2019年4月15日月曜日

第108回【ひとを殺す道具⑩】

人間は、味方を守るために武器を用いて敵と戦い、必要があれば武器によって敵を殺します。また、人間は、社会秩序を守るために、味方の中にいる社会的な敵を処刑の道具によって殺します。人間は誰かを「ひとを殺す道具」を用いることで殺しながら生きてきたと言えるのかもしれません。人間はひとを殺さずに生きられない存在なのでしょうか。

人間が、他の動物とは異なって、同類を殺す行為を行い続けてきたのは、たぶん、本能によっては生きられない存在だからなのだと思います。本能によってこの世界に適応する人間以外の生き物は、人間のように同じ種の生き物を大量に殺すようなことをしません。人間は、たぶん、どこか狂っているのです。私は、それは本能が壊れているからだ、と考えています。その壊れた部分から生み出され発展しているものこそ武器なのだと思います。それを用いて人間が人間を殺すことで人間は辛うじて「人間の世界」に秩序をもたらしてきたのかもしれません。人間の存在そのもの(実存)と関わりがある以上、武器がなくなることはないのだと思います。問題は、それを使わずに済ますことが可能かどうかだと思いますが、人間にそれが可能でしょうか。

ヨーロッパを始めとする多くの国では死刑が廃止されています。もしそれが長く継続されるとすれば、処刑の道具を使わない決意をし、それを実行していることになります。果たして、それは継続されるでしょうか。人を殺すことなく社会秩序が保たれるのであれば、それは画期的なことですし、それが可能であればそれに越したことはないのです。

柴田ゼミは国際政治のゼミだ、とはいつも言うことです。だから、テーマは「戦争と平和」たらざるを得ません。武器は、戦争を戦うために使われ、平和を守るために使われ、また、正義のために使われ、あるいは、不正のためにも使われるという両義的な存在です。問題の核心は武器でしょうか。私は、やはり結局、問題は「ひと」であると思わずにはいられません。人間とは何か、これこそがゼミのテーマだと再確認し確信した一年でした。飛躍しますが、だから、いつも言うように、文学が必要になるのです。

ゼミで時々見せる映画『2001年宇宙の旅』の冒頭シーンでは、猿、あるいは、類人猿が武器である棍棒を空に投げ上げ、その棍棒がパッと宇宙船に変わるシーンがあります。このシーンが意味するものは、道具の進歩に対して人間は実は猿のままなのではないか、というもので、私はキューブリックのこの問いかけに、確かにその通りかもしれないと思うのです。私たち人間は果たして、棍棒で戦っていた類人猿と大きく異なる存在でしょうか。異なる存在ではないとすれば、異常なまでに発達した道具を使いこなしそれを制御する能力を持っているのでしょうか。あるいは、道具の発展と同時に人間はその人間性を発展させてきたのでしょうか。私は現代の人間が過去の人間よりも高級であるとはとても思えません。たぶん、同じなのではないでしょうか。同じように賢く、同じ程度に馬鹿なのではないかと思います。

道具の進歩に人間は適応し続けられるでしょうか。人間そのものが適応できなくなるとすれば、どのようにして道具の進歩を制御すればよいのでしょうか。

結論から言えば、それを制御する制度を生み出し、その制度を発展させる以外にないのだと思います。人間性に期待するのではなく、人間の作り出す道具を制御する制度(これも道具か?)を人間が作り上げるのです。これなら可能でしょうか。私はこれなら辛うじて可能ではないか、いや、これを可能と思わなければ人類は存続できないと考えます。

人間がわざわざ教育を必要とし、社会制度を確立し、文化を生み出し育てるのは、すべて本能によっては生きられないからです。逆にいえば、教育も制度も文化・文明もすべて人間の足りないところ(本能が壊れているというところ)を補うために人間が生み出したもので、いわば、広い意味での人間ないしは人間性の一部なのです。そう考えると、武器も人間の一部なのかもしれません。人間そのものが変わらない存在だとしても、人間の延長線上にある制度を発展させることは可能ではないかと思います。そして、それは、ある意味では、人間性の進歩でもあるのです。人間は武器を、もっと広くは、科学や技術の発展を自ら制御し続けられる存在でしょうか。正直に言いますが、私は、少し怪しいかなと不安に思っています。

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