2018年4月15日日曜日

第84回【20世紀の悪魔・民族自決④】

ミャンマーにとってASEANは非常に重要な組織であると思います。ミャンマーは軍事政権が長く続き、しかも、アウン・サン・スー・チーのような民主化運動の指導者を長年軟禁状態に置きました。国際社会では完全に孤立した状態で、同じような問題を抱える大国である中国だけが頼りという状態で、近年では、北朝鮮のような孤立国家としかまともな(これを「まとも」と呼ぶとすれば)交流をすることができないでいました。ASEANは長年国内政治には相互に介入しないことを約していましたが、それは、加盟国の多くが国内政治においては脛に傷を持つ存在で、干渉をし始めれば手が付けられなくなる可能性があるからでした。しかし、ASEANの諸国が経済的に発展するにつれてこうした状況は大きく変化しました。ASEAN諸国の民主化は明らかに進みました。

国際社会で孤立した状態のミャンマーもこのままでいいと考えていたわけではないと思います。問題はどこを突破口にするかということだったわけですが、大統領が交代すると同時に変化を見せ始めました。スー・チー女史の処遇の変化がその典型的な変化の表れでした。しかし、それは根本的な変化の表れであるのか、それとも、まやかしの変化の見せかけであるのかが問題であったわけです。私はこの変化を根本的な変化の表れであると判断しました。

その理由は、ミャンマーが2014年のASEANの議長国となることを真剣に希望していることを知ったからです。ASEANの議長国は基本的に持ち回りですが、各国の同意を必要とします。ミャンマーは軍事政権故に議長国の資格なしとして加盟以来議長国を任されないできました。順番からすると2014年に議長国となるはずだったのですが、議長国を決定するのは2011年でした。ASEANの議長国になるために民主化が急速に進んでると私は判断しました。


ミャンマーのような小国にとって地域的組織は非常に重要であると思います。ましてASEANは歴史もあり、他のどの地域的組織よりも実績があります。周辺の大国を巻き込んだ様々な役割も果たすようになっています。ミャンマーにとってASEANは非常に魅力的で重要な存在であるはずで、そこで一段下の扱いではなく、他の加盟国と対等な立場を獲得したいと強く望んでいるに違いないと私は考えていました。議長国に選出されるということは、まさにそのための重要なステップで、次の機会を待つと10年後ということになります。ミャンマーが今回のこのチャンスを逃すはずがないというのが私の予想でした。案の定、去年の終わりにミャンマーは2014年の議長国に選出されたわけですが、そうであるならば、民主化の後戻りはあり得ないというのが私の判断でした。実際に議長国になるまでの2年間というのは短い期間ではありませんし、その2年間の民主化の実績が重要になります。ミャンマーが本気で議長国を務めるつもりであるとすれば、民主化を進めないわけにはいきませんし、いったん進んだ民主化を後戻りさせることは案外容易ではありません。

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2018年3月30日金曜日

第83回【20世紀の悪魔・民族自決③】

脱線を続けます。ミャンマーの民主化の問題です。

ある国家を平和的で民主的な国家に変化させるための条件とはいかなるものでしょうか。もちろん、多様な条件が存在します。国民の民度の問題は重要ですし、そのための教育やメディアの問題も重要でしょう。国際社会がこれらの動きを外から援助することも重要になるかもしれません。そうした様々な条件の中で、私は、地域的な国際組織の重要性を指摘したいと思います。

国家は国際社会の中で様々な組織の構成員になっているのが普通です。こうした組織とまったくかかわりを持たず、完全に孤立している国家というのは現在では存在していませんし、存在しようがありません。

国際組織には様々なものがあります。国連のような普遍的で、多様な問題を扱う組織からIWC(国際捕鯨委員会)のようにワン・イシューをもっぱら扱う国際組織まであります。WTO(世界貿易機関)のような貿易をテーマとした組織は「機能的組織」と呼べます。ミャンマーもその加盟国であるASEAN(東南アジア諸国連合)のような組織は「地域的組織」と呼ぶことができます。国連などは「普遍的組織」と呼べます。

ある国家にとって自国が加盟している国際組織の中でもっとも重要な組織は何か、という問題はその国家によって異なるというのが正しい答えですが、一般に、小国にとって、自国が単独で何らかの影響力を及ぼすことのできる組織ということになると「地域的組織」ということになります。加盟国が多くなるに従って、また、組織に大きなパワーを持った大国が含まれると、小国の影響力は必然的に限られたものとならざるを得ません。地域的組織では、加盟国の数は地域が限定されている以上一定以上に増加する可能性はありません。また、そこに含まれる大国の数も限定されます。ASEANにおいては、アメリカ、中国、日本、ロシア、インドのような大国は、そもそも地域的に言って、加盟の資格がありませんので、組織に大国が含まれることがない組織ということができます。

また、国連を始めとする普遍的組織や経済問題や軍縮問題を扱うような機能的組織への加盟は、自国の国益に鑑みて加盟の是非を検討することができますが、地域的組織への加盟は、ある意味で、運命ということになります。国家は引っ越しができませんから、周辺の国家の存在は選択の余地のない運命ということができます。地域的組織への加盟・非加盟にも確かに選択の余地はありますが、地域的組織が形成されるような基盤が整った地域において、それに加盟せず孤立の道を選ぶとすれば、あるいは、加盟国から加盟を許されないとすれば、加盟しない・できない国家に何らかの問題があることは明らかで、たとえば、ASEANにおいては、冷戦の終結にともなってベトナムやラオス、カンボジアが加盟し、最後にミャンマーが加盟することで東南アジアのすべての国家がこれに加盟することになったわけですが、確かに、後から加盟した諸国家には様々な問題があったし、現在でもそれは完全には解決されていません。それでも、組織の中に抱擁することで長期的にその国家に変化をもたらすことに価値を見出しているように見えますし、それは成功しているようにも見えます。

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2018年3月15日木曜日

第82回【20世紀の悪魔・民族自決②】

2012年度のテーマ「20世紀の悪魔・民族自決」のご報告を開始していきなり脱線というのも申し訳ありませんが、ご容赦下さい。

柴田ゼミには、以前にも触れたことがありますが、ゼミ生および卒業生のみがアクセスできるSNS「ゼミクシィ」があります。めったにないことですが、たまに、ゼミ生から私に挑戦状が突きつけられる場合があります。

2012年度は春の早い時期に4年生から挑戦がありました。前年度の「核兵器」のテーマでミャンマーを扱ったゼミ生です。彼は、開始まもなくのミャンマーの民主化の動きに懐疑的でした。それに対して、私は「ミャンマーの民主化は不可逆的である。根拠もある。でも、今は言わない。」とゼミで言いました。話せば長くなるからです。ゼミではあまり脱線はできません。新たな年度になって、その「根拠」を開示せよ、と迫られたのです。

2012年になると、誰もがミャンマーの民主化の後戻りはないと考えるようになっていました。予想が当たるのはいいことですが、重要なのは、根拠です。理論的な根拠を基に近い将来を予想し、当たろうが当たるまいが現実を観察して、理論にそれを反映するのが理論家の仕事です。

学生の挑戦に対して「ゼミクシィ」で以下のような文章を「国家を平和に導くもの」と題して書きました。国際政治を観る目を養うためにもためになると思いますので、少し長くなりますが、以下にご紹介致します。

ミャンマーの民主化をめぐる問題でM君から質問がありました。この問題は、4年生は知っていると思いますが、去年のテーマを勉強している時に、進んでいるように見えるミャンマーの民主化に懐疑的な意見に対して、私が「民主化に後戻りはない、私にはそれを裏付ける仮説がある、だけど、今は言わない」と言った、その問題です。現在のミャンマーを見れば、この予測はほぼ当たっていたわけで、種明かしをせよ、というのがM君の質問です。予想が当たるとか当たらないというのは、政治学においては実はそれほど重要ではありません。もちろん、当たった方がいいのは確かですが。真の問題は、なぜ当たったか、なぜ当たらなかったかの理由の方で、そこに仮説の検証と修正の作業の必要性が生まれます。重要なのは、理論的な仮説の有無であると思います。

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2018年2月28日水曜日

第81回【20世紀の悪魔・民族自決①】

2012年度のゼミのテーマは、「20世紀の悪魔・民族自決」というものにしました。考えてみると、20世紀には様々な悪魔が登場したように思います。2011年度のテーマ「核兵器」も悪魔のひとりかもしれません。他にも「共産主義」や「ナチス」などといった多くの悪魔を容易に見つけることができます。
何が悪魔かと言えば、それらが大量の「死」を生み出したからです。
ゼミ生の募集にあたって、以下のような文章をゼミ生募集の案内に載せました。

21世紀だってどうなるかわかったものではないが、少なくとも20世紀は人類の歴史上最も野蛮な世紀(100年)であった。
それをもたらしたものは技術の進歩などたくさん考えられるが、20世紀の初頭、第1次大戦直後に現実のものとなった2つのアイディアが最大の原因であったと思われる。ひとつは言わずと知れた共産主義である。共産主義については20世紀中にほぼ決着がついたかに見える。もうひとつが民族自決という考え方である。これについては取り扱いを誤ると21世紀にも繰り返し悲惨な事態をもたらしかねない。
2012年度ゼミでは、民族自決というアイディアが国際政治の実際にどのような影響を及ぼしてきたかを考えるのが最終的な目標だが、その前に、民族とは何か、民族主義(ナショナリズム)とは何か、自決とはどういうことか、など現在の国民国家の根幹にかかわる事柄を考えてみたいと思う。ちょっと難しい話になるかもしれません。」

民族自決という考え方は、主権国家の設立へと向かう運動へと発展していかざるを得ないものですが、昨今のスコットランドやカタルーニャの問題を見て分かるように、100年経ってもなお依然としてホットな問題であり続けています。21世紀においても、この問題は明らかに取り扱い注意のテーマであり、戦争と平和の問題を考える場合にまさに格好のテーマであると言えます。2012年度のゼミのご報告を致します。

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2018年2月16日金曜日

第80回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑳】

2011年は、「彼らはなぜ核兵器を持つか」と題して、核兵器にまつわる問題を考えました。それからわずかに7年を経て、現在、核兵器を巡る問題、特に、日本の周辺における核問題は大きく変化しました。言うまでもなく、北朝鮮の核兵器保有が現実のものとなったからです。

2011年においても北朝鮮の核兵器開発は行われていたわけですが、それよりもはるかにイランの核開発が国際社会では問題とされていました。ゼミにおいても、北朝鮮の核兵器獲得はイランよりもずっと先の話しのように議論されていました。要するに、北朝鮮問題はこの頃まだ切迫していなかったのです。もちろん、1993年から94年にかけて、アメリカが北朝鮮の空爆を検討したこともあったわけですから、本当は、もっと気に掛けてよかった存在だったのかもしれません。

北朝鮮の核兵器問題の特異性は、国家の指導者が、核兵器開発の先頭に立ち、核兵器の使用を公然と発言しているということにあります。従来の核兵器保有国は、核の使用を口に出したりはしませんでしたし(トランプが出てきて様子が変わったようにも思いますが)、インドなどの後発の核兵器保有国や核兵器開発の疑いのある国家も、その開発を出来る限り隠そうとしてきましたし、その使用を公言したりはしませんでした。北朝鮮は、その意味で、極めて特異であるということができます。

すでに論じましたように、私たちは核兵器と共存して生きていかなければならない以上、現代における最大の核兵器問題は核の拡散で、北朝鮮の核兵器の獲得と保有は、それ故、非常に大きな脅威であるということができます。なぜならば、北朝鮮は、パキスタンやイランなどの核開発に極めて緊密に結びついており、核兵器とその運搬手段であるミサイルを闇市場において流通させる可能性が非常に高いからです。すなわち、北朝鮮の核兵器の獲得は、それ自体拡散の問題なのですが、そこを起点としてさらに広く拡散される恐れが高いという意味で大問題なのです。

現在の核管理体制であるNPT体制は、インドが昔から主張しているように、極めて不平等なものです。しかし、核拡散の可能性と比較すれば、この不平等は当面甘受すべきものだと私は思います。北朝鮮の核兵器保有が仮に認められるようなことがあれば、NPT体制は事実上崩壊するわけで、核兵器の新しい管理システムを築かなければならないわけですが、果たしてそれは現在の体制よりも優れたものとなる見込みがあるでしょうか。私は悲観的です。

最近、アメリカが小型の核兵器開発を行うとの政策を発表しました。これが核兵器の使用のハードルを下げるものであるとすると不適切なものだと言えます。しかし、この政策は中国とロシアを意識した核兵器戦略で、ならば抑止の一環であるということが言えます。相手の核戦略に真面目に対応することこそ核抑止の必須の態度であることを考えれば、こうした政策は必ずしも不適切ではありません。

核抑止を理解することはなかなか難しいものです。重要なことは、現在の核兵器保有国は、核兵器をできれば使いたくないし、相手にも使わせたくないと真に思っているということで、彼らの打ち出す核戦略、核戦術は、それを実現するためのものだということを理解することです。問題は、これを理解しない国家や主体が核を獲得することなのです。

今このテーマでゼミをやるとすれば、たぶん、2011年とはかなり違ったトーンの議論がなされ、それをベースにして論文が書かれ提出されたものと思います。しかし、私の結論は、2011年のものとほとんど変わりないものになると思います。つまり、核兵器それ自体よりも、現代においては、核の拡散こそが真の脅威であり、それをいかに防ぐかが私たちの課題であるのです。

また、日本は、それでもなお、核兵器を持つ必要はありません。政治とは、目指すべき「目標」と使用可能な「手段」との間の不断の対話からなされるもので、核兵器という「手段」を以てして目指すべき「目標」は存在しない以上、そのような「手段」を獲得することは誠に愚かなことなのです。
そして、日本だけでなく、あらゆる国にとって核兵器の実際の使用によって実現すべき国益など存在しないわけですから、仮にこの世に核兵器が存在するにしても、それを気に病む必要などないのです。抑止のために日本も核を持つべきだと主張する人がいますが、まともな保有国ならそもそも使用はしませんから日本がそれを抑止する必要などありませんし、相手が狂人ならば、たぶん抑止など無駄なことなのです。だからこそ、核兵器の拡散を何としても防がなければならないのです。


2011年にゼミで勉強をしたゼミ生たちは今は皆社会人ですが、たぶん、学生時代にした勉強を振り返っていることと思います。こういうことは案外ないものです。社会人になって、あるいは、家庭を持って、果たして学生時代とどのように考えが変わったか否か、もう一度議論してみたいものです。叶わぬ夢ではありますが。

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2018年1月30日火曜日

第79回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑲】

核抑止は、これまでのところ、特に、アメリカとソ連の間では、破綻なく成功してきた戦略であると評価できます。しかし、核兵器そのものの持つ意味、核抑止の意味、を理解できない、あるいは、その政策を実行できない主体が核兵器を持つようになることこそが現代における最大の脅威です。すなわち、現代における最大の脅威は、核兵器の存在そのものではなく、核拡散であるのです。

核抑止の相矛盾する条件のところで繰り返し示唆してきましたが、核抑止を機能させるためには、少し皮肉に言えば、八百長が必要で、そこになれ合えない存在が介入してガチンコの勝負になってしまうのが最悪の事態であると言えます。その意味で、現在の核保有国(安保理の5常任理事国)に核保有国がとどまる限りはある程度は安心なのですが、インドやパキスタン、さらに、イランや北朝鮮が保有国となると話は相当に変わってくると言わざるを得ません。現在の核保有・管理の在り方がいかに不公平であるとしても、核保有国の数を増やさないこと、まして、テロリストのような存在に核兵器が渡るようなことのないようにすることが最大に肝要なことであると思います。

さて、そこで日本の核兵器に対するあるべき姿を簡単に述べたいと思います。私の考えはかなり過激であると思います。私は日本は核兵器を持つ必要がないと信じています。
いかにそれが残念なことであるとしても、同盟国であるアメリカの核抑止政策に必要なことがあるのであれば最大限に協力をすることが必要です。核兵器は抑止にこそ存在意義があるわけですから、核兵器を持たない日本もこれにできる限り協力すべきです。また、核兵器を持っていないとは言っても、核時代を生きているわけですから、核抑止という考え方・政策に習熟する必要があります。日本人はこれが苦手のように思います。

アメリカを始めとする安保理常任理事国が核を優先的に保有していることは明らかに不公平なことではありますが、これ以上核を拡散せない、核の拡散の防止に日本は最大限協力すべきです。もちろん、核大国には機会あるごとに貴国も核を捨てよ、と言うべきですが。

以下が私の考えの核心ですが、核兵器を使って実現すべき政治的目標などこの世には存在しないと「舐め切って生きる」ことが肝要です。核時代を太く生きるためにはこうした覚悟が必要であると私は考えます。日本人はどうも臆病でいけませんが、私は、国民の総意で核兵器を舐め切ることが核時代を生き抜く鍵であるという結論に達しました。「核兵器を持たず、使わず、使わせない」という政策の基礎には、こうした核兵器をとことん舐め切る態度が必要であると思います。

核兵器を使った脅しに断じて屈しない覚悟が必要であると思います。核兵器を使って実現するべき政治的目的など存在しないわけですから、本来は、怖がる必要だってありません。私は、国民が一体となって「使えるものなら使ってみよ」と完全に開き直るべきであるとまで考えています。だって、使えるわけないのですから。

核兵器の被害を現実に被ったのは日本だけです。私はこれが日本の特権だとはまったく思っていませんが、核兵器の被害がいかなるものであるかを世界に伝えることは日本の使命であると考えます。日本人が考える以上に海外の人たちは核兵器の被害がいかに恐ろしいものであるかを理解していません。
以上の日本の取るべき道は、核兵器が核抑止を理解し合理的に判断できる国家のみに保有されている場合の話です。たとえば、そういう国家の国民であれば、核兵器の被害がいかなるものであるかを理解して核兵器の使用を躊躇ったり、核兵器を減らすことを考えたりすると想定できるわけですが、核兵器を最初から使用するつもりで保有しようとするテロリストであれば、被害が大きければ大きいほど使用の誘惑に駆られるわけで、被害の悲惨さを広報することは逆の効果を生むことになります。すなわち、核兵器を実際に使いかねない存在が核兵器を獲得するという事態はすべての条件や思考を吹き飛ばしてしまうわけです。核の拡散こそが現代の最大の脅威であるというのはそういう意味であるのです。


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2018年1月15日月曜日

第78回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑱】

さて、抑止のためには何が必要でしょうか。相矛盾する要素を次に列挙してみます。

核抑止とは、核兵器をチャンスがあれば使いたくて使いたくて仕方のない敵国に対して、同じ核兵器で脅しをかけることでその使用を抑止する戦略・政策のことです。「使いたくて使いたくて」というところを実は証明することは不可能です。私は馬鹿げた想定だと思いますが、安全保障においては最悪の事態を想定するというのが定石で、それ故、敵国は核兵器を持っている以上チャンスがあれば使うに違いないと想定せざるを得ません。そのためには、必要が生じれば核兵器を使用する覚悟がなければならないということになります。本当は、核兵器は使えないということは分かっているのに、そのように考えてそのような行動を取らなければならないということです。

核抑止戦略の核心には「相互確証破壊MAD(Mutual Assured Destruction)」という戦略が存在しています。敵が仮に自国を核攻撃してきた後にも生き残り、さらに相手国に報復できるような核兵器を保有するということです。すなわち、相互に確実に破滅的な被害を受けるような核兵器を双方が保有するというわけです。そうすれば、たとえ、使いたくて使いたくて仕方ない状態でも核兵器の使用を躊躇うはずだというのがこの戦略の発想です。病的な発想ではありますが、なるほどそうだよねという戦略でもあります。問題は、これを突き詰めてやっていくと過剰な量の核兵器が双方に保有される可能性が高いということで、こうした戦略の下で行動しながらも核兵器の保有量が過剰にならないようにしなければならないという課題が常に付きまといました。結局は過剰になってしまったのですが。


核抑止戦略の少し変なところは、MADを有効に機能させるためには、本来の国家の機能を歪めざるを得ないということにあります。その第1は、自国の核兵器を徹底的には保護しないという行動に繋がりました。自国の核兵器が無敵であるとすれば、それは相手の核兵器が無力化されるということで、アメリカもソ連も自国の核兵器の保護を徹底はしませんでした。要するに、相互にMADを最優先の戦略としていたということです。第2に、アメリカもソ連も自国民を核兵器から徹底的に保護することを故意にしませんでした。ABM(ミサイル迎撃ミサイル)を国中に配備すれば(費用の問題はこの際無視しますが)、すべての国民を敵の核攻撃から守ることが可能になるわけですが(確率の問題はこの際無視します)、そうすれば、敵国の核兵器は無力化されることになります。こうしたことをしようとするだけで、敵国はそうなる前に攻撃を仕掛けようという誘惑にかられる可能性があります。これはMADの発想に反します。そこで、米ソ両国はABMの配備は国土の2か所までという条約をかわしました。国民の保護という国家最大の道義的使命よりもMADの戦略を優先したわけです。


核戦争は確固たる戦争の意志から生まれるとは限りません。誤解により、あるいは偶発的な事件により核戦争が誘発される可能性は否定できません。そこで、それを防ぐためには、核保有国同士が誤解・誤認をしないようにするためのネットワークが必要になります。互いに平時から情報交換をすることで偶発的な核戦争を防ごうというわけで、それは麗しい気もするのですが、考えてみれば、これらの諸国は核兵器を突き付けあって対立をしているわけで、なぜこうしたネットワークが成立するのか、かなり謎めいています。アメリカとソ連の間では、ホットラインといって、アメリカの大統領とソ連の共産党の指導者が直接に電話で話ができるようになっていました。これはキューバ危機以降に出来上がったものですが、偶発的な核の使用を徹底的に排除するためにはこうしたことが必要とされたわけです。それにしても、アメリカとソ連は本当に対立していたのでしょうか。不思議な関係です。


核保有国は、MAD最優先という発想からも分かるように、自国は断じて核兵器を使用しない、そして、他国にも使用させないということを肝に銘じて決意していました。そのためには自国民を守らないということを相手と合意する条約さえも締結したわけです。つまり、自国、そして、他国の核の先制攻撃につながるような核兵力を持たず、また、そうしたドクトリン、核兵器にまつわる政策を持たないことを固く決意していました。もちろん、何かあれば使う気だったのですが。


以上の多様な相矛盾する条件をいかにこなして核兵器の使用を抑止するかが核保有国に課せられた使命で、そのためには、少し普通ではない政治的な知恵が必要とされました。幸いにも、冷戦期間中、米ソはこれらの課題を何とかこなしてきたということが言えます。むしろ、米ソ対立なんて嘘っぱちで、彼らはグルで八百長をやっていたのではないかと思うほどです。東西のそれぞれの陣営の子分の国家に言うことを聞かせるために、親分同士が八百長で対立をして見せていたのではないかと思えるのです。こうした感想は、もちろん、正しくはないのですが、ちょっとだけ当たっているように私には思えます。



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