国の国益のためにこうした「正義」を掲げたと言えると思いますが、徐々に「法化」されることで、自らもそれに縛られるようになります。国際社会の発展とはこのようにしてなされるのだと思います。「法化」を取り上げたのは、大変にいい視点であったと私は思います。

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2018年6月17日日曜日

第88回【20世紀の悪魔・民族自決⑧】

テーマの絞込みに対する学生へのアドバイスを引き続きご報告します。

「自決」の〈現在〉
「自決」の現状を考えてみるのもテーマとしてはありうるものと思います。

「自決」というものの国際法上の位置づけとそれに伴う問題をテーマにすることが可能です。ここで確たることを言うつもりはありませんが、国際法上の「自決」は極めて曖昧であると思います。つまり、「自決」というきれいごとのみが存在して、それが現実にどのように適用されればよいのかの議論は不十分なままになっていると考えられます。つまり、文字通り「自決」がなされるようなことがあれば、世界は大混乱に陥るはずです。要するに、「自決」にはどこかで限界が設けられなくてはならないはずなのですが、その議論が不足しているはずです。そこを抉る議論には価値があると私は思います。

2次大戦後独立を果たしたアジア・アフリカ諸国にはその後50年経ってもまともに自立を果たせていない国が珍しくありません。50年という歳月が長いか短いかには議論があるところだとは思いますが(私は長くないと思っています)、「自立」できない「自決」は有効なのでしょうか。「自決」には資格があるのではないでしょうか。では、その資格とは何でしょうか。

「自決」の〈未来〉
2次大戦後の20年くらいは、アジア・アフリカ諸国が次々と独立を実現する、ある意味、それらの国々にとっては熱狂の歳月でした。しかし、これらの「自決」は、今そうした熱狂が醒めた時代から振り返ると、あまりにも不完全であったと思わざるを得ません。つまり、自決の主体とは人民(people)であり国民(nation)でなければならなかったはずですが、この時代に独立を果たした諸国の多くの自決は、植民地時代の国境・枠組みを前提にしたもので、「人民」「国民」が不在であったことは否めません。これが現在の、そして、将来の紛争の原因となるわけです。

そのように考えると、現在の諸国家はかなり不完全な状態にあると言えます。国家はさらに細分化されていくのでしょうか。つまり、さらなる「自決」へと世界は進むのでしょうか。こうした新たな自決は、かならず紛争や内戦を伴うと考えられます。チェコとスロバキアは紛争なく分離をしました。スコットランドやカナダのケベックも紛争なく分離する可能性を現在では大きくしています。しかし、これらは圧倒的な例外ではないでしょうか。東チモールは独立までにどれだけの犠牲を払ったでしょうか。南スーダンも然りです。
あるいは、国家はむしろ統合される方向に進むでしょうか。現在の主権国家が様々な不足を抱えていることは明らかで、より大きな主体を選択するということがあり得るでしょうか。よく出される例がEUです。「自決」以上に重要な価値、利益とは何でしょうか。統合に欠かせない価値は何でしょうか。私はそれは「寛容」であると考えますが、人間にそうした価値をとことん実現することが可能でしょうか。

2次大戦後に独立を果たした国家の多くの自決が不完全であったことは事実ですが、その国家の向かう方向は細分化のみではありません。「分裂」とは異なる方向も存在しています。国内の統合、すなわち、新しい国民の創出という方向があり得ます。国内に存在するいくつかの「民族(原則として「民族」という単語は使わないとゼミで明言しましたが、使わざるを得ない場合があるのが残念です)」がそれぞれを隔てる垣根を低くして統合に向かうわけです。現に、たとえば、スイスなどは4つの言語、3つの民族、2つの宗教が入り乱れた国民がまさにひとつの国家を作り上げています。こういう方向こそが未来なのでしょうか。その際にもキーとなる価値は、私は「寛容」であると思いますが、どうでしょうか。

以上、「自決」の過去・現在・未来と題してヒントを提出しました。今年のテーマは、やればやるほど裾野の広いいいテーマだということが分かりました(自画自賛!)。逆にいえば、うまく絞らないと論文になりません。皆さんは1月末には論文を提出しなくてはならないわけですから、「自分のテーマ」を早急に絞り込まなくてなりません。論文の出来の8割はこの絞り込みで決まります。これができれば後は力仕事です。


次回より、学生のゼミ論の紹介を致します。

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