2017年7月30日日曜日

第67回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑦】

兵器には、攻撃、防御、強制、抑止の4つの使用方法があります。

核兵器の最大の特色は、攻撃、防御には使えない可能性が非常に高いことです。核兵器は使用する側もされる側も最終的には壊滅的な被害を被らざるを得ないという点でまさに使えない兵器であるわけです。少なくとも、米ソの核対立にはそのような暗黙の了解のようなものがあったと思います。ですから、核兵器の使い道としては、強制と抑止以外にないわけですが、一般に、核兵器を持った国が核兵器を持たない国に対して、核兵器で脅しをかけて何事かを実現するということはしない了解がこれまでの国際社会にはありました。つまり、強制は行わないということです。これもまた暗黙の了解に近いものですが、そうでなければ、すべての国が核兵器を持つようになるのが必然で、核兵器を持つごく少数の国は、そのような核兵器の拡散を恐れて、核兵器を自国の国益の増進のために非核兵器国に対して使うことはしないできたわけです。核拡散防止条約(NPT)の基礎にはこうした考え方が存在しています。

そうなると、核兵器が何のためにあるかと言えば、核兵器を持つ国同士における抑止以外にないということになります。ただ、核兵器は、それを持ちさえすれば抑止が働くという単純なものではありません。

核兵器はその運搬手段と一体の兵器です。核弾頭だけがあっても、それを敵国の内部に運び込むことが出来なければ意味がありません。運搬手段には、飛行機、地上からのミサイル、戦艦および潜水艦からのミサイルなどが考えられます。もちろん、スーツケース爆弾のような核兵器の可能性も考えられますから、人間が手にもって徒歩で核兵器を敵国に運び込むことも論理的には可能です。核兵器を持つ国にとって運搬手段の開発は必須です。

運搬手段などについてはここで詳しく論じることはしません(ゼミではこれについても詳しい議論を行いました)。問題は、抑止の条件とはどのようなものか、ということです。
まず第1に、核兵器を持つ国は、幾分矛盾しますが、一旦緩急あれば、この兵器を使う覚悟がなければなりません。冷戦時代に米ソは、核兵器は使えない兵器であるとみなしていたと考えられますが、しかし、究極的にはそれを使う覚悟を持っていたように思います。そうでなければ、核兵器は宝の持ち腐れです。そして、使う覚悟をお互いが持っている以上、最大限に運搬手段の開発を行いました。相手が先に自国を攻撃するようなことがあってもなお生き残る運搬手段を持とうとし、そして、現にそれを手にしました。相手を最大限の核攻撃に晒してもなおその相手から報復を受けるという可能性が自国の核の使用を抑制するのです。変な話ですが、自己を抑制するものは敵である相手の真面目な戦略的努力ということになるわけです。逆に、相手の抑制を導くものこそ自国の戦略的な備えであるのです。

こうした戦略は「MAD(相互確証破壊)」と呼ばれました。仮に、自国が核攻撃を受けても十分な核兵器が生き残り、敵に対して耐え難い報復を行うことができる、そんな戦力を保持するというものです。

冷戦時代の米ソは、相手の核兵器のすべてを破壊できるような攻撃力を開発することを目標としていました。精度の高いミサイルの開発もその一環でしたし、核兵器の数が増えたのもそのせいです。また、それとは逆に、すべての核兵器を一度に破壊されることがないように戦略を練りました。陸上の核兵器サイトはぶ厚いコンクリートで覆われました。冗談みたいに思えますが、アメリカ本土にある核兵器が仮に全滅しても報復のために核兵器が生き残るように、核兵器を積んだ潜水艦が海のどこかに常に潜んでいますし、同様に、核兵器を積んだ戦略爆撃機が常に上空を飛んでいるのです。今この時も潜水艦はそのために潜り、戦闘機はそのために飛んでいるのです。陸上の核兵器も、場所を特定されないように常時移動しているものがあります。

たぶん、米ソ両国の核戦略関係者は、こうしたことのすべてが馬鹿げたことであることを知っていたのだと思います。この戦略が「MAD」と呼ばれているのはその表れだと思います。

そんなこんなを突き詰めて考えてみると、核抑止は敵味方が一体となる部分を多様に秘めていてどこか八百長的です。アメリカは本当に隙あらばソ連に核攻撃をしようと考えていたのでしょうか。ソ連はチャンスが到来すればアメリカに核をぶち込む気でいたのでしょうか。どちらも結局核を使用していないために、抑止が効いていたからどちらも核攻撃をしなかったのか、抑止とは関係なく、最初から双方に核攻撃をする気がなかったからそういうことが起きなかったのか、証明することができません。もちろん、証明の時が訪れなかったことは人類にとって幸いであったわけですが。

抑止の条件の第2は、核兵器を持つ国は、相手の核攻撃を完璧に防御しようとしてはならないというものです。国家は国民を守るために存在しているわけですが、核兵器に関してはそれをあたかも放棄するかのように行動しなくてなりません。相手の核攻撃を完璧に防御できるとすれば、自国は相手に核攻撃をし、しかも、相手の報復を免れることができるわけですから、核による攻撃を自制できなくなります。あるいは、そうした防御体制の確立の前に、敵国は必ず攻撃をしかけるはずです。なぜならば、防御体制確立の後では、自国の核保有は意味のないものとなるからです。そこで、核保有国は、自国が敵国に核攻撃をしないことを明確に示すために自国の防御をしないことが必要になります。米ソ間のABM条約では、国内2ヶ所に限り防御ができるとの約束を交わしました。逆に言えば、2ヶ所以外は守らないということを約束したことになります。敵国からの報復が有効に行われる状態をあえて作り出すことによって、自国が核による先制攻撃をしないという証を立てるわけです。彼らは本当に核兵器を使う気があったのでしょうか。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。






2017年7月15日土曜日

第66回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑥】

核兵器は、初めて製造をされてから、実験では何千回も使用されているわけですが、実戦では、広島と長崎に使用されたのみです。その用途は、「抑止」のみにあると言われたりすることもあります。他の兵器とは明らかに異なった性質の兵器です。

そもそも、抑止とは理解の難しい概念です。
核兵器に限らず兵器には4通りの使い道があります。
1に、それを使用する方法。第2に、それを実際には使わずに済ます方法です。
さらに、使用する方法に2つの用途があります。その第1が、「攻撃」。そして、第2が、「防御」となります。攻撃と防御は明確に違うようにも思いますが、実は、何が攻撃で何が防御かを区別することは簡単なことではありません。野球やアメリカン・フットボールでは攻撃側と守備側がはっきりと分かれていますが、サッカーやラグビーでは必ずしもはっきりとしません。フォワードがバックスの横パスを奪おうとすることは攻撃でしょうか、それとも、守備でしょうか。軍事において、放っておくと自国を攻撃してくるに違いない敵国の基地を予め攻撃することは攻撃でしょうか、それとも、防御でしょうか。このようにして、古来すべての戦争は「自衛」を理由として開始されます。そして、それはまんざら嘘ではないのです。

使用しない方法にも2つのあり方があります。その第1が「強制」です。武力にものを言わせて相手国を自国の望むように動かすのが強制です。こちらが言わなければけっして相手がしないようなことを相手にさせるのが強制です。概念理解のためには何となく分かるではいけないので、口説く説明しますが、強制の特徴は相手に「to do something」を強いることと言えます。これに対して、使用しない方法の第2が「抑止」です。抑止とは、相手に何事かをしないことを強いるということになります。すなわち、「to do nothing」を強いるのが抑止というわけです。動いていない相手に「そこを動くな」と言うのが抑止なわけですが、難しいのは、動いていない相手に「動くな」と言うわけですから、相手が引き続き動かないのがそう言われたから動かないのか、言われたことと関係なく最初から動くつもりがないから動かないのかが証明できないということです。軍事力の使い道でもっとも検証困難なのが抑止であるということがわかると思います。抑止が効いていたかどうかが証明されるのはその抑止が破られる瞬間ということになるのです。

このように、軍事力には、攻撃、防御、強制、抑止の4つの使い道があるのです。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。


http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html







2017年6月30日金曜日

第65回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑤】

2011年度は「なぜ彼らは核兵器を持つのか」と題して、核兵器保有国が核兵器を持つ理由について考え、それを通じて、核兵器にまつわる多様な意味を考えようとしました。

人類はいくつかの難問(difficulties)に直面していますが、核兵器の問題がそのひとつであることは明らかです。核兵器とはそもそも何なのでしょうか。核兵器はどのように管理されているのでしょうか。核兵器を廃絶することは可能なのでしょうか。なくならないとすれば、それはなぜなのでしょうか。なぜ日本は核兵器を持たないのでしょうか。イランや北朝鮮はなぜ核兵器を獲得しようとしているのでしょうか。

米ソは冷戦時代、人類を何度も絶滅させるほどの核兵器を保有していました。減ったとはいえ今も米ロの核兵器は十分に削減されていません。なぜこのような愚かなことが起きるのでしょうか。現在、北朝鮮は核を保有し、それの実戦配備を急いでいるように見えますが、国民が飢えていると言われる中でそのような行動をするのはなぜなのでしょうか。

核兵器を国際条約で許容される形で保有しているのは5カ国で、そのすべてが国連の安全保障理事会の常任理事国です。これを許している条約が核拡散防止条約(NPT)で、なぜこのような露骨な差別条約が世界中のほぼすべての国家を加盟国として成立しているのでしょうか。核兵器保有5カ国を除くすべての国家は、この条約によって核兵器の獲得を禁止され、平和利用においても、国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れる約束になっています。保有5カ国だけが核兵器の保有を許されていますが、保有国は、非保有国が保有を禁止されているのと引き換えに、核兵器の削減を義務付けられています。ただ、削減や廃絶のタイムテーブルは用意されていません。非保有国が条約に反すれば大きな不利益を被るのですが、保有国は核兵器を保有し続けても何ら制裁などは受けません。現に、保有国は減っていません。

NPTに加盟しない核兵器保有国も存在します。明らかに核兵器を保有しているのが、インドとパキスタンで、保有を疑われる国としてはイスラエルがあります。最近では、北朝鮮の保有が疑いのないものとなっていますが、北朝鮮は、NPTの加盟国です。1993年と2003年に条約からの脱退を宣言して核兵器の保有に突っ走っていますが、条約加盟諸国は北朝鮮の脱退を承認していません。NPTはこれまで条約違反をした加盟国がなかったのですが、北朝鮮はその初めての国となりそうです。

この他に、南アフリカが過去に核兵器を保有したもののすべて廃棄したことを明らかにしています。保有した核兵器を廃絶した国は南アフリカのみです。保有している期間中は、南アフリカの核保有に気が付いた国はありませんでした。短い期間でしたし、結局は真偽不明のままだったのですが、ミャンマーの核兵器開発がうわさされたこともありました。イランは核兵器の開発を目指していますが、昨年、アメリカを始めとする国々と合意が成立して、開発を一時停止ないしは減速するとされています。この合意が非常に危うい基盤の上に成り立っていることは明らかで、今後どうなるかについての予想はつきません。

それにしても、核兵器を保有する国や獲得しようとする国は、なぜ核兵器を持つのでしょうか、あるいは、持とうとするのでしょうか。

ゼミ生たちには、核兵器を持つ国、あるいは、持とうとしている国をひとりひとつ取り上げて、その国が核兵器を保有する理由を探求するように指示しました。

その作業に取り組む前に、私たちが勉強したのは、核抑止とは何かというテーマでした。次回から核抑止について論じます。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。


http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2017年6月15日木曜日

第64回【彼らはなぜ核兵器を持つか④】

では、国際政治とは何でしょうか。私は、国際政治とは次のようなゲームだと考えています。この「ゲーム」と考える考え方が重要であるように思います。ただし、これは命がけのゲームですが。

それぞれの主権国家には「国益」があります。この国益にはとてつもなく重要なものと、まあそれほど重要でないものとがあります。国家によって優先順位が異なります。自国の優先順位を知ることと同様に他国の優先順位を知ることが重要です。また、国益は時間と共に変化する場合があります。ある時重要だったことが別の時には重要でなくなったり、その逆のことも起きます。国際政治の場とは、これらの国益と国益がぶつかり合う場所なわけです。放置するものは放置し、処理すべきものは処理すべきなわけですが、相手のあることですからどこかで妥協しなくてはなりません。どこで妥協するかを決めるものがパワー(日本語に訳する権力)で、パワーは多様です。軍事力のこともあれば経済力のこともあれば、他の何か無形の力であることもあるかもしれません。ただ、何らかの力(パワー)なくして自己に有利な処理は行われません。処理に第3国や国際機関が関与することもあるかもしれません。

すなわち、国際政治とは、国益をめぐって多様なパワーやアクターが織り成すゲームだということです。ゲームには習熟しなければなりません。ゲームで優位を占めるためにはパワーを貯え多様な人脈を築かなければなりません。総合的な力が試されるわけです。

このゲームを戦うのに忘れてならないことは、このゲームが永遠に続くということです。疲れる話です。勝利も敗北も一時のことです。すなわち、一時の勝利が未来にどう影響するかをも考えなければならないということです。一時の敗北が未来に与える影響も考えねばなりません。つまり、勝ちすぎてはいけないこともあれば、負けたからと言って悲観しなくてもいい場合もあります。絶対に負けてはならない場面も存在するはずです。

ゲームの参加者も永遠です。ある時ある問題でぶつかった相手は、それ以後も交際を続ける相手であり続けます。私たちは国際社会では大人である必要があります。自分とはまったく異なる相手の立場を理解しなくてはいけないし、ぶつかりあった相手ともその後何食わぬ顔で付き合い続けなくてはなりません。

私は、国際政治には「絶対」はないと言いました。しかし、絶対に近いものこそ、永遠に近いものこそ「国益」なのだと思います。ただし、国益は時々刻々変化します。これはゴリゴリのリアリストのものの考え方ですが、長年勉強して私はこれが国際政治の真の姿だと思うようになりました。いや、むしろ、国際政治は、国益のぶつかり合うゲームだと割り切ってものを考えるべきだと思うようになりました。国益をベースに殴りあった相手と次の瞬間には笑顔で握手を交わし、それでいながら次の殴り合いに備えるというような、そんなゲームです。相手も自国と同じように国益をベースにしてものを考え自分と争っている、自分とまったく同じ存在だと心から思うのが心の健康を保つ秘訣です。国家の健康とはそういうものです。

以上の観点からすると、日本はいささか不健康、ないしは、病気です。外から見ると、日本人が本当は何をしたいのかが見えてきません。これは実に気持ち悪い存在です。普通なら何か隠しているのでは、と思われるところで、実際にそのように思っている人が国際社会では珍しくないのですが、私は日本人だから知っていますが、実は、何も考えていないのです。ボーっとしているだけです。私は、そろそろ日本人は日本人として国際社会で何をし何を実現したいかを明確にすべきだと思います。そのためにも、国際政治とは、国益と国益がぶつかり合うゲームだということを肝に銘じて知らねばならないと思います。


脱線が長引きました。次回、6年目のテーマ「なぜ彼らは核兵器を持つか」に戻ります。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。


http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2017年5月30日火曜日

第63回【彼らはなぜ核兵器を持つか③】

K君のテーマの現状を少しお話しましょう。
現在では国連においても「保護する責任」という考え方が有力になってきています。クルド人救済の際には「人道的介入」という考え方がこの活動に援用されたのですが、現在では、それでは不十分であると考えられています。つまり、人道的な問題がある国家の内部で発生している場合には国際社会がこれに積極的に介入する必要がある、いや、義務があるというのがこの考え方ですが、この認定がなかなか難しい。あるいは、こうした理由で内政不干渉原則を侵していいのかという躊躇いが国際社会には依然としてあります。

ここからさらに一歩踏み込んだのが「保護する責任」という考え方になります。主権国家が主権国家として認められるためには、その主権国家は国民を最低限保護しなくてはならない。その最低限の保護がなされていない場合には、その国家は主権の責任を果たしていないとみなされて、言い換えると、主権国家の要件を満たしていないのだからそんなのは主権国家とは呼ぶことができず、雑に言えば、主権国家ではないとすれば干渉は構わないという考え方です。

主権国家が主権国家として果たさなければならない最低の責任を果たしているか否かを判定するのが国連であり、安全保障理事会ということになるわけですが、もちろん、ここにも問題はある。基準の問題がそうですし、国連や安保理自体にも問題がある。人権問題を考えてみれば、国際社会は中国に介入すべきではないか、ということにもなりかねないわけです。中国は安保理常任理事国で、脛に瑕がありますから、こうした介入に非常に懐疑的です。今回のリビアの問題でも決議に棄権しています。

これらの問題を扱ったのが4年目のゼミで、国連の報告書を英語で読みました。

要するに、問題は「主権」とは何か、という問題だということになります。主権とは近代になって登場した概念ですが、実体は人類の歴史とともにあります。それほどに古いものの考え方なのに近代になって初めて名前が付けられ議論されるようになったわけです。現在も議論されています。つまり、主権とは単純な定義をすることで済まされない捉え所のない概念だということです。あるいは、概念というよりは、捉え所のない実体を持つものと言った方がいいのかもしれません。そして、主権を担っているのが国家であるということがさらに重要です。すなわち、主権国家と主権国家からなる国際社会の問題なわけです。


それぞれの主権国家にはそれぞれに利害や価値があります。国際政治に「答え」が存在せず、「絶対」がありえないのはそのためです。映画の「羅生門」に正しく描かれていますが、真実はひとつではないのです。立場が変われば、同じ事象もまったく異なったものとなります。つまり、国際社会では(人間の世の中と言い換えてもいいですが)、事実は存在せず解釈のみが存在するのです。そして、解釈は無数に存在します。どの解釈がその時点でもっとも適切であるかが争われるわけで、それを決するのは残念ながら必ずしも正義ではありません。だから、「答え」がなく「絶対」が存在しないわけです。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。


http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2017年5月15日月曜日

第62回【彼らはなぜ核兵器を持つか②】

ゼミクシィにおけるK君への回答を続けます。

K君の取り上げたクルド難民(国内避難民)救出問題は重要な問題で、重要な問題のほとんどがそうであるように、国際政治の根本問題に繋がっていました。

K君がゼミに所属していたこの年のテーマは「難民は夢を見るか」というものでしたが、そもそも難民とは、K君も言っている通り、国境を超えて他国に逃れ救出を求める人たちのことです。クルド人のほとんどは当時イラクの国境を超えることが出来ずイラク国内において難民的な状況に陥っていたのでした。

国際政治には重要な原則がいくつかありますが、そのひとつが「内政不干渉」原則で、内政に干渉しないことと難民を保護する義務とは実は同じコインの裏表になっています。逆に言えば、ある国家の内側でその国民がいかに悲惨な状況に置かれているとしても、それらの人々を保護するのはその国家の役割で、他国はこれに干渉してはならないわけです。人権といった普遍的な価値が真に普遍的であるとされる以前は、つまり、第2次大戦以前は、ある国家の内部でいかに悲惨なことがあっても他国はそのことに関与しませんでした。しかし、人道的な立場からしてそれではあんまりなので、そこから逃れ出てきた人たちは積極的に保護しなければならないとされていたのです。しかし、世界人権宣言のような、人権が国家にかかわらず普遍的なものだという価値観が国際社会で一般化してからは、仮に国境を出ていなくても非人道的なことが行われていれば諸国家は行動すべきではないかという考え方が徐々に広がってきました。今はまだ過渡期であると思います。

K君は、内政不干渉原則を絶対的と言っていますが、私はそうは思っていません。ちなみに、「国際政治に答えはない」を別の言葉で言えば、「国際政治に『絶対』はない」ということになります。

当時の国連難民高等弁務官は緒方貞子さんで、国境を超えて、つまり、内政不干渉原則を侵して、イラクのクルド国内避難民への援助を決断し、実際にそれを行いました。この行為はある人たちからは賞賛され、ある人たちからは批判に晒されました。私は、こうした行為がこれまでの国際政治の構造を変えるものとなるのではないか、と、正直言って、知的興奮を感じながら事態の推移を眺めました。

これらすべての問題は突き詰めると「主権」をいかに捉えるかという問題に収斂していきます。思い出してみましょう。柴田ゼミの初年度のテーマは「主権の再検討」でした。2年目が「正しい戦争」。3年目が「難民は夢を見るか」。4年目が「保護する責任」。この4年を通じて私が考えたかったのは、国家と戦争と主権と国民と人権の関係だったと思います。K君のテーマは柴田ゼミのツボだったと言えます。ちなみに、5年目の去年のテーマは「1989 時代は角を曲がるか」というもので、5年間を総括するものとなりました(ゼミ生とは関係ないですが)。私は、この5年でこの主権をめぐる問題に自分なりの答えを出したつもりです。今年の1月には現4年生に、そのまとめとなる、この500年の歴史の見取り図の話をしました。ここでそれを詳しく述べられませんが、500年前に角を曲がった人類の歴史はあと500年は角を曲がらない、最近曲がったように見えるのは表面だけの話だ、という話をしました。あれで、世界史に目が啓かれていればいいんですがねえ。(ぜひ『ウェストファリアは終わらない』を読んで下さい。)

さて、その「主権」です。主権国家は主権国家であるが故に、他国からの干渉は受けない、というのがこれまでの国際社会のルールでした。これは近代のヨーロッパに発したルールですが、第2次大戦後までは、ヨーロッパ以外に主権国家がほとんど存在しなかったために、ヨーロッパ以外の地域ではヨーロッパ諸国が好き勝手に振舞いました。それに楯突いたのが日本で、日本は見事に砕け散りましたが、しかし、その後の世界はそれまでの世界と一変し、アジア・アフリカ諸国が独立を果たし主権国家となり、ヨーロッパ諸国が作り出したルールをかつての植民国だったヨーロッパ諸国に強いるという関係が出現することになったわけです。つまり、独立した新興主権国家は、平和5原則や平和10原則に見られるように、ヨーロッパ諸国に対してヨーロッパで生まれた価値である内政不干渉原則を声高に浴びせるようになったわけです。

 しかし、世界を見渡せばすぐに分かることですが、内政干渉は日常茶飯事です。今起きているリビアの問題でも、イギリスやフランスはずぶずぶに干渉をしています(近くその作戦「人魚の夜明け」についてゼミクシィに書きます)。つまり、主権という原則や内政不干渉という原則は言うほどにもなく脆弱なのです。多くの弱小国が主権尊重や内政不干渉を事ある毎に叫びますが、それはそうしなければそれらが守られないか、そうしてもなお守られていないことの証明なのです。要するに、国際政治に「絶対」はないのです。絶対を目指せば、巨大な軍事力が必要となり、それが再び絶対を突き崩す事態を招く、つまり、絶対はない、というのが国際政治なのです。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。






2017年4月30日日曜日

第61回【彼らはなぜ核兵器を持つか①】

柴田ゼミ6年目(2011年度)のテーマは「彼らはなぜ核兵器を持つか」というものでした。新学期の始まる直前に東日本大震災が起き、それに伴って、原発問題が大きな社会的テーマとなったために、核と原子力の問題は、ゼミのテーマを決めた時とは比較にならないくらい大きな目前の問題として私たちの前に立ち現れました。

入門として学生に最初に読ませた本は『核兵器のしくみ』という本だったのですが、核兵器の製造過程のほとんどは原子力発電の稼動の過程と重なっていて、私を含めたゼミ生の多くは、核兵器よりもむしろ原子力発電に関心が向きがちになってしまいました。

ところで、6年目の内容に入る前に、柴田ゼミのSNSについてご紹介したいと思います。

柴田ゼミでは、ゼミ生や卒業生向けにSNSを設定して、自由に議論したり情報を交換したりできるようにしています。ミクシィのような、ゼミ生だけに閉じられたSNSなので私たちはこれを「ゼミクシィ」と呼んでいます。

ちょうどこの年、卒業をして4年目になる卒業生が「先生に挑戦」と言ってゼミクシィ上で国際政治についての議論を挑んできました。仮にK君とします。

K君は、「難民は夢を見るか」というテーマでの勉強の時に、イラクにおけるクルド人の国内避難民をテーマとして取り上げました。その時以来、難民や国内避難民の救済の必要とそこに立ちはだかる国家主権や内政不干渉原則のことを考え続けてきたと言います。私はゼミで繰り返し「国際政治に『絶対』はない」というようなことを言ってきているのですが、K君はこれについて自分なりの整理が出来たので聞いて欲しいということで、長文の書き込みをしてくれました。
難民救済や国内避難民に対する援助という人道的な支援は今や人類の絶対的な義務であることに間違いはないが、そこには、国際政治の絶対的と言ってもいいような原則「内政不干渉」が存在しており、さらにその背後には国家主権という絶対的なものが存在している。国際政治においては、絶対と絶対の対立が珍しくなく、どちらを優先させるかに確固たるルールは存在しない。それ故、国際政治には「絶対」はないのだ、とK君は論じました。

学生との、あるいは、卒業生とのこうした議論は、私の最大の喜びのひとつです。ゼミが彼らの知的関心に火を点けたと実感できるからです。

ゼミクシィ上で、私もかなりの長文の回答をしました。それを以下にご紹介致します。国際政治学の基礎となるフレームワークのひとつをそこでご紹介できるものと思います。

K君、コメントが遅くなって済まない。
真面目に学生時代の問題に向き合ってくれていて嬉しく思います。

さて、以下、たぶん、これでコメントになるだろうという文章を書きます。より大きく問題を扱う感じでしょうか。

「国際政治に答えはない」というセリフをもっと正確に言うと、「国際政治に最終的な答えといったものは存在しない」となるでしょうか。

問題の「解決」とよく言いますが、国際政治では、問題が「解決」されることはめったにありません。もちろん、まったくないとは言いません。「解決」するとは、その暁には問題が消滅するということでもあります。こうしたことは国際政治ではめったにありません。だから「解決」という言葉は本当は使わない方がいいのです。ほぼすべての国際問題は「放置」されるか「処理」されます。放置される問題は、問題自体が小さな問題でわざわざ波風を立てるのが馬鹿馬鹿しいか、あまりにも大きな問題でそれに触れると現状を大きく変える以外に処理の方法がないために触れないでおくような問題です。小さな問題の例をわざわざ挙げることはしませんが、大きな例としては、たとえば、アフリカ諸国の国境の画定の問題でしょうか。

 ほとんどの国際問題は、問題として常に関係諸国の間で取り上げられ続けるか、あるいは、運が良ければ「処理」されます。処理されるとは、利害の対立する両者が現状に鑑みて互いに利益・不利益を分け合って、ともに不満がありながら妥協が成立し、その後、いったんその問題が存在しなくなったかのように振舞うようになるということです。つまり、問題はいったん背景に退いたけれど、状況が変化すればまたいずれ現れる状態ということです。これを問題の解決ではなく処理と呼びます。

 重要な国際問題のほとんどすべては処理されるのみで解決されることは稀です。これを肝に銘じる必要があります。その理由は案外簡単で、諸国家の利害が完璧に一致するなどということは古今東西あり得ないからです。「国際政治に答えはない」というセリフの意味は以上のようなことを表しています。ま、人生も一緒だけどね。結局、人間と国家とはひと繋がりなのです。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。


http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html