2018年10月26日金曜日

第97回【20世紀の悪魔・民族自決⑰】

21世紀を20世紀とは異なる平和な世紀とする鍵は、「寛容」と「独立自尊」であると私は考えるようになりました。
「人民」の自決を許す「寛容」。誰が人民の資格を持つかはその時々で検討をする以外にないものと思います。抽象的な定義はたぶんできないのです。しかしながら、ゼミで勉強した皆さんには分かると思いますが、自決をした「人民」は断じて「独立自尊」を果たさねばなりません。これを果たす気のない、あるいは、果たす能力のない集団は「人民」ではないのです。そういう集団はより大きな国家に依存して生きるべきです。独立など考える資格はありません。しかしながら、ある集団が「独立自尊」を果たすまで、いったい、どれくらい待つべきなのでしょうか。私は気長に待つべきだと思っているのですが、それにしても、どれくらいの期間、先進国は援助をし続けるべきなのでしょうか。たとえば、カリブ海の島国ハイチは、アメリカ大陸で2番目に早く独立を果たした国(ちなみに1番目はアメリカ合衆国)ですが、現在も「独立自尊」を全うしたとは言い難い状態にあります。独立後200年経ってなお「独立自尊」が果たせないとしたら・・200年は長いのでしょうか、それとも、まだまだ短いのでしょうか。

人民の自決を許すとすれば、世界には現在よりはるかに多くの主権国民国家が生まれざるを得ません。その中には、ハイチのような例がたくさん含まれる可能性が高いと思います。私が今年度のゼミで得た最大のアイディアは「自治」という民族の在り方でした。どの人民も独立せずとも「自治」によってより容易に「独立自尊」に到達できるかもしれないという考えです。もちろん、自治にも「独立自尊」の責任が伴います。そして、肝心なことは、自治を獲得する側だけでなく、自治を与える側の国家の成熟が非常に重要だということです。分離独立の問題を抱える国家の多くが、この成熟とは無縁であるかのような国家であることは大変に大きな問題ですが、それでもなお、する側とされる側にとって分離独立よりは自治という解決の方がより容易な解決法であるように思います。

21世紀において、現在よりもはるかに多くの主権国民国家が生まれざるを得ないと私は考えます。仮に、自治という中間的な解決方法が相当にうまくいっても独立でしか満足できない人民・民族が多数存在することは否定できません。これをどのようにして可能にするかが21世紀の「難問」のひとつであると思います。私は、「許す」ことと「非真面目」が21世紀を生きる人が身に付ける態度であると信じています。もちろん、それによって「難問」が解決されるわけではありません。しかし、その宙ぶらりんな状態を許しそれに甘んじることこそが平和に生きる道なのです。

私たちは、自決しようとする人民・民族にそれを「許す」必要があります。それは独立でも自治でも構いません。そして、「独立自尊=自立」に至るまで彼らに多くの時間を与えることを「許さ」ねばなりません。その時間は人の一生を超える時間になる可能性があります。国家づくりとはそのような試みであるのです。だから、長ーく援助をしなければならなくなるかもしれません。そして、何事についても熱狂的に信じるようなことをしてはいけません。それを私は「非真面目」と呼びます。20世紀の教訓には様々なものがありますが、真面目で勤勉な公務員こそが大量殺人の実行者になるのだ、というのがその最大のもののひとつで、私は、何に対しても熱狂的にならない「非真面目」の態度こそがそれに対する有効な解毒剤であると思います。「許す」ということを背景から支えるのもこの「非真面目」の態度であると思います。私たちは21世紀をあまり真面目に生きてはいけません。あらゆる変化を受け流し認め適応する「非真面目」な態度こそが21世紀を平和にしうる態度なのです。

以上、2012年度末にゼミ生を対象にしてした講義の内容を再録致しました。

通常ですと、次回は2013年度のテーマに移るところですが、2012年から6年経った現在、その後私もちょっとは勉強をしたわけで、その結果、大きく認識を変えた部分が出てきました。次回それにつきまして論じたいと思います。

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2018年10月15日月曜日

第96回【20世紀の悪魔・民族自決⑯】

さて、以上のことを踏まえて21世紀を展望してみましょう。
20世紀を史上もっとも野蛮にした3つの要因はどうなったでしょうか、あるいは、どのようになる見込みでしょうか。
第1に、武器・兵器は依然として進化し続けています。たぶん、武器・兵器は今後もずっと発展し続けるのだと思います。つまり、より効率よくより大量に人を殺す道具が工夫され続けるということです。人類はどこまで愚かなのでしょうか。

しかし、これにはこれまでの発展と多少違う方向も観察されます。つまり、アメリカが典型ですが、敵はいくら死んでもいいけれども、味方つまりアメリカ人が死ぬのは耐えられない社会が出来つつあります。今はアメリカが典型ですが、いずれどこの国でもそうなっていくものと思います。つまり、敵を一気に大量に殺す技術を発展させると同時に、味方をいかに戦闘で死なせないかという方向の兵器の開発が行われるはずです。無人飛行機の偵察や攻撃が今注目されていますが、これがその典型です。いずれSF映画のように、ロボットの兵士が登場することは間違いないと思います。

第2に、国際法は今後も間違いなく発展していくものと思いますし、それを無視してまともな主権国家が行動し続けられるとは考えられません。どんな国家も何事か行動を起こす場合には国際法を視野に入れないわけにはいきません。ただし、その進歩の歩みは遅々としたもので、そして、時には無力で、国際法が十分に国家の行動を縛るようになるまでには数百年の時を費やさざるを得ないものと思います。何度でも言いますが、それでもなお、国際法の発展にしか国際社会の未来はありません。

第3に、イデオロギーとしての共産主義はさすがに実効性を失いましたが、しかし、共産主義に代わるイデオロギーの登場までもなくなったとは言えないものと思います。イスラムをベースにしたかのようなテロリスト集団の狂信性は、共産主義のイデオロギーを凌ぐもののようにすら感じられます。テロは21世紀の主要テーマとなった感があります。

民族自決というものの考え方は21世紀においても有効で紛争の重要な鍵になるものと思います。だからこそこれを2012年度のテーマとしました。民族自決というものの考え方は間違いなく正義に適っています。問題はその概念が曖昧で、この権利を行使する主体が誰なのかが明確でないということであるように思います。植民地主義の遺産はまだ清算されていません。現に今ある国家の枠組みはどこまでも暫定的ということができます。

何しろ、植民地から独立したわけではない西欧諸国においてすら民族独立を訴える分離主義が珍しくありません。スコットランド、ウェールズは長期的にはイギリスから独立するのではないでしょうか。ベルギーが2つに分裂する可能性はかなり高いと思います。カナダのケベックも分離独立の可能性を依然秘めています。共産主義から解き放たれたチェコスロバキアはすでにチェコとスロバキアに分離しました。バルセロナ有するカタルーニャやバスクはスペインから独立する道を選ぶのでしょうか。かなり成熟した西欧の主権国民国家においてすら現在の国家の枠組みは盤石とは言えないわけです。

まして、50年前、60年前に植民地から独立した諸国においては、現在の国家の枠組み、もっと分かり易く言うと、現在の国境は、むしろ虚構に近いと言ってもいい場合がざらなわけです。こうした諸国においては、無数と言っていいほどの分離独立運動が存在しています。重要なのは、私たちが民族自決が正義だと考えるのであれば、こうした運動を認めなければならないということです。それとも、民族自決というイデオロギーを否定することは可能でしょうか。私はこれを不可能だと考えています。なぜならば、民族自決という考え方は正義に適っていると考えるからです。もちろん、何度も言うように、この概念はあまりにも曖昧なので、もっと明確化しなければならないとは思います。しかし、まるごと否定することは不可能であると考えます。つまり、私たちは、民族自決を疑問の余地のないように定義しなければならないのです。「民族」とは何かという問題です。そして、実は、これこそがまさに困難な問題で、簡単には解決されないと思うわけです。20世紀の悪魔のひとり「民族自決」を21世紀に飼いならすためには、だから、言葉の定義の問題とともに以下のような態度を身に付ける必要があると私は考えます。
(第97回に続く)

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2018年10月2日火曜日

第95回【20世紀の悪魔・民族自決⑮】

20世紀を人類史上もっとも野蛮にしたイデオロギーの東の横綱が共産主義でした。共産主義はまず第1に自国の国家内部の敵に向けた暴力へと繋がりました。それがさらに他国に対しても共産主義を広めなければならないということで外に対しても暴力が向かっていったわけです。共産主義という「正しい」思想・体制を世界に広めていくためには、必要ならば(そして必ず必要になるんですが)暴力に訴えてもそれは正しいと考えられたわけです。

対する西の横綱が、今年のテーマ、民族自決(人民の自決の権利)というイデオロギーであったと思います。厄介なのは、この人民の自決の権利というものの考え方が正しいということだと思います。そのくせ、人民とか民族とか自決といった重要な概念が極めて曖昧なのです。その結果、多くの紛争が引き起こされる結果となりました。これはこれから数百年続くものと思います。民族自決の考え方を背景に持った民族解放闘争・戦争が20世紀に盛んに行われました。植民地主義のことを考えれば、そして、植民地帝国が簡単に植民地の独立を認めなかったことを思えば、こうした闘争・戦争はたぶん不可避、あるいは、必要のあったものなのかもしれないとも思います。しかし、その結果、多くの人命が失われました。そして、重要なことは、そこで死んだ多くの人々が、独立のためであれば自分の命は失われても仕方ないと信じながら死んだということです。ひとは何かを信じれば確かに進んで死ぬ存在でもあるのです。しかし、だからといって人間が大量に死んでいいものでしょうか。たとえそれが正しいものの考え方であったとしても、民族自決は間違いなく、20世紀を野蛮な世紀に導いたのでした。

考えてみれば、ヨーロッパの18世紀ははるかに文明的であったと言えます。もちろん、20世紀とは違って、瞬時に大量の人間を殺すような技術がなかったことも幸いしていたことは否定できません。それでも、この時代と20世紀との違いは、ものの考え方の相違であったということも重要であると思います。

18世紀においては、戦争は正しい「何か」のために行われるのではなく、徹底して「利益」のために行われると信じられていました。戦争に伴う被害が戦争で得られる可能性のある利益を上回るようであっては馬鹿げているとすべての関係者が心から信じていました。だから、戦争は正義と悪魔の戦いではないということ、所詮一時の利害のためだということが肝に銘じられていました。こうした戦争は様式化せざるを得ません。つまり、一種のスポーツになるわけです。この時代の戦争は傭兵による戦争ですが、傭兵はもちろん金目当てで、死んでしまっては意味がありません。だからこそ、戦争はぬるく、場合によっては、兵士の展開の状況によって、戦わずして勝敗が決まったりしたわけです。


このようなスポーツとしての戦争の終わりがフランス革命に伴う戦争(ナポレオン戦争、それを終わらせたのが1815年ウィーン会議)で、この革命によってイデオロギーを背景にした戦いと傭兵ではない国民軍が登場し、それまでの戦争を一変させたのです。20世紀はまさに19世紀の延長線上に花開いた野蛮の世紀だったわけです。

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