2018年1月30日火曜日

第79回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑲】

核抑止は、これまでのところ、特に、アメリカとソ連の間では、破綻なく成功してきた戦略であると評価できます。しかし、核兵器そのものの持つ意味、核抑止の意味、を理解できない、あるいは、その政策を実行できない主体が核兵器を持つようになることこそが現代における最大の脅威です。すなわち、現代における最大の脅威は、核兵器の存在そのものではなく、核拡散であるのです。

核抑止の相矛盾する条件のところで繰り返し示唆してきましたが、核抑止を機能させるためには、少し皮肉に言えば、八百長が必要で、そこになれ合えない存在が介入してガチンコの勝負になってしまうのが最悪の事態であると言えます。その意味で、現在の核保有国(安保理の5常任理事国)に核保有国がとどまる限りはある程度は安心なのですが、インドやパキスタン、さらに、イランや北朝鮮が保有国となると話は相当に変わってくると言わざるを得ません。現在の核保有・管理の在り方がいかに不公平であるとしても、核保有国の数を増やさないこと、まして、テロリストのような存在に核兵器が渡るようなことのないようにすることが最大に肝要なことであると思います。

さて、そこで日本の核兵器に対するあるべき姿を簡単に述べたいと思います。私の考えはかなり過激であると思います。私は日本は核兵器を持つ必要がないと信じています。
いかにそれが残念なことであるとしても、同盟国であるアメリカの核抑止政策に必要なことがあるのであれば最大限に協力をすることが必要です。核兵器は抑止にこそ存在意義があるわけですから、核兵器を持たない日本もこれにできる限り協力すべきです。また、核兵器を持っていないとは言っても、核時代を生きているわけですから、核抑止という考え方・政策に習熟する必要があります。日本人はこれが苦手のように思います。

アメリカを始めとする安保理常任理事国が核を優先的に保有していることは明らかに不公平なことではありますが、これ以上核を拡散せない、核の拡散の防止に日本は最大限協力すべきです。もちろん、核大国には機会あるごとに貴国も核を捨てよ、と言うべきですが。

以下が私の考えの核心ですが、核兵器を使って実現すべき政治的目標などこの世には存在しないと「舐め切って生きる」ことが肝要です。核時代を太く生きるためにはこうした覚悟が必要であると私は考えます。日本人はどうも臆病でいけませんが、私は、国民の総意で核兵器を舐め切ることが核時代を生き抜く鍵であるという結論に達しました。「核兵器を持たず、使わず、使わせない」という政策の基礎には、こうした核兵器をとことん舐め切る態度が必要であると思います。

核兵器を使った脅しに断じて屈しない覚悟が必要であると思います。核兵器を使って実現するべき政治的目的など存在しないわけですから、本来は、怖がる必要だってありません。私は、国民が一体となって「使えるものなら使ってみよ」と完全に開き直るべきであるとまで考えています。だって、使えるわけないのですから。

核兵器の被害を現実に被ったのは日本だけです。私はこれが日本の特権だとはまったく思っていませんが、核兵器の被害がいかなるものであるかを世界に伝えることは日本の使命であると考えます。日本人が考える以上に海外の人たちは核兵器の被害がいかに恐ろしいものであるかを理解していません。
以上の日本の取るべき道は、核兵器が核抑止を理解し合理的に判断できる国家のみに保有されている場合の話です。たとえば、そういう国家の国民であれば、核兵器の被害がいかなるものであるかを理解して核兵器の使用を躊躇ったり、核兵器を減らすことを考えたりすると想定できるわけですが、核兵器を最初から使用するつもりで保有しようとするテロリストであれば、被害が大きければ大きいほど使用の誘惑に駆られるわけで、被害の悲惨さを広報することは逆の効果を生むことになります。すなわち、核兵器を実際に使いかねない存在が核兵器を獲得するという事態はすべての条件や思考を吹き飛ばしてしまうわけです。核の拡散こそが現代の最大の脅威であるというのはそういう意味であるのです。


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2018年1月15日月曜日

第78回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑱】

さて、抑止のためには何が必要でしょうか。相矛盾する要素を次に列挙してみます。

核抑止とは、核兵器をチャンスがあれば使いたくて使いたくて仕方のない敵国に対して、同じ核兵器で脅しをかけることでその使用を抑止する戦略・政策のことです。「使いたくて使いたくて」というところを実は証明することは不可能です。私は馬鹿げた想定だと思いますが、安全保障においては最悪の事態を想定するというのが定石で、それ故、敵国は核兵器を持っている以上チャンスがあれば使うに違いないと想定せざるを得ません。そのためには、必要が生じれば核兵器を使用する覚悟がなければならないということになります。本当は、核兵器は使えないということは分かっているのに、そのように考えてそのような行動を取らなければならないということです。

核抑止戦略の核心には「相互確証破壊MAD(Mutual Assured Destruction)」という戦略が存在しています。敵が仮に自国を核攻撃してきた後にも生き残り、さらに相手国に報復できるような核兵器を保有するということです。すなわち、相互に確実に破滅的な被害を受けるような核兵器を双方が保有するというわけです。そうすれば、たとえ、使いたくて使いたくて仕方ない状態でも核兵器の使用を躊躇うはずだというのがこの戦略の発想です。病的な発想ではありますが、なるほどそうだよねという戦略でもあります。問題は、これを突き詰めてやっていくと過剰な量の核兵器が双方に保有される可能性が高いということで、こうした戦略の下で行動しながらも核兵器の保有量が過剰にならないようにしなければならないという課題が常に付きまといました。結局は過剰になってしまったのですが。


核抑止戦略の少し変なところは、MADを有効に機能させるためには、本来の国家の機能を歪めざるを得ないということにあります。その第1は、自国の核兵器を徹底的には保護しないという行動に繋がりました。自国の核兵器が無敵であるとすれば、それは相手の核兵器が無力化されるということで、アメリカもソ連も自国の核兵器の保護を徹底はしませんでした。要するに、相互にMADを最優先の戦略としていたということです。第2に、アメリカもソ連も自国民を核兵器から徹底的に保護することを故意にしませんでした。ABM(ミサイル迎撃ミサイル)を国中に配備すれば(費用の問題はこの際無視しますが)、すべての国民を敵の核攻撃から守ることが可能になるわけですが(確率の問題はこの際無視します)、そうすれば、敵国の核兵器は無力化されることになります。こうしたことをしようとするだけで、敵国はそうなる前に攻撃を仕掛けようという誘惑にかられる可能性があります。これはMADの発想に反します。そこで、米ソ両国はABMの配備は国土の2か所までという条約をかわしました。国民の保護という国家最大の道義的使命よりもMADの戦略を優先したわけです。


核戦争は確固たる戦争の意志から生まれるとは限りません。誤解により、あるいは偶発的な事件により核戦争が誘発される可能性は否定できません。そこで、それを防ぐためには、核保有国同士が誤解・誤認をしないようにするためのネットワークが必要になります。互いに平時から情報交換をすることで偶発的な核戦争を防ごうというわけで、それは麗しい気もするのですが、考えてみれば、これらの諸国は核兵器を突き付けあって対立をしているわけで、なぜこうしたネットワークが成立するのか、かなり謎めいています。アメリカとソ連の間では、ホットラインといって、アメリカの大統領とソ連の共産党の指導者が直接に電話で話ができるようになっていました。これはキューバ危機以降に出来上がったものですが、偶発的な核の使用を徹底的に排除するためにはこうしたことが必要とされたわけです。それにしても、アメリカとソ連は本当に対立していたのでしょうか。不思議な関係です。


核保有国は、MAD最優先という発想からも分かるように、自国は断じて核兵器を使用しない、そして、他国にも使用させないということを肝に銘じて決意していました。そのためには自国民を守らないということを相手と合意する条約さえも締結したわけです。つまり、自国、そして、他国の核の先制攻撃につながるような核兵力を持たず、また、そうしたドクトリン、核兵器にまつわる政策を持たないことを固く決意していました。もちろん、何かあれば使う気だったのですが。


以上の多様な相矛盾する条件をいかにこなして核兵器の使用を抑止するかが核保有国に課せられた使命で、そのためには、少し普通ではない政治的な知恵が必要とされました。幸いにも、冷戦期間中、米ソはこれらの課題を何とかこなしてきたということが言えます。むしろ、米ソ対立なんて嘘っぱちで、彼らはグルで八百長をやっていたのではないかと思うほどです。東西のそれぞれの陣営の子分の国家に言うことを聞かせるために、親分同士が八百長で対立をして見せていたのではないかと思えるのです。こうした感想は、もちろん、正しくはないのですが、ちょっとだけ当たっているように私には思えます。



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