2018年8月17日金曜日

第92回【20世紀の悪魔・民族自決⑫】

バルト海からボスニア湾に向かうちょうど入口の所、スウェーデンとフィンランドの中間地点にオーランド諸島があります。日本人でここを知る人はあまりいないかもしれませんが、このオーランド諸島の有り様を論文に取り上げたゼミ生がいました。

オーランドは、現在はフィンランドの一部となっていますが、歴史的にはスウェーデンとのかかわりが深く、島民は皆スウェーデン語を話します。スウェーデンからフィンランド、一時期はロシア、そしてまたフィンランドと、オーランドの帰属は変化してきました。オーランド島民がスウェーデン語を話し、オーランド旗がスウェーデンの国旗にそっくりなのを見てもスウェーデンへの帰属を望む人々が多いということが窺えます。ストックホルムからフィンランドのトゥルク行きのフェリーに乗ると、レストランのメニューがスウェーデン語とフィンランド語とロシア語で書かれていますが、以上の歴史がメニューに反映しているわけです。

ところで、オーランドを取り上げた学生が紹介しているのが「内的自決」という概念です。「内的自決」とは、独立は実際にはしないけれども、ひとつの主権国家の内部において「自治」を成立させることで自決が可能になるという考え方です。こうしたことは果たして可能でしょうか。また、それが可能だとして、果たしてそれは民族自決による主権国家の確立に代わるものたり得るでしょうか。どんな条件の下でなら、そのように言えるのでしょうか。

オーランド諸島は、その存在する位置の戦略的重要性から、長い年月、スウェーデンやフィンランドと深いかかわりを持ってきました。つまり、よくも悪くも歴史を共有してきたのです。ただ、オーランド諸島が人口が希少で十分な軍事的強さを持つことができないが故に、スウェーデンやフィンランドやロシアの保護下に置かれたわけです。その帰属は、周りの相対的な大国の力関係次第だったのです。その帰属に最終的な答えを与えたのが国際連盟でした。

オーランドは、1921年に、国際連盟の裁定によって大幅な自治を獲得しました。スウェーデンとフィンランドがともにオーランドの帰属を主張し、オーランドはスウェーデンへの帰属を希望していました。しかし、ロシアの支配を受ける前のオーランドはフィンランドに帰属しており、第1次大戦後のフィンランドの独立に際して、フィンランドがオーランドの帰属を自国に求めることは自然なことでした。スウェーデンはオーランドの戦略的に重要な位置から自国への帰属を主張しました。両国による交渉は暗礁に乗り上げ、国際連盟による裁定を求めることとなりました。この際、両国は、どのような裁定が出ようともその裁定に従うことを誓約しました。

国際連盟が出した裁定は絶妙なものだったということができます。まず第1に、オーランドへの主権はフィンランドに帰属するとされました。第2に、フィンランドに帰属することになったオーランドに住むスウェーデン語系フィンランド人(要するに、オーランド人)に対しては大幅な住民自治を保証しました。第3に、スウェーデンの意向に従い、オーランドを非武装中立の地域としました。つまり、フィンランドに主権、オーランドに自治権、スウェーデンに安全保障を与え、三者三様に不満を抱えながらも、受け入れ可能な妥協案が提出されたのです。

これにより、オーランドはフィンランドという主権国家の中で大幅な自治権を持つ地域として生きることとなったわけですが、現在では、この連盟の裁定自体が、オーランド住民のアイデンティティの中核になっていると言われています。オーランドは、こうした形で、確かに自決を果たし、フィンランドという主権国家の中で、小なりといえども確固たる自治を実現しているという意味で、前回紹介しましたダライ・ラマの「中道のアプローチ」を現実のものとした存在と言えるのだと思います。

これをフィンランド側から捉えると、それはフィンランドの選択というよりは連盟の裁定を認めざるを得なかったものということになるのですが、フィンランドの憲法を始めとする国内体制の中にオーランドを位置づけ、それを寛容に受け入れることを実現したということを考えると、フィンランドが裁定後はその裁定に従って主体的に自己の国家像を幾分変容させたということができるものと思います。

オーランドのような「内的自決」を実現させる条件とはどのようなものでしょうか。こうした「内的自決」は、私は21世紀における民族自決の問題の解決に重要なヒントを与えるものと思いますが、どこにでも成立するものとは考えられません。チベットが中国において「内的自決」を果たすことはたぶんできないのではないでしょうか。

ゼミ生は、これを実現するには2つの鍵があると主張しました。私は、それをまったく正しいことだと思っています。すなわち、第1に、自治地区を持つ主体、つまり、オーランドの場合はフィンランドということになりますが、この主体が十分に民主的に成熟していなければなりません。大幅な自治権を持つ主体を大らかに包み込む寛容さとそのためには自己変革も行うことができる柔軟性がなければなりません。20世紀の初頭に、フィンランドとスウェーデンは、すでにこうした段階に達する国家だったのだと評価できます。

第2に、自治地区とそれを抱える主体がともに歴史を共有しなければならないと言います。『ウェストファリアは終わらない』の第1章で強調したことですが、メモリーの共有こそが主権国家の核にあるもので、「内的自決」を実現する場合でも、メモリーの共有こそが鍵となるのです。

オーランド・モデルは21世紀において、もっと注目をされてよい国際政治の事例であると私は思います。このように、ゼミ生から教えられることがあるというのが大学のゼミの醍醐味であるとこの年私はまた確認したのでした。


来週から、2012年度の私の総括の講義を再録致します。

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2018年7月30日月曜日

第91回【20世紀の悪魔・民族自決⑪】

ゼミ生の論文の紹介を続けます。
2人のゼミ生が、他のゼミ生とは異なった視点からの考察を提出しました。大変に興味深いものでした。

ひとりは、チベットのダライ・ラマの提出する「中道のアプローチ」を取り上げました。チベットが自決を当然にすべきひとつの独立した民族であることは明らかですが、中国による侵略を受け、その支配下にあり、その現状を変化させられないということもまた自明であると思います。チベットは、まさに命を懸けて中国と戦い、自決の権利を取戻し、主権を持つ国家を打ち立てるべきでしょうか。

ダライ・ラマも、1987年までは中国からの分離独立を主張していました。しかし、中国がそれを許さないことはあまりにも明らかで、それ故、1988年になって大きく方針を変更しました。その際に提出されたのが「中道のアプローチ」というもので、これは、国家としては独立することなく、それでもなお民族自決を達成するという発想です。「中道のアプローチ」は、欧州議会議員に対する講演の中で明らかにされたもので「ストラスブール提案」とも呼ばれます。

ダライ・ラマは、この講演の中で、中国に対してチベットによる「高度な自治」を要求します。すなわち、外交と軍事を中国政府に委ねる代わりに、その他の事項に関してはチベットによる自由裁量を要求します。信教の自由や宗教教育、使用言語や歴史教育などがその中核となります。これが「中道のアプローチ」と呼ばれるようになったのです。

なぜ「中道」かと言えば、それは自決を要求しながらも独立を断念する主張だからです。ダライ・ラマは、それまでに主張していた分離独立を諦め、現実と妥協し、独立ではない「高度な自治」を目指すこととしたのです。逆に言えば、それほどまでに強い中国の態度、つまり、チベットに対して自決どころか思想・良心の自由や言論の自由さえも許そうとしない態度の頑なさに絶望し、独立を諦める代わりに、より高い自治をせめて認めてほしいと訴えるようになったわけです。

ゼミ生は、「中道のアプローチ」に対するチベット人たちの態度を様々に検討しています。この妥協を許容する人々と、若者を中心とするこうした妥協に絶望し、過激な独立運動に向かう人々がいることを指摘しています。確かに、絶望した多くの若者が焼身自殺するという悲劇も近年続いています。
民族自決は、現在の国際社会では、否定できない正義と言って構いませんが、それは必ずしも容易に達成されるものではありません。カタルーニャに見られるように、どちらかと言えば寛容な政治制度を持つヨーロッパにおいてさえも、分離独立を果たすことは容易ではありません。まして、チベットが相手にしているのが中国であることを考えると、自決を果たしての分離独立は夢のまた夢で、現在のチベットの置かれた状況を考えると理解できるように、最低限の自治すら認められないというのが現実です。

そうした現実があるにもかかわらず、ダライ・ラマの提出する「中道のアプローチ」は、21世紀の国際社会を考える場合に、重要なアイディアを提出していると私は考えます。民族として自決はするが、分離独立は果たさず、既存の国家の中で高度の自治を獲得し、それによって、血で血を洗う戦いを回避しながら、実質的に独立に近い成果を獲得する。ここに、私は、果たすべき理念と変え難い現実の、わずかながらの接点を見出すのです。ヨーロッパにその実例があります。
次回、その実例を取り上げたゼミ生の論文をご紹介致します。

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2018年7月14日土曜日

第90回【20世紀の悪魔・民族自決⑩】


ある民族が自決を果たすとすれば、その民族は、自決を果たす程度に一体感を持っていなければなりません。すなわち、自決を果たした瞬間から国民としての統合された意識を持たねばならないのです。これが簡単でないことは、60年代以降に独立を達成したアフリカの多くの諸国で経験済みです。これをテーマとして取り上げたゼミ生もいました。「国民意識と教育」というテーマです。

このゼミ生は、アフリカにおいて、国民統合のための教育がいかになされてきたか、あるいは、それがいかに不足したり、うまくいかなかったかを論じました。国民としての意識は自然に発生するものではなく、作り上げるものだという認識は日本人に欠けているものと思います。教育はその中心に存在する重要な事業なのです。

帝国の一部となっていたり、植民地とされていた民族が実際に独立を果たしていった過程をテーマとした学生が多くいました。

古いところでは、ばらばらの領邦国家の集まりに過ぎないドイツに、最有力の国家であるプロイセンがいかにして集団としての国民意識を植え付け、統一国家に導いたかを取り上げたゼミ生がいましたし、また、第1次大戦後に独立を果たしたチェコスロバキアの独立までのプロセスを取り上げたゼミ生もいました。

新しいところでは、第2次大戦中に日本が占領をしていた地域、具体的には、インドネシアとフィリピンを取り上げて、その自決、独立の過程を描いたゼミ生がいましたし、同様に、スリランカの独立の過程を取り上げたゼミ生もいました。また、インドの独立を女性の視点から描いたゼミ生もいました。一番新しいものとしては、ルワンダの独立の過程を取り上げたゼミ生がいました。

以上は、自決・独立をすでに果たした事例を取り上げた論文ですが、ゼミ生の中には、未だに自決・独立を果たせていない主体を取り上げたゼミ生もいます。パレスチナと台湾がそれです。どちらも大変に難しい問題であると思います。ある民族が自決を果たし、国民が自身の政府を持ち、国家を成立させるには様々な困難が存在するわけですが、パレスチナと台湾には、とりわけ大きな壁が立ちはだかっているように思います。

さらに、最近になって、分離・独立のホットな問題として取り上げられているカタルーニャを取り上げたゼミ生がいました。国際社会で「民族自決」が重要な基本的原則となっていることは間違いのないことですが、現在存在している国家から分離して自決・独立を果たすことは奨励されていません。ヨーロッパにおいては、成功例としてチェコとスロバキアの分離があります。また、大きな犠牲を伴ったものとしては、ユーゴスラビアが、コソボを含めて、7カ国に分裂した例があります。他にも、ベルギーに分裂の議論が昔からあり、また、スコットランドやウェールズにも独立の兆しが存在しています。

カタルーニャはその最新の例ですが、まだこの問題が現在のように現実の政治課題とはなっていない2012年にこのゼミ生はこの問題を取り上げました。

カタルーニャと似た例としてコルシカ島の独立運動を取り上げたゼミ生もいました。コルシカ島はフランス領ですが、やはり昔から独立の議論が存在してきました。こうした例を通じて分かることは、民族自決と国家の独立は、国際社会の原則とはいえ、非常に困難な事業であるということです。そもそも、文字通りに民族自決や独立が許されるとすれば、現在の国家システムは見る影もなく分裂したものとなることは間違いありません。どこで歯止めを掛けるかが大きな問題ですが、線を引くのは容易ではありません。スコットランドの独立、カタルーニャ、チェチェン、その例を挙げれば切りがないくらいです。ヨーロッパにおいてもそうなのですから、アフリカなどでは想像がつかないような事態になると思われます。一説によると、文字通りの民族自決を行えば、アフリカに1000を超える国家ができるだろうと言われています。以前の国連事務総長が言ったことばです。

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2018年6月30日土曜日

第89回【20世紀の悪魔・民族自決⑨】

2012年度の柴田ゼミのテーマは「20世紀の悪魔 民族自決」だったのですが、ゼミ生たちは、様々な角度からこのテーマにアプローチしてくれました。
こうした国際政治の根幹にかかわるようなテーマの場合、学生たちの示す関心は拡散して多様な方向に行くのが普通ですが、2012年度の場合も、学生の選び出したテーマは多岐に渡りました。

まず第1に、民族自決という概念・理念それ自体をテーマとするゼミ生がいました。
ひとりは、理念としての「民族自決」がどのようにして国際政治の場に登場したのかを考察し、第1次大戦後のレーニンとウィルソンによるこの理念の提示を比較検討しました。第1次大戦前後から現在に至るまで、これら両国は国際政治を圧倒的に左右する力を示し続けているわけですが、民族自決のような理念の国際社会に対する提示には、内向きの作用と外向きの作用があります。
ロシア革命直後のソ連は、多様な民族をソ連という連邦国家に統合していかなければならないという内向きの大きな課題を抱えていました。レーニンの提案した民族自決は、国際社会に向けたものであると同時に、そして、それ以上の重要性をもって、ソ連という新生国家の、連邦を構成する諸民族に向けた国内向けの政治的デモンストレーションという傾きがありました。希望すれば、各民族は民族自決を果たして、独立国家としてソヴィエト連邦を離脱できるという寛容さを示すことを通じて、それとは逆の結果、つまり、ソ連への諸民族の統合を果たそうとしたのです。
興味深いことに、冷戦終結後に、この理念は一気に復活し、ソ連国内の各民族に独立を果たさせ、ソ連を解体に導いたのです。チェチェンに代表されるように、今でも分離独立の運動は続いています。
ウィルソンの民族自決の国際社会に対する提案は、レーニンのこうした動きに遅れまいとしたものと言えます。普遍的な価値の提案は、リーダーたるアメリカがなさねばならないし、それによって、国際社会におけるアメリカの威信を高めんとしたものと言えます。ウィルソンの民族自決の提案は、レーニンとはまったく異なって、圧倒的に外向きのベクトルを持っていたということができます。
そもそも、アメリカは、植民地から独立を果たした最初の国でした。こうした理念を国際社会に対して提案する存在としては、自らがもっとも相応しいと考えていたのです。ただ、依然として植民地を所有しているヨーロッパ諸国との関係から、この理念をとことん突き詰めて推し進める意志がアメリカにあったとは言えません。第1次大戦後の講和会議の中においても、アメリカの植民地独立に対する態度には腰の引けたものがありました。実際、この結果民族独立を実現したのは、ポーランドからブルガリアに至るヨーロッパ諸国のみで、アジア・アフリカにおける民族自決はまったく実現をしませんでした。
もちろん、確かに種は蒔かれたわけで、第2次大戦後に、この種は芽を出し実を実らせたのです。ただし、そこには、大量の血が流される場合が珍しくなかったのです。だから私は、これを「20世紀の悪魔」と呼んだわけです。
別のゼミ生は、民族自決の理念が、どのようにして国際法に取り入れられていったかを考察しました。

確かに、こうした理念・概念は、言いっぱなしでは国際正義として定着していかないわけで、「法化」されなければなりません。国内法とは違い、警察や裁判所があっても希薄な国際社会において「法化」することの意義を疑問視するような人もいなくはありませんが、こうした「正義」は反対するのが難しいだけに、いざという時には、案外多くの国家の行動を縛る場合があります。レーニンもウィルソンもどちらかと言えば、自国の国益のためにこうした「正義」を掲げたと言えると思いますが、徐々に「法化」されることで、自らもそれに縛られるようになります。国際社会の発展とはこのようにしてなされるのだと思います。「法化」を取り上げたのは、大変にいい視点であったと私は思います。

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2018年6月17日日曜日

第88回【20世紀の悪魔・民族自決⑧】

テーマの絞込みに対する学生へのアドバイスを引き続きご報告します。

「自決」の〈現在〉
「自決」の現状を考えてみるのもテーマとしてはありうるものと思います。

「自決」というものの国際法上の位置づけとそれに伴う問題をテーマにすることが可能です。ここで確たることを言うつもりはありませんが、国際法上の「自決」は極めて曖昧であると思います。つまり、「自決」というきれいごとのみが存在して、それが現実にどのように適用されればよいのかの議論は不十分なままになっていると考えられます。つまり、文字通り「自決」がなされるようなことがあれば、世界は大混乱に陥るはずです。要するに、「自決」にはどこかで限界が設けられなくてはならないはずなのですが、その議論が不足しているはずです。そこを抉る議論には価値があると私は思います。

第2次大戦後独立を果たしたアジア・アフリカ諸国にはその後50年経ってもまともに自立を果たせていない国が珍しくありません。50年という歳月が長いか短いかには議論があるところだとは思いますが(私は長くないと思っています)、「自立」できない「自決」は有効なのでしょうか。「自決」には資格があるのではないでしょうか。では、その資格とは何でしょうか。

「自決」の〈未来〉
第2次大戦後の20年くらいは、アジア・アフリカ諸国が次々と独立を実現する、ある意味、それらの国々にとっては熱狂の歳月でした。しかし、これらの「自決」は、今そうした熱狂が醒めた時代から振り返ると、あまりにも不完全であったと思わざるを得ません。つまり、自決の主体とは人民(people)であり国民(nation)でなければならなかったはずですが、この時代に独立を果たした諸国の多くの自決は、植民地時代の国境・枠組みを前提にしたもので、「人民」「国民」が不在であったことは否めません。これが現在の、そして、将来の紛争の原因となるわけです。

そのように考えると、現在の諸国家はかなり不完全な状態にあると言えます。国家はさらに細分化されていくのでしょうか。つまり、さらなる「自決」へと世界は進むのでしょうか。こうした新たな自決は、かならず紛争や内戦を伴うと考えられます。チェコとスロバキアは紛争なく分離をしました。スコットランドやカナダのケベックも紛争なく分離する可能性を現在では大きくしています。しかし、これらは圧倒的な例外ではないでしょうか。東チモールは独立までにどれだけの犠牲を払ったでしょうか。南スーダンも然りです。
あるいは、国家はむしろ統合される方向に進むでしょうか。現在の主権国家が様々な不足を抱えていることは明らかで、より大きな主体を選択するということがあり得るでしょうか。よく出される例がEUです。「自決」以上に重要な価値、利益とは何でしょうか。統合に欠かせない価値は何でしょうか。私はそれは「寛容」であると考えますが、人間にそうした価値をとことん実現することが可能でしょうか。

第2次大戦後に独立を果たした国家の多くの自決が不完全であったことは事実ですが、その国家の向かう方向は細分化のみではありません。「分裂」とは異なる方向も存在しています。国内の統合、すなわち、新しい国民の創出という方向があり得ます。国内に存在するいくつかの「民族(原則として「民族」という単語は使わないとゼミで明言しましたが、使わざるを得ない場合があるのが残念です)」がそれぞれを隔てる垣根を低くして統合に向かうわけです。現に、たとえば、スイスなどは4つの言語、3つの民族、2つの宗教が入り乱れた国民がまさにひとつの国家を作り上げています。こういう方向こそが未来なのでしょうか。その際にもキーとなる価値は、私は「寛容」であると思いますが、どうでしょうか。

以上、「自決」の過去・現在・未来と題してヒントを提出しました。今年のテーマは、やればやるほど裾野の広いいいテーマだということが分かりました(自画自賛!)。逆にいえば、うまく絞らないと論文になりません。皆さんは1月末には論文を提出しなくてはならないわけですから、「自分のテーマ」を早急に絞り込まなくてなりません。論文の出来の8割はこの絞り込みで決まります。これができれば後は力仕事です。


次回より、学生のゼミ論の紹介を致します。

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2018年5月30日水曜日

第87回【20世紀の悪魔・民族自決⑦】

2012年度のテーマは「20世紀の悪魔 民族自決」でした。
学生が個々の「ゼミ論」を書くにあたり、私は以下のようなアドバイスを学生に対してしました。「民族自決」という問題が雲を掴むようなテーマにも思えたからです。

「自決」のどこを捉え、どのような切り口で勉強するかについては、色々なアプローチが考えられますが、私はここで「自決」の過去・現在・未来という整理の仕方をしてみます。たぶん、自分のテーマを見つけるヒントになるはずだと思います。

私が与えるヒントにどっぷりつかる必要はありません。私のヒントを生かしてももちろんいいわけですが、全然違うアプローチで問題に迫っても構いません。私なら先生の言う通りになんてしません、絶対。

「自決」の〈過去〉
民族自決が国際政治上に登場したのは、遡ればフランス革命に行き着きますが、実際的には、第1次世界大戦の前後のことでした。ロシア革命後のレーニンが最初にこれを提案したわけですが、これにはソ連建国と深い関係があります。ロシアは伝統的に民族問題を抱えていたわけですが、これと自決の提案とは密接な関係があるはずです。これに対して、アメリカの大統領ウィルソンがやはり民族自決の提案をしました。民族自決というアイディアがあまりにも正しいので大急ぎでレーニンと同じ提案をしたという印象があります。
また、第1次大戦を有利に戦う戦術のひとつとしても「自決」というアイディアは使用されました。中近東の諸国に対する独立の承認と引き換えに戦争への協力を取り付ける、なんていうのもそれで、こうした空約束が今のパレスティナ問題にまで影響を与えているわけです。

自決の提案は、しかし、第1次大戦後のヴェルサイユ講和会議において、普遍的な価値を必ずしも持つものではないことが明らかになります。ヴェルサイユ会議において、確かに、東欧諸国は自決を果たし独立を実現しました。なんと、バルト三国までが独立を果たしたのです(この短い独立の経験が、冷戦後のソ連からの独立に多大の影響を与えました)。しかしながら、自決原則はアジア・アフリカ諸国へは適用されませんでした。植民地主義は克服されなかったわけです。自決原則は限られた範囲でのみ適用される原則に過ぎなかったわけで、要するに、アジア・アフリカ諸国にとってみれば、期待外れだったわけです。

しかし、こうした普遍的な装いを持った原則というものは、提案者の意図を超えて成長するものです。他にも様々な例を挙げることができると思いますが、一度導入された抽象的な価値は、導入された時の意図を離れて必ず独り歩きし始めるものです。

第2次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立はそうしたことの証明であると思われます。第2次大戦においては、日本はほとんど世界中を敵に回して戦ったわけですが、戦争の目的のひとつにアジアの解放を主張しました。この主張がどこまで本気だったかについては様々な議論ができるとは思いますが、戦後のアジア・アフリカ諸国の独立という事実に多大の影響を与えたことは否定できないものと思います。日本は、ある意味、第1次大戦時に登場した「自決」の価値を振りかざして第2次大戦を戦ったということが言えます。大東亜会議などはその表れと思います。また、ヴェルサイユ講和会議に「人種的差別撤廃提案」を提出して欧米諸国によって否決されていた経験もこうしたことのアリバイになるかもしれません。

第2次大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立は、植民地主義の終焉であると同時に、ヨーロッパ生まれの国際政治構造の世界化でもありました。アジア・アフリカ諸国はそれまで自分たちを植民地として支配していた宗主国の作り出した国際構造に自ら踏み込んだわけです。この辺のねじれみたいなものが私には非常に面白く感じられます。

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2018年5月15日火曜日

第86回【20世紀の悪魔・民族自決⑥】

以上の理論的(かなり初歩的なものですが)な考察からわかることは、ミャンマーがASEANにおいて議長国を務めることを強く望んでいるのであるとすれば、民主化を真剣に考えざるを得ないし、議長国に決定するのが議長に実際に就任する3年近く前であることを考えれば、スタートした民主化は不可逆的であり、しかも、民主化の進展を証明する必要からそれは一気に進まざるを得ないはずだ、ということです。なかなか証明しにくいのですが、その根底には、国家の生理のようなものがあります。つまり、自国を取り巻く国際社会から認知してもらいたいという抜きがたい意識のことです。私は、今回のミャンマーの動きの初期にこれを強く感じたので、民主化は進む、後戻りはない、根拠はあると断言したわけです。

以上が、私の判断とその根拠でした。私の予想がはずれるようなことがあれば、それがはっきりした時点で、なぜうまく予想できなかったかを考えて、理論の修正をしなければならないと考えていましたが、どうもそれは必要ないようです。まもなく(確か今日)、スー・チー女史がノルウェーで20年以上遅れてのノーベル平和賞受賞の記念の演説を行うようです。ミャンマーの民主化はどうやら一線を超えて進展しつつあるようです。

物事、特に、複雑な事象を考える場合には、抽象的な理論を背景に持たなければなりません。そして、現実の動きの中で常にその理論を修正し鍛え上げなければなりません。ちょっとだけ種明かしをすると、私の今回の理論的枠組みは、学生時代に勉強したスイスの中立政策と小国の理論化、そして、非同盟の研究があります。これだけで10年の歳月勉強しました。いずれにしても、現実の事象にだけ目を奪われるのでなく、その背景に潜むパターンに注目しましょう。

脱線が長くなりましたが、国際政治の多くの事象を考えるヒントになればと思います。
次回より、2012年度のテーマを巡る議論をご報告致します。

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