2018年12月30日日曜日

第101回【ひとを殺す道具③】

2013年度は「人を殺す道具」と題して1年間ゼミを行いました。ゼミ生がどんな「武器」を取り上げ、どのような議論を展開したかを何回かにわたってご紹介致します。

例年、私はゼミ生に対して、ゼミ論のタイトルの重要性について強調してきました。タイトルは、筆者のテーマへの理解の深さと角度を明確に表すものであるべきで、徹底的に工夫されなければならないものです。私の著書『ウェストファリアは終わらない』がその点で優れたタイトルかどうかは自分では判定しかねるのですが。

2013年度は例外的に、私が全員に同一のタイトルを与えました。すなわち、「人を殺す道具――〇〇」の〇〇のところに自分の取り上げた「武器」を入れなさいという指示です。もちろん、副題を付けることは自由であるとしました。副題を付けたゼミ生もいれば、何もつけないゼミ生もいました。
全員のテーマを並べてみると、案外面白いので、今回はゼミ生がどんな武器を取り上げたかの一覧をお見せ致します。
  1 潜水艦
  2 小型武器(小火器)
  3 プロパガンダ
  4 攻撃ヘリコプター
  5 音響兵器
  6 AK47
  7 マスタードガス
  8 こども
  9 対潜哨戒機
  10 無人航空機
  11 魚雷
  12 地雷
  13 地雷
  14 化学兵器
  15 処刑(のための器具)
  16 クラスター爆弾
  17 劣化ウラン弾
これらを、いくつかに分類して次回以降その内容を簡単にご紹介致します。

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2018年12月17日月曜日

第100回【ひとを殺す道具②】

2013年度のテーマは「ひとを殺す道具」。武器をテーマとします。
武器と言っても、できるだけ広い意味でこれを考えていきたいと思っています。銃はもちろん兵器ですが、ナイフだって兵器として使用できないわけではありません。銃にも様々な種類があります。もう少し大きくなると、ミサイルや飛行機、潜水艦、空母のような兵器もあります。また、馬や犬や鳩も兵器として用いられたことがあります。

直接的に兵器とは言えなくても、兵器の一部として無視できない機能を果たしている部品も重要かもしれません。ミサイルの先端部分に取り付けられているカメラや戦場で使用されているオフロード用の自動車だって立派な兵器の一部です。日本ではあまり取り上げられませんが、スペースシャトルで行われている実験の大半は軍事目的のはずです。

逆に、インターネットは軍事向けに作られたものが一般に普及して今ではなくてはならないものに発展しています。CDMAなどの携帯電話の技術も軍事目的で開発されたものです。つまり、軍事用の技術と民間向けの技術は今では広い範囲で共有されていて一線を画すことは非常に難しくなっています。これらのすべてを2013年度のテーマの範囲とします。

武器には、その武器そのものの効用(目的と言い換えてもいいですが)がまずあります。たとえば、地雷の中には次のようなものがあります。その地雷はひとを殺しません。片足を吹っ飛ばすだけ。片足を失った少年少女や大人の治療に、そして、その後のその人たちの生活に、社会は何らかの負担をしなければなりません。彼らは障碍者になってしまったのですから。社会に負担をわざわざ強いることが目的の地雷ということになります。だからわざと人が死なないように作られている地雷なのです。こういう武器の効用を調べます。

また、武器の開発には様々な局面があります。こうしたプロセスに特色があればそれを調べるのも面白いはずです。民間で開発された技術が重要な武器に使用される過程などがこれに当たります。たとえば、ステルス戦闘機。レーダーではその存在が読み取れない飛行機ですが、この飛行機には特殊な塗料が塗られています。その塗料は、日本の会社が、テレビの電波を吸収して跳ね返さない塗料として開発してビルなどに塗って使用するはずでした。レーダーは飛ばした電波の跳ね返りを読み取るものなので電波が跳ね返らないで吸収されると読み取りは不可能になります。これを飛行機に塗ればレーダーに捕捉されない、つまり見えない戦闘機が作れると考えたのはアメリカ人で、日本人の開発者には想像もつかないことでした。こうした民需と軍需の相互乗り入れもテーマになります。

あるいは、映画「戦火の馬」でも描かれているように、馬は戦争の重要な一部でした。第1次大戦を境にそれは戦車に取って代わられることになりました。なぜ戦車が登場したかといえば、機関銃の登場が欠かせません。機関銃の登場、鉄条網と塹壕での戦い、これが馬を戦場において無用の長物にしたのです。馬にとってはラッキーですが。こういう移り変わりもテーマになります。


以上のような、武器(ひとを殺す道具)をめぐる様々には無数のテーマが隠れています。それらを発掘して、そのうちのひとつを自分のテーマとして掘り下げるのが2013年度の柴田ゼミとなります。そうした考察から現代の国際政治を捉え直し、21世紀の未来の世界を思い描いてみたいと思っています。

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2018年12月5日水曜日

第99回【ひとを殺す道具①】

2013年度の柴田ゼミのテーマとそこでの議論をご報告致します。
ゼミに臨むに際して、ゼミ生に対して以下のような話を致しました。
前回(98回目)で述べましたように、この時期はまだピンカー教授の著書を読んでおらず、20世紀の評価につきましては古いままにしてあります。ただ、10万人当たりの数字での統計的な理解ではなく、規模それ自体の理解としては、20世紀が大規模な「殺人」を繰り返したことは否定できません。ここでは、2013年における私の議論をそのままにしてご報告を続けることと致します。

2012年度のテーマもその一環だったのですが、たぶん数年がかりとなる現在の柴田ゼミのテーマは、20世紀がなぜあんなにも野蛮で残酷な世紀になったのかということなのです。
2011年度は「核兵器」がテーマでした。20世紀が残した最大の難問(difficulties)のひとつです。核兵器の双子の弟、原発も20世紀が残した難問であることに今や日本人のすべてが気づいています。2012年度のテーマは「民族自決」。20世紀が血塗られたものとなったのは、共産主義やら民族自決やらといったイデオロギーが人々を戦いへと駆り立てたからだと私は思います。

2011年度は、「核兵器」というテーマに対する「結論」を考えながら、2012年度のテーマ「民族自決」のことをこれまた考えていたのですが、実は、その時点では、私自身がまだ私自身の問題意識に気が付いていない状態だったと思います。2013年度のテーマを決めたのは2012年秋になってからですが、自分で自分の関心に気が付いたのは、その時になってからのことです。


大きく言うと、「大量殺人のハードとソフト」に現在私は関心があります。20世紀は人類史上最も野蛮な世紀で、最も大量に人間が殺された100年間でした。なぜそうなったかについては、様々な議論がありえますが、私は、大量殺人のための「ハード」と「ソフト」が出揃ったからだと思います。言うまでもなく、核兵器は大量殺人のハードの典型的なものです。2012年度に取り上げた民族自決は、独立を求める多くの人々の大量殺人を肯定するソフト、つまり、イデオロギーとして機能した側面を否定できません。このように考えると、2011年度のテーマ(「核兵器」)と2012年度のテーマ(「民族自決」)は実は繋がっていたのです。2013年度のテーマを考える中でようやくそれに気が付きました。

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