2018年2月28日水曜日

第81回【20世紀の悪魔・民族自決①】

2012年度のゼミのテーマは、「20世紀の悪魔・民族自決」というものにしました。考えてみると、20世紀には様々な悪魔が登場したように思います。2011年度のテーマ「核兵器」も悪魔のひとりかもしれません。他にも「共産主義」や「ナチス」などといった多くの悪魔を容易に見つけることができます。
何が悪魔かと言えば、それらが大量の「死」を生み出したからです。
ゼミ生の募集にあたって、以下のような文章をゼミ生募集の案内に載せました。

21世紀だってどうなるかわかったものではないが、少なくとも20世紀は人類の歴史上最も野蛮な世紀(100年)であった。
それをもたらしたものは技術の進歩などたくさん考えられるが、20世紀の初頭、第1次大戦直後に現実のものとなった2つのアイディアが最大の原因であったと思われる。ひとつは言わずと知れた共産主義である。共産主義については20世紀中にほぼ決着がついたかに見える。もうひとつが民族自決という考え方である。これについては取り扱いを誤ると21世紀にも繰り返し悲惨な事態をもたらしかねない。
2012年度ゼミでは、民族自決というアイディアが国際政治の実際にどのような影響を及ぼしてきたかを考えるのが最終的な目標だが、その前に、民族とは何か、民族主義(ナショナリズム)とは何か、自決とはどういうことか、など現在の国民国家の根幹にかかわる事柄を考えてみたいと思う。ちょっと難しい話になるかもしれません。」

民族自決という考え方は、主権国家の設立へと向かう運動へと発展していかざるを得ないものですが、昨今のスコットランドやカタルーニャの問題を見て分かるように、100年経ってもなお依然としてホットな問題であり続けています。21世紀においても、この問題は明らかに取り扱い注意のテーマであり、戦争と平和の問題を考える場合にまさに格好のテーマであると言えます。2012年度のゼミのご報告を致します。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。


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2018年2月16日金曜日

第80回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑳】

2011年は、「彼らはなぜ核兵器を持つか」と題して、核兵器にまつわる問題を考えました。それからわずかに7年を経て、現在、核兵器を巡る問題、特に、日本の周辺における核問題は大きく変化しました。言うまでもなく、北朝鮮の核兵器保有が現実のものとなったからです。

2011年においても北朝鮮の核兵器開発は行われていたわけですが、それよりもはるかにイランの核開発が国際社会では問題とされていました。ゼミにおいても、北朝鮮の核兵器獲得はイランよりもずっと先の話しのように議論されていました。要するに、北朝鮮問題はこの頃まだ切迫していなかったのです。もちろん、1993年から94年にかけて、アメリカが北朝鮮の空爆を検討したこともあったわけですから、本当は、もっと気に掛けてよかった存在だったのかもしれません。

北朝鮮の核兵器問題の特異性は、国家の指導者が、核兵器開発の先頭に立ち、核兵器の使用を公然と発言しているということにあります。従来の核兵器保有国は、核の使用を口に出したりはしませんでしたし(トランプが出てきて様子が変わったようにも思いますが)、インドなどの後発の核兵器保有国や核兵器開発の疑いのある国家も、その開発を出来る限り隠そうとしてきましたし、その使用を公言したりはしませんでした。北朝鮮は、その意味で、極めて特異であるということができます。

すでに論じましたように、私たちは核兵器と共存して生きていかなければならない以上、現代における最大の核兵器問題は核の拡散で、北朝鮮の核兵器の獲得と保有は、それ故、非常に大きな脅威であるということができます。なぜならば、北朝鮮は、パキスタンやイランなどの核開発に極めて緊密に結びついており、核兵器とその運搬手段であるミサイルを闇市場において流通させる可能性が非常に高いからです。すなわち、北朝鮮の核兵器の獲得は、それ自体拡散の問題なのですが、そこを起点としてさらに広く拡散される恐れが高いという意味で大問題なのです。

現在の核管理体制であるNPT体制は、インドが昔から主張しているように、極めて不平等なものです。しかし、核拡散の可能性と比較すれば、この不平等は当面甘受すべきものだと私は思います。北朝鮮の核兵器保有が仮に認められるようなことがあれば、NPT体制は事実上崩壊するわけで、核兵器の新しい管理システムを築かなければならないわけですが、果たしてそれは現在の体制よりも優れたものとなる見込みがあるでしょうか。私は悲観的です。

最近、アメリカが小型の核兵器開発を行うとの政策を発表しました。これが核兵器の使用のハードルを下げるものであるとすると不適切なものだと言えます。しかし、この政策は中国とロシアを意識した核兵器戦略で、ならば抑止の一環であるということが言えます。相手の核戦略に真面目に対応することこそ核抑止の必須の態度であることを考えれば、こうした政策は必ずしも不適切ではありません。

核抑止を理解することはなかなか難しいものです。重要なことは、現在の核兵器保有国は、核兵器をできれば使いたくないし、相手にも使わせたくないと真に思っているということで、彼らの打ち出す核戦略、核戦術は、それを実現するためのものだということを理解することです。問題は、これを理解しない国家や主体が核を獲得することなのです。

今このテーマでゼミをやるとすれば、たぶん、2011年とはかなり違ったトーンの議論がなされ、それをベースにして論文が書かれ提出されたものと思います。しかし、私の結論は、2011年のものとほとんど変わりないものになると思います。つまり、核兵器それ自体よりも、現代においては、核の拡散こそが真の脅威であり、それをいかに防ぐかが私たちの課題であるのです。

また、日本は、それでもなお、核兵器を持つ必要はありません。政治とは、目指すべき「目標」と使用可能な「手段」との間の不断の対話からなされるもので、核兵器という「手段」を以てして目指すべき「目標」は存在しない以上、そのような「手段」を獲得することは誠に愚かなことなのです。
そして、日本だけでなく、あらゆる国にとって核兵器の実際の使用によって実現すべき国益など存在しないわけですから、仮にこの世に核兵器が存在するにしても、それを気に病む必要などないのです。抑止のために日本も核を持つべきだと主張する人がいますが、まともな保有国ならそもそも使用はしませんから日本がそれを抑止する必要などありませんし、相手が狂人ならば、たぶん抑止など無駄なことなのです。だからこそ、核兵器の拡散を何としても防がなければならないのです。


2011年にゼミで勉強をしたゼミ生たちは今は皆社会人ですが、たぶん、学生時代にした勉強を振り返っていることと思います。こういうことは案外ないものです。社会人になって、あるいは、家庭を持って、果たして学生時代とどのように考えが変わったか否か、もう一度議論してみたいものです。叶わぬ夢ではありますが。

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