2019年3月30日土曜日

第107回【ひとを殺す道具⑨】

総括の講義のご紹介を続けます。

そもそも武器は道具に過ぎません。いわば中立の存在です。誰が何のために使うかということが、実は、真の問題なのです。その意味で、武器は両義的な存在と言えます。ひとつの武器が、不正に人を殺すこともあれば、正義のために人を殺す場合もあるのです。そう考えると、真の問題とは、「正当に人を殺す」ということの意味であることが分かります。人を殺すことはいけないというのは簡単ですが、それが正義のためであるということがあるのです。戦争がその典型例であると言えます。

それにしても、仮に人を殺すことが正義であることがあるとしても、これほどまでに武器を開発し発展させる必要があるものでしょうか。考えれば考えるほど不思議な感じがします。人間はちょうどいいところで何事かをやめるということができない存在なのかもしれません。

「ひとを殺す道具」は一般に以上のような両義性を持つ存在なのですが、例外があります。この例外を今年のゼミで発見できたことも収穫でした。ひとつは「こども」、もうひとつは「処刑」です。

こども兵の問題はこれまでのゼミでも何人かが取り上げてきました。しかし、こどもそのものを武器と見立てる見方は初めてだったと思います。こども兵の問題を取り上げる場合には、普通、そのこどもの悲惨さやそうしたこどもを生む社会の問題を論じるのが普通です。しかし、今年のゼミでは、こどもそれ自体を武器に見立てて、こどもをいかにして武器に仕立て上げるかというプロセスに着目してFさんが論文を書きました。こどもを武器と見立ててみると、この武器が他の武器とは異なった特色を持つことに気が付きます。すなわち、誰が何のために使うかによってその武器の善悪が分かれる、つまり、武器そのものは中立であるのに対して、こどもという武器は武器そのものが端から不正以外の何物でもありません。人によっては、核兵器が同じ性質をもった兵器だと主張するかもしれませんが、私は核兵器も中立の存在であると思っていますので、こどもという兵器は例外中の例外と言っていい存在であると思います。存在そのものが絶対悪であるような兵器、こどもを兵器に仕立て上げるとはそういう兵器を作り生み出す行為であるということができます。ちなみに、映画「ブラッド・ダイヤモンド」でこうしたシーンをかなり詳細に見ることができます。

もうひとつの例外が処刑の道具です。処刑の道具は、Hさんが論文で詳しくレポートしてくれたように、大昔から様々なものが開発されてきました。とはいえ、それは武器ほどのバラエティと発展の度合いがあるわけではありません。処刑の道具は人を殺すためだけに作られる非常に用途の狭い道具です。ギロチンで大根を切る馬鹿はいません。

処刑の道具が非常に特別であるのは、その用途が正義を前提としているということであると思います。つまり、本来、社会に秩序を与えるために用いられる道具であるということです。もちろん、いかなる権力者の下においても正義がなされるとは限りません。だから、処刑の道具も正義のためだけに使われるとは限らないことになりますが、それでも、他の武器が中立であるのに対して、処刑の道具は中立とは言えないと思います。また、処刑の道具が守っているものは単なる味方ではなく、社会秩序であるので、敵は味方の中にいるということになります。この点がこの道具の特異なところです。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。





2019年3月16日土曜日

第106回【ひとを殺す道具⑧】

2013年度は、「人を殺す道具」をテーマとしてゼミを行いました。年度末には「武器の両義性」と題して恒例の締めの講義を行いました。何回かに分けてこの講義をご紹介致します。

今年のゼミのテーマは「ひとを殺す道具」でした。当初考えていたよりもはるかに難しいテーマだったと今になって思います。「ひとを殺す道具」を最初は素直に「武器」と考えていましたが、それについて真面目に考え続けてみると、人を殺す道具が武器だけないことに気が付きました。そもそも私のこのテーマの原点には、「人殺しのハードとソフト」という関心があります。去年のテーマ「民族自決」はそのソフト、一昨年のテーマ「核兵器」はそのハードだったわけで、今年のテーマ「武器」は一昨年の延長戦の感じが濃厚にありました。ところが、核兵器のような単一の武器から、テーマを、武器一般に広げてみると問題意識も拡散してしまったような気がします。

そもそも武器とは何でしょうか。ピストルや大砲、戦闘機や空母、地雷やミサイルというのは非常に分かり易い例です。戦争に使われる、あるいは、使われたものということで言えば、犬や馬、鳩でさえも武器の一部と考えることができるかもしれません。

ゼミの開始前に、つまり、テーマだけ決めてまだ新学期が始まっていない頃には、私は、戦争の仕方、すなわち、戦略、戦術に大きな影響を与えたものとして、腕時計を取り上げてお話をしようかと思っていました。腕時計が初めて使用されたのは、実は、ボーア戦争におけるイギリス軍においてで、時刻を決めて、かなり離れた場所で正確に同時に戦闘の開始を行えるようになったという点で画期的な出来事でした。腕時計のようなものでさえも、すこし遠回りではあるけれど、人を殺す道具たり得るのだという話をかなり詳しくしようと思っていたのです。

しかし、ゼミでこのテーマを考えるうちに、私の考えは別な方向に向かいました。道具そのものよりもむしろそれを使うことの意味を考えるようになったのです。

そもそも武器は両義性を備えた存在です。敵を殺すための道具であると同時に、武器は、味方を守るための道具です。戦争であれば、敵は敵国であり、味方は祖国ということになります。現在ではなかなか単純にはいきませんが、戦争では、敵と味方の軍隊が武器を持って戦うわけです。そこにはルールもあります。ところが、現代においては、話はもっと複雑になりました。軍隊を背後で支える国民も武器のターゲットの一部になりました。ゲリラ戦やテロにおいては、誰が敵で、誰が味方なのかもよく分からない状態です。

武器の両義性――敵を殺し味方を守るということ――を考えると、もっとも重要なことは、敵と味方の峻別、言い換えれば、誰が敵かを確定することです。究極的には、味方を守るために武器を用いて敵を殺さねばならないからです。学生時代にカール・シュミットの『政治的なものの概念』を読んで、政治の核心は「友と敵の区別」であるという有名なテーゼは知ってはいたのですが、今年のテーマを通じてそれを再発見したような気持になりました。いや、身に沁みて分かったと言うべきかもしれません。

人殺しはいけない、と言われます。もちろん、そうです。しかし、究極的な局面でもそれは一貫できるものの考え方でしょうか。できるのならば、なぜ人は「ひとを殺す道具」を作り続け使い続けるのでしょうか。あるいは、場合によっては、人は人を殺さなければならないのでしょうか。そうだとすれば、それはどんな場合でしょうか。私の関心は、道具よりもむしろ「人を殺す」ということの意味の方向に向かったのでした。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。





2019年3月1日金曜日

第105回【ひとを殺す道具⑦】

「権力は銃口から生まれる」とは毛沢東の言ですが、その銃を国旗にあしらっている国があります。これに着目して小型武器の代表であるAK47をテーマとしたゼミ生が2人いました。

モザンビークの国旗にはAK47と鍬が描かれています。植民地だったモザンビークはまさにAK47を用いて戦い自らの独立を勝ち取り、それを国旗にも表現したわけですが、日本人にとってはその国旗はいかにも不穏な感じがします。

AK47、通称カラシニコフは、世界で最も多く実戦で使用されている小型武器です。もともとはソ連製で、この銃を設計したカラシニコフ氏の名前が通称として用いられ、あまりにも優秀な銃なので、多くの国でライセンス生産がなされ、また、無断でコピーされて世界中に、特に紛争地に行き渡りました。部品数が少なく、単純な設計なので、扱いが簡単で、故障が少なく、俗に調子が悪くなっても蹴飛ばせば動き出す武器なのです。元国連事務総長であるコフィ・アナンは、この銃を「事実上の大量破壊兵器」と呼びました。この銃の犠牲者はそれほどに大量なのです。

ゼミ生が指摘していますが、銃は確かに、ひとを殺す道具という側面を持っていますが、それはまた、戦って勝ち得た「自由と独立」を象徴するものでもあります。モザンビークの国旗はその武器の両面性を象徴するものだと言えます。

カラシニコフが貧者の武器であるとすると、攻撃ヘリコプターや劣化ウラン弾は、どちらかというと富者の兵器と言えるものです。

ヘリコプターは戦闘機に比較して脆弱な部分もありますが、機動性において極めて優れています。空中の同じ位置に止まることができ、即座に方向転換ができ、超低空を飛ぶことも可能です。ブラックホークがその典型ですが、現在では、攻撃に特化したヘリコプターが登場して戦場で多くの役割を果たしています。

そのヘリコプターからも発射される兵器のひとつですが、禁止されるべき兵器の候補にもあげられることのある劣化ウラン弾をテーマとしたゼミ生がいました。

劣化ウラン弾は、原子力発電や原子爆弾を作る過程で出る劣化ウランを材料とした兵器です。通常の兵器で使用される素材よりもはるかに比重が重い素材であるために(200㏄程度の容量で4㎏の重さがあるそうです)、兵器としての威力が大きくなります。また、それが戦車や戦艦・空母に命中して貫通するときに放射線を発します。それ故、劣化ウラン弾は事実上の核兵器であるとして非難し、その使用を規制すべきだと主張する人たちも存在します。

以上のように、学生たちは多様な「ひとを殺す道具」を取り上げ、それらの実態と、場合によっては、その意味について論文を仕上げました。

正直に言いまして、武器それ自体を取り上げることはそれほど難しいものではなかったと思いますが、それが使われる意味を考える段になると、格段に困難が増したように思います。武器は紛れもなく「ひとを殺す道具」であり、その側面では否定されるべきものであるわけですが、それが使用される文脈を考慮すると、それを単純に否定して済むものでないことは明らかです。


私も1年間この問題を考えて、ゼミ生たちと同じ問題に直面したように思います。次回から、私がゼミ生に話した1年間の総括の講義を再録致します。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。