2015年8月15日土曜日

【第20回】正しい戦争①

ゼミ2年目のテーマは「正しい戦争」。
今の若い人たちは、小学校から高校まで、徹底して「戦争はいけない」と教えられるせいか、戦争を絶対的に悪いことと思っているらしく、このテーマは彼らにショックを与えたようです。
これには彼らを引き付ける未知の何かがあって、それ故柴田ゼミに応募したと2期生の卒業生の多くが言います。確かに、この年は、応募者が多く、定員の5倍の希望者が来て、仕方ないので定員の2倍のゼミ生を取りました。この10年で最多のゼミ生がゼミに所属することになりました。

私がこの年に考えたかったことは、戦争と平和と正義の関係でした。戦争のすべてが邪悪であり、平和のすべてが正義に適っているとすれば、何もこのテーマについて考える必要はありません。しかし、この世には、間違いなく、正義を蔑ろにした平和が存在し、正義のために已む無く戦わざるを得ない戦争が存在しています。こうしたことについて考えてみたかったのです。

学生には、まず第1に、戦争というものがいかに悲惨であるかということを知ってもらうために映像を見せました。映画「プライベート・ライアン」の冒頭30分とNHKのドキュメンタリー「映像の世紀」第2集です。

「プライベート・ライアン」はスピルバーグの作品で3時間を超える大作ですが、最初の30分は、19446月のノルマンディー上陸作戦の、まさに、戦闘場面です。私は色々な戦争映画を観てきましたが、これほどリアルな、それ故悲惨な戦闘の描写はないと思います。心底戦争はいけない、と思わせる30分です。

「映像の世紀」は全編見事な20世紀を見渡すドキュメンタリーですが、第2集は、非常に貴重な第1次大戦の映像をたくさん見せてくれます。
ようやく映画が出てきた時代に、実際の戦争をフィルムに撮ったわけですが、どれも非常に貴重なものです。特に、最後に出てくる戦争帰りの傷ついた若者たちの映像が胸を抉ります。義手も義足も義眼も、あるいは、傷を隠す仮面も、これらの若者たちのために、この時期、発達したのです。死者はもちろん、生きて帰っても戦争は大きな傷を多くの人に残します。何があっても、戦争はしてはいけないのでないかと思わせる映像です。

戦争は、しかし、どんな場合でも避ければいいかと言えば、必ずしもそうではありません。戦争がいかに悲惨なものかを心底分かった上で、それでも、戦わなければならない場面が、実は、あるのではないか、というのが、この年のゼミのテーマでした。

次に、私は、アウシュビッツのスライドをゼミ生に見せました。私は、ワルシャワに住んでいたことがありますので、アウシュビッツに2度行ったことがあります。その時に撮った写真をスライドにしてゼミ生に見せたのです。

私個人が行って撮った写真ですので、旅行のガイドブックに載っているような綺麗なものではありませんが、逆にそれが不思議な迫力を写真に与えていると思います。

スライドを見せながら、私は、ユダヤ人がいかに悲惨な目にあわされたかを伝えると同時に、ヨーロッパのナチス支配下にあった国の人たちが、事実上、ユダヤ人の虐殺を見て見ぬ振りをしていたことを伝えました。もちろん、それを批判することは簡単なことですが、もし批判するとすれば、私たちは、戦う覚悟を持たなければなりません。

私が学生に提出した問題は、こんな悲惨が目の前にあっても、私たちは戦わないのかということでした。私たちが、仮に、当事者であったとしても戦わないのか。ただ黙って死ぬのか。殺されるままにするのか。親や子や妻や友人や恋人を見殺しにするのか。いかに戦争が悲惨だとしても、こんな時にも戦わないのか、ということです。

戦争は悲惨だから徹底的に避けるべきだというのは簡単で、平和な中でそれを言うのはますます容易なわけですが、それがある線を超えると正義に反するのではないか、戦うことこそ正しいという場面があるのではなかということを考えるのが、この年のゼミのテーマだとゼミ生に伝えたのでした。

毎年、学年末には、ゼミ生に論文を提出させるのですが、この年はテーマが難しかったせいか、学生に与える課題を考えるのに私自身が相当に苦労をしました。そのあたりを含めて、学生の論文を中心に次回お伝えします。

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2015年7月29日水曜日

【第19回】主権の再検討⑤

これまで、主権の行使を委託された政府の役割について考えてきましたが、そもそも主権が確立しているとはどういうことでしょうか。
現代においては、主権の担い手は国民であることに疑問の余地はありません。ただ、国民が主権を保持していることに疑問のある国家が多数存在していることも事実です。
これはどういうことでしょうか。それは、潜在的には主権は国民に存するものの、それを実際に機能させる仕組みが存在しないということなのです。その仕組みが民主政(デモクラシー)です。

主権確立の条件とは、以下の2つになると思われます。

1に、国民に正当に選ばれた「政府」が存在しなくてはなりません。国民が保持する主権が正当な方法で選ばれた政府に委託されないとすれば、主権は正しく行使されているとは言えません。重要なことは、政府が民主的に選ばれるということで、現代の主権国家においては、国民主権と同様に民主政が欠かせない主権確立の条件になっていると考えられます。

2に、主権を国民から委託された政府は政府としての「最低限の役割」を果たさなければなりません。主権を託した政府が最低限の役割を果たさないとすれば、国民は選挙によって主権の委託先である政府を変更しなければなりません。
主権が確立しているということは、国民によって正当に選ばれた政府が治安を維持し独立を保持しているということです。
ただ、先にも論じたように、この「最低限」のハードルは現代においては高くなりつつあります。少なくても政府は、秩序維持と独立保持に加えて、最低限の人権の保障を国内において実現しなければならなりません。また、国民の福祉の向上を目指さなくてはなりません。つまり、現代においては、単に秩序を維持するだけでは不十分なのです。

以上が主権確立の条件であるとすると、逆に、以上の条件が喪失されているとすれば、主権はまだ確立されていないか、失われていると考えることができます。
まず、主権が正当に政府に委託されていない場合が考えられます。つまり、民主政が実現していない場合が典型です。次に、政府がまともに機能していない場合が考えられます。どちらもそこにおいては主権が確立されているとは言えないのです。

主権が確立されていない場合、そこに生きる住民は不十分な条件の下で生きていかざるを得ません。人道的な危機が存在する場合もあるかもしれません。
それにしても、このような主権の確立されていない状態というものを誰が判断すればいいでしょうか。
なかなか難しい問題です。
また、主権が機能していない場合、政府に成り代わって国際機関などが介入することは許されるでしょうか。こうした場合、内政不干渉原則は棚上げして構わないのでしょうか。そもそも主権が確立していないわけですから、それに対する干渉は内政不干渉には当たらないとも考えられますが、どうでしょうか。干渉する主体は国際組織なら許されるでしょうか。あるいは、他の主権国家でも構わないでしょうか。問題は意図でしょうか、それとも、何らかの資格でしょうか。

主権とはなかなか捉えどころのない概念です。
しかし、どうやら現代における主権を考える場合には、国民主権を出発点として、主権がいかにして正しく確立されるかを考慮することが有効であるように思います。
そのように考えると、現代の国際社会は、非常に不十分な段階にあると言えます。現代とは、主権国家が過剰になって、それが他の何かに変容する過渡期ではなく、主権国家が実は不足していて、主権国家がよりきちんと確立しつつあるという意味での過渡期であるのかもしれません。
そうなると、現代の位置づけは非常に大きく異なってくるように思います。現代とは、主権国家からなる国際システムが主権国家とはまったく異なった主体からなるシステムへの過渡期なのではなく、主権国家からなる国際システムが遠い完成に向かいつつあるという意味での過渡期なのかもしれません。

この報告を1期生にした時には、私は小心者ですので、主権確立の条件からすると、中国はどうなるのか、という質問が出たらどうしようか、と真剣にビクビクしていたのですが、幸い、というか、残念ながら、そういう質問は出ませんでした。
正直に言いますと、そうしたことを考えると、私の提出した主権論はどこか違っている可能性がある、つまり、自信がなかったのですが、今ならはっきりと言えます。
私の主権の概念、つまり、21世紀の主権の概念に照らし合わせれば、中国は主権国家以前の国家であると。早く立派な主権国家になりなさいと言ってやらねばなりません。

ウェストファリアは終わらない』では、この時以上にきちんと概念構築を行って第2章第2節において「21世紀の主権」概念を提出しました。ゼミ生の前で自説を述べたこの時、そのアイディアが生まれたのです。

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2015年7月15日水曜日

【第18回】主権の再検討④

さて、国民から主権を委託され、それを行使する政府の役割とはいかなるものでしょうか。この役割を最低限の役割とそれを超える役割に分けて考えてみましょう。

政府の最低限の役割のうち対内的なものは「秩序」の維持です。警察や裁判所、刑務所に代表される役割がそれです。

政府は主権を行使して国内に秩序をもたらさねばなりません。言い換えると、治安維持が政府の最低限の役割と言えます。
また、政府の最低限の役割のうち対外的なものは「独立」の保持です。外交や軍隊が担う役割と言えます。政府は外国からの侵略を跳ね返し、干渉を斥けなければなりません。国家の防衛こそ政府の最低限の役割です。

以上のように、国家主権(国民から政府に委託された主権のこと)を担う政府が果たさなければならない最低限の役割が治安維持と防衛というわけです。

19世紀のヨーロッパの国家はこの最低限の役割のみを果たすに過ぎなかったとして「夜警国家」と呼ばれ、後に批判を受けました。20世紀の福祉国家を基準とすれば、確かに、この時期の国家の役割は非常に小さかったと言えます。

19世紀も終わりに近づき、ビスマルクのドイツなどでは、後の福祉国家の方向へ政府の役割が拡大する傾向が見られるようになりましたが、それが決定的になるのが1929年に始まる大恐慌以降の時代です。国家は最低限の役割を超えた役割を果たすようになります。

現実には多様な制約があるものの、論理的には、際限なく国家の役割は拡大する傾向があります。20世紀は、国家の役割が、ある意味、無限に拡大した100年だったと言えるかもしれません。
対内的には、「福祉」の向上に政府は努めるようになります。最低限の人権の保障から限りない豊かな生活の実現まで、あらゆる分野に国家が介入をするようになります。福祉国家の実現がその目標となります。社会主義、共産主義はその究極の姿ということが言えると思います。

対外的には、国家が主導して「国益」の増進に努めるようになります。軍事的、経済的、あるいは、国家の名声という点で、国家が対外的に活発に活動をするようになります。

こうした最低限の役割を超えた政府の活動には限界があります。国民をどこまでも豊かにできる政府は存在しませんし、国際社会において、自国の国益のみを次々増進させることのできる政府も存在しません。必ず限界があります。

また、国家が国民生活のあらゆる側面に介入することがいいことだとは言えません。
古来、大きな政府か小さな政府かという議論がありますが、政府の適正な規模の問題には普遍的な答えはありません。国によって異なりますし、同じ国でも時代が違えば正解は違ってくるのが普通です。

国民から政府に委託された国家主権とは、以上のような機能を果たすわけですが、全体に渡って、原則として、内政不干渉原則が適用されます。国家主権とは最高至高の権力なので他からの干渉を受けないのです。
現在の国際政治秩序においては、この内政不干渉原則は、国家間関係における最重要の原則のひとつとされています。ただ、現実の国家には、その力において非常に大きな格差が存在していますから、内政不干渉原則が常に守られているということはありません。むしろ、常時破られている原則だと言ってもいいくらいです。

政府は、以上のように、国民から託された国家主権を、国民に成り代わって行使することで「秩序」を維持し、「独立」を守り、「福祉」の向上に努め、「国益」を追及しているのです。
このような国家を主権国家、あるいは、国民国家と呼びます。
主権国家という言い方は、他からのあらゆる干渉を斥けるというイメージを喚起する呼び名、国民国家とは、民主政によって主権が政府に委託され、その政府と国民が一体をなしているというイメージを表す呼び名であると思います。
現代においては、これらがさらに融合した形で国家が存立しているので、主権国民国家と呼ぶのが適切であると考えます。
次回、主権確立の要件について論じ、私なりの結論に達したいと思います。

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2015年6月30日火曜日

【第17回】主権の再検討③

ゼミ初年度の最後の講義として私が学生に示した主権論がベースとなり、それが発展してウェストファリは終わらない』の第2章となりました。伝統的な主権の概念を少し超えたものとなりました。
以下、その内容です。

主権について多様な議論が昔から存在していますが、もっとも重要なポイントは何かと言えば、その担い手は誰かということだと思います。
フランス革命以前の主権者は王でした。それがフランス革命以降、国民となったわけです。
現代では主権者は紛れもなく国民で、これが変更されることは考えられないものと思います。主権という概念は、主権者が王から国民に変化したように、多様に変容する概念ではありますが、主権者が国民ということは今後も永遠に変わらないものであると思います。要するに、この点では概念として行き着く所まで行き着いたのだと私は思います。
もちろん、以下で論じるように、担い手の部分を除けば、これからも主権の概念は様々に変化することは間違いありません。

ルソーが言うように、主権者たる国民は主権を自分自身で行使する主体ではありません。国民が主権を行使する瞬間というのは、選挙の投票をする一瞬だけのことで、国民が「主権を持っている」というのはFictionに過ぎません。ただ、このFictionは重大な事実です。

主権者たる国民は政府に主権の行使を委託します。この政府を選ぶのが選挙で、主権者たる国民が選挙で政府を選ぶとすれば、これはまさに民主政ということが言えます。つまり、国民主権であるとすれば、そこにおける政府は民主政によって選ばれなければならないわけです。つまり、国民主権と民主政は一体のものということができます。

主権者たる国民の、主権者として最も重要な、あるいは、根源的な機能は、主権を委託する主体、すなわち、政府を選択するということになります。
主権者たる国民と主権の行使を委託された政府の束が主権国家=国民国家で、民主政こそが主権者たる国民と主権を行使する政府を結ぶ接着剤になっていると考えることができます。
逆に言えば、民主政なきところでは、国民と政府とはばらばらで一体のものとはなり得ないと考えることができます。
これは現代の、あるいは、将来の主権国家を考える場合に非常に重要な考え方であると思います。


主権者たる国民が主権を託した政府の果たす役割について、次回、論じます。

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2015年6月15日月曜日

【第16回】主権の再検討②

毎年、年度末には、ゼミ生に卒論「のようなもの」を提出してもらっています。なぜ「のようなもの」かと言えば、こうした論文は現在の大学(すくなくとも学習院大学法学部政治学科)では単位として認定されず、ゼミの単位に付随するものに過ぎないからです。ゼミによっては、こうした論文を単位の必須要件にしていない場合もあります。ですから、卒論とは呼ばず、ゼミ論と呼んだりするのが一般的です。

私が学生だった頃は、卒論と言えば、「100枚」というのが普通で、400字詰めの原稿用紙100枚が目安でした。今は原稿用紙に手書きで論文を書く学生がいませんし、40,000字は無理な分量だと思います。柴田ゼミでは、10,000字程度ということでゼミ論を提出してもらっています。

「主権の再検討」をテーマとしたゼミ初年度において、私はゼミ生たちに、「主権国家単独では扱いに困る大きな問題か小さな問題を取り上げて、主権国家について考察せよ」という課題を出しました。ゼミ生たちがどのような問題を取り上げてくるかを楽しみにしていたのですが、結果は私には意外なものでした。

まず第1に、小さな問題を取り上げるゼミ生がひとりもいませんでした。ゼミを選択する時点で「国際政治」を自分の専門としようとする学生が集まったせいか、どうしてもより大きな問題に目が向いたようです。

次に、8人のゼミ生のうち、3人がEUをテーマとして取り上げました。EUと各構成国の主権の問題は、確かに、重要な問題で、EUが国際政治上の未来の主体の在り方を示す可能性があるかもしれないという点で、取り上げるに値するものであることは間違いありません。ただ、3人が同じテーマとは少し驚きました。

3に、私はてっきり誰かが地球環境問題を取り上げるのではないかと思っていたのですが、これをテーマとした者はいませんでした。

毎年のことですが、学生が何をテーマとするかということは、案外、個性的で、私の予想通りにはいかないのが普通です。私は、できる限り、私からテーマを与えるのではなくて、学生がやろうとしたことを生かすように心がけています。それがうまく行く場合もあれば、もっと方向付けをしてやればよかったと後悔する場合もあります。

EU以外をテーマとした論文に個性的なものがあったように思います。

ひとりは「国際河川」をテーマとしました。
日本は島国で他国と共有する河川がひとつもないわけですが、これは国際的に見ると、圧倒的に少数派で、多くの国が重要な河川を他国と共有しています。ヨーロッパで言えば、ライン川やドナウ川が典型です。
このゼミ生は、ガンジス川とメコン川を取り上げました。河川は、物流においても、飲用水や工業用水の利用においても非常に重要な役割を果たすもので、多数の国を流れる川の利用については、主権国家間の協力が欠かせないものです。

ちなみに、21世紀の紛争の種には多様なものが考えられますが、ひとつ有力なものとして「水」が挙げられるように思います。河川が国際紛争の原因になる可能性は無視できないほど大きなもので、実に重要なテーマです。

「税制」をテーマとしたゼミ生もいました。現在は、企業が国境を易々と超えて移動する時代で、多くの国家は、企業にとって有利な税制を制定することで、企業を誘致し経済的な発展を図ろうと努力しています。つまり、税制とは、あるひとつの主権国家の独占的な国内政策ではなく、他国からの影響を大きく受ける存在になってしまっているのです。

私は、税制をテーマとするゼミ生が出てくるとは考えていなかったのですが、あらゆる種類のグローバル化が、主権国家の政策の自由度を狭めていることは紛れもない事実で、その一例として、税制は非常にいい例であると思いました。

私も一年間、現代における主権国家について大いに考えました。それが『ウェストファリアは終わらない』の第2章に結実したのですが、次回、この年のゼミの最後に行ったまとめの講義をご紹介します。    

2015年5月30日土曜日

【第15回】主権の再検討①

ウェストファリアは終わらない』の第3章第3節の冒頭にダニエル・ベルの言葉を挙げました。「主権国家は大きな問題に対するには小さ過ぎ、小さな問題に対するには大きすぎる」というセリフです。

この一節は、大学時代から国際政治の勉強をする際に、常に私の頭の中にあったものです。中世の終りから近代の初頭に西ヨーロッパに出現し、19世紀の終りにほぼ現在の形が定まり、20世紀半ばを過ぎて地球全体を覆うようになった主権国家は、20世紀の後半にはすでに機能不全を起こしつつあり、新しい何者かに取って代わられる必要があるのではないか、という疑問です。

国際政治学という学問分野においても、主権国家に代わる新しい主体の出現が盛んに議論されていました。たとえば、今のEU(少し前はEC、もっと前はEECなどと呼ばれていました)や国境を超えて活発に活動する多国籍企業やNGO(非政府組織)や国連を始めとする国際組織などがそうした例として挙げられていました。
1980年代後半から1990年代になると、グローバル経済ということが言われ、特に経済分野において国家の果たす役割が軽視されるようになりました。「国家の退場」(スーザン・ストレンジ)などと言われたりしました。主権国家は時代遅れの代物であるというのがかなり一般的なコンセンサスになりつつありました。

現在の国際システムが主権国家を中心としたものであるとすれば、主権国家が退場した後の国際システムはまったく異なったものになるはずで、それはどのようなものになる可能性があるのかが私の大きな問題意識でした。

そこで、ゼミ初年度(2006年度)のテーマは、この積年の問題を考えてみようということで、「主権の再検討」としました。イメージとしては、主権国家によっては対応の難しい大きな問題や、それとは逆に小さな問題に着目して、そうした問題に主権国家がいかに対応したり、あるいは、対応できなかったりしているのかを描くことで、主権国家に代わり得る新しい主体を構想してみようというものでした。

大きな問題の分かりやすい例としては、地球環境問題(昔は公害問題と言いました。公害は射程が国内に限定されていたように思います。)が挙げられると思います。環境問題にも流行り廃りがありますが、オゾン層の問題や地球温暖化の問題が典型的な例です。
地球環境問題は、一国の努力によっては如何ともし難い問題です。中国のPM2.5が偏西風に乗って楽々と海を越え国境を越えて日本にやって来るように、環境問題に国境はありません。温暖化の問題も世界中の国家が協力をして問題に取り組まなければ改善されないことは明らかです。しかし、主権国家は、こうした問題を認識しながらもなお、単に問題解決に取り組むのみでなく、そこにおいても自国の利益を追求する存在です。
環境問題のような「大きな問題」には主権国家は小さ過ぎることは明らかです。より大きな主体が必要とされるように見えます。

小さな問題とは、私たちの身近な問題が典型的なものです。たとえば、高齢社会の問題や少子化の問題が分かりやすい例であると思います。老人の介護や子供の保育の問題には、国家よりは、地方自治体や、あるいは、場合によっては、町内会みたいな規模の主体の方がうまく対応できるように思います。世界でも高齢化の最先端を行っている今の日本で盛んに地方分権が論じられている背景には、国家よりも小さな主体がこうした問題には相応しいということが自覚されていることがあります。
「小さな問題」にも主権国家の規模が相応しくなくなっていることは明らかです。より小さな主体こそが求められているように見えます。

最大の問題は、大きな問題に相応しい主体と小さな問題にうまく対応できる主体の関係がどのようなものになるのかということです。主権国家よりも大きな主体と小さな主体はどのようにして結び付けられるのでしょうか。

ゼミ初年度に学生たちに投げかけたのは以上のような問題意識でした。次回、こうした問いかけを受けて、学生たちが取り上げた問題をご紹介致します。

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2015年5月18日月曜日

【第14回】テーマの変遷

前回まで、その年のテーマに実際に入る前の段階で学生に話す話題を取り上げてきました。ゼミに入ってきた学生に自分の専門とする学問が国際政治学なのだということを意識してもらうのが主な狙いです。3年と4年が同居するのが私たちのゼミの特色ですから、毎年手を変え品を変えてこうした話をしなければなりません。同じ話を毎年する先生が私の学生時代には珍しくありませんでしたが、少なくとも私はそれはすまいと思っています。

次回から、ゼミでどのようなテーマを取り上げてきたかを11年振り返っていこうと思いますが、その前に今回は、この10年のテーマを一度並べてみようと思います。そうすることで、私自身の問題意識の変化を鳥瞰することができそうです。間違いなく、『ウェストファリアは終わらない』はこれらのテーマから生まれたのです。

2006年度 「主権の再検討」
2007年度 「正しい戦争」
2008年度 「難民は夢をみるか」
2009年度 「保護する責任」
2010年度 「1989 時代は角を曲がるか」
2011年度 「なぜ彼らは核兵器を持つか」
2012年度 「20世紀の悪魔 民族自決」
2013年度 「ひとを殺す道具」
2014年度 「紛争のルーツ 植民地主義」
2015年度 「戦争で負けるとはどういうことか」


興味関心をそそられるテーマがありますか。次回より、年度ごとにゼミでの議論をご紹介していきたいと思います。

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