2019年8月15日木曜日

第115回【紛争のルーツ――植民地主義⑦】

2014年度の総括の講義を続けます。

ところで、冷戦が終了して四半世紀を経た現在、国際社会が直面している最大の問題のひとつが「破綻国家」をどうするかという問題であると思います。植民地から独立を果たした地域が自国だけではどうにもまともな統治を確立できないという問題でもあるのですが、こうした問題は、冷戦時代には、冷凍保存されていたようにあまり表には出てこなかったのです。ところが、冷戦の終了と同時にほぼ解凍されて、今では多くの地域で、あたかも歴史が逆転したかのような様相を見せているのです。こうした「破綻国家」にとってまず第1に必要なものは強い国家そのもので、それの確立を自身ではできないというのが問題なわけです。そこからは極めて非合理的な、つまり、秩序ある社会に生きる我々にはほとんど理解できないような暴力や紛争が噴出しており、まさに人道的な危機が立ち現われています。

現在のこうした「破綻国家」に対する処方箋としては、国連を始めとする、ということは、つまり、先進国や先進国をベースとするNGOなどの外部アクターによる「平和構築活動」が中心となっています。しかしながら、ちょっと考えてみれば分かることですが、この「平和構築活動」とは、19世紀の、人道主義を語る「植民地主義」と極めて似た構造を持つ活動なのではないかと私には思えます。

冷戦後の世界のもう一つの脅威が「新しい戦争」と呼ばれる紛争です。具体的には、破綻国家における内戦やそこから生まれるテロを指すと考えればよいわけですが、これは「新しい野蛮」とも言い換えられるものです。「野蛮」ではあるけれど、そこで使用される武器などは近代的なもので、昔の野蛮とは相当に様相が異なっています。「新しい戦争」と呼ばれるこの戦争は、主権国家同士の従来の戦争とは違って、国家破綻の過程やその結果から生み出される内戦やそうした権力の空白におけるテロ集団の誕生と成長、そして、そのテロが海外で行われる可能性のすべてを指すものです。内戦による難民の流出や国内避難民の問題、そして溢れ出すテロの脅威は、すべてこうした地域に秩序を生み出すべき権力が確立できないことから発生しているわけで、「破綻国家」の問題と根は一緒ということができます。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html




2019年7月30日火曜日

第114回【紛争のルーツ――植民地主義⑥】

2014年度は「紛争のルーツ――植民地主義」をテーマとしてゼミで1年間勉強をしました。年度の終わりに私の総括として「今再びの植民地主義」と題して講義を行いました。その講義を以下にご紹介致します。

今年は「植民地主義」をテーマとしました。なかなか難しいテーマであったと思います。イメージとしては、アジアやアフリカに今もある混乱のルーツが実は、植民地時代の遺産であり、そのルーツと今の紛争を結びつけるというものでした。しかし、ゼミで様々な植民地についての知識を得てみると、植民地から独立をして約半世紀が経ったにもかかわらず、そこにいまだにある紛争というものが、植民地時代に直結するという例は必ずしも多くないかもしれないと感じたかもしれません。

皆さんに課題として与えた本が、最初がラス・カサス(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫)、次が日本の朝鮮統治についてのもの(ジョージ・アキタ『「日本の朝鮮統治」を検証する19101945』草思社)でした。今から振り返ると、この2冊の本は、植民地主義の2つの顔を象徴するものだったのかもしれません。

植民地統治の時代は15世紀から約5世紀続いたわけですが、その様相は必ずしも一様ではありません。概ね、植民地統治には2つの顔があったように思います。すなわち、ラス・カサスの著書に象徴されるような「略奪」の側面と、19世紀以降のイギリスや日本の植民地統治に確かに存在したような「人道主義」の側面です。

どちらにしても、植民地主義とは、先進国が劣った地域を「野蛮」であるとか「非文明的」であるとかの観点から、つまり、上から見下ろしたものであることは間違いがありません。植民地にされた地域は「野蛮」「非文明」「無秩序」とされ、そこに「文明」と「秩序」を与えるのが先進国・文明国の役割とされたわけです。もちろん、こうした人道主義的な言説は「略奪」を覆い隠す言い訳とされた場合もあったと考えられます。

先進国が植民地とした地域の地誌や歴史に詳しかったわけではありません。それ故、そこに「文明」をもたらすどころか、植民地統治が却ってその地域を無秩序にする例があったことは間違いがありません。さらに、その当時の境界線が今も独立後の国境として守られている例が多い故に、多様な紛争の元を絶てないということがあることを考えると、植民地主義の遺産とは確かに現在も継続されていると言わざるを得ません。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html




2019年7月15日月曜日

第113回【紛争のルーツ――植民地主義⑤】

2014年度は、植民地主義と現代の紛争をテーマとしました。

植民地とされた側ではなくて、植民地を持った側をテーマの中心としたゼミ生が何人かいました。なかでもイギリスをテーマとしたゼミ生が複数いました。先にご紹介しました「シエラレオネ」の論文もそのひとつです。また、オーストラリアをテーマとしたゼミ生、香港を取り上げたゼミ生、アイルランド支配を論じたゼミ生もいます。日本の台湾統治をテーマとしたゼミ生もいましたし、オランダの東インド会社を取り上げたゼミ生もいました。

これらの中でも、もっとも現在と接点があるのが「香港」であると思います。

香港は、1997年にイギリスにより中国に返還されました。「永遠」との意味もあるとされる「99年租借」を満了しての返還でした。

イギリスの香港に対する植民地政策は、経済的な成功としては例外的なものですが、政治的な民主化という点では中途半端で、しかし、イギリスの植民地政策としては一般的なものでした。つまり、イギリスは、インドがもっともいい例ですが、撤退前には植民地に「民主化の種」を残すのです。インドはその後、独自に民主化を成し遂げ、現在ではもっとも巨大な民主国家を現実のものとしています。

これに対して香港は、中国との返還交渉が始まるまでは民主化とは無縁で、イギリス人の総督の独裁体制だったのですが、中国への返還が避け難くなって後、イギリスは「民主化の種」を撒き始めます。それを考えると、香港の民主化の歴史はわずかに30年で、しかも、インドとは異なって、民主化を圧倒的な力で押しとどめようとする中国の存在により、制度としては民主化がむしろ後退する可能性が高いのです。

50年間の「一国二制度」が適用されている香港ですが、返還時に民主化が完成された状態ではなかったために、中国共産党の支配下においては、民主化の進展はなかなか難しいというのが実態です。しかしながら、そうであるが故に、イギリス支配の下では、豊かさを享受するのみで民主化などの政治制度にはほとんど関心を持たなかった香港市民が、現在では、真に民主化を求め、さらに進んで、自らが中国人であるのか香港人であるのかというような、アイデンティティの問題を問うようになっています。ゼミ生が指摘していることですが、困難な現状が市民の政治意識に火を点けていることは間違いのないことで、民主制を当然として受け止めて、逆に、政治に無関心となっている日本人が香港から学ぶことは案外多いと言えるのかもしれません。

イギリスの香港支配の評価として、ゼミ生は、経済的には資本主義を根付かせ豊かさをもたらし、政治的にも「民主化の種」を残したという点で高く評価できるとしていますが、「うまく逃げた」との評価もしており、確かに、そうかもしれないと私も思います。イギリスは、今後も、民主化の後退がうかがわれる場面では、それに対する抗議を行うものと思いますが、果たしてどこまで本気か疑われるところです。

植民地を持った側をテーマとしたゼミ生の中には、宗主国が植民地において行った教育について論じた者もいました。このゼミ生は、フランスの西アフリカにおける教育政策を中心として、イギリスにおけるインド、アメリカにおけるフィリピン、オランダにおけるインドネシア、スペインにおけるパナマでの教育政策を比較して、宗主国の植民地に対する教育政策を考察しました。

宗主国各国の教育政策は、各国の国内事情や国民性によって大きく異なっていることが分かるのですが、共通して言えることは、植民地時代の教育が、現地の言語や生活習慣、宗教などに巨大な影響を及ぼし続けているということです。簡単な例をあげますと、南米でもアフリカでもスペイン語やフランス語が公用語となっていますし、キリスト教が今でも大きな影響を社会生活に及ぼしています。

ただ、皮肉なことに、こうした教育の影響は、人々の独立の意思をも生み出しました。教育とは面白いもので、それが成功すればするほど、教育を受けた人間はより広い世界を求めるようになり、教育する側の手を離れて、思いもよらない方向へと走り出し成長していくのです。宗主国は、意図せず、植民地支配を通じて現地の人々に独立心を植え付け、教育を通じてそれに水をやり続けていたと言えるのかもしれません。

次回より、2014年度の私の総括の講義を再録致します。

 ※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html




2019年7月1日月曜日

第112回【紛争のルーツ――植民地主義④】

アフリカを対象に論文を書いたもうひとりのゼミ生は、エリトリアを取り上げました。

エリトリアは、日本ではほとんど話題になることのない国です。しかし、地中海を小さな船で渡ろうとする難民にエリトリア人が多く含まれていることが知られています。難民の多くが紛争や内戦の結果祖国を後にするのに対して、エリトリアにおいては、国の独裁体制と貧困が国民、特に、若者を難民として海外に押し出してしまっています。

エリトリアは、もともとはイタリアの植民地、第2次大戦途中からイギリスがこれを引き継ぎ、戦後はエチオピアに合邦されました。1993年にエチオピアからの独立を果たしますが、2001年のエチオピアとの国境紛争以来、独裁体制と孤立主義が顕著になり、「アフリカの北朝鮮」とまで言われるようになっています。ゼミ生は、現在のこうしたエリトリアの独裁体制が植民地経験の影響と言えるかどうかを論文で考察し、植民地時代のトラウマは確かに存在しているとしています。

ゼミでも議論を戦わせましたが、私にはどうにもそうは思われませんでした。アフリカの経験した植民地経験は、確かに、広く深く現在まで影響を残していることは確かです。民族・部族の存在をおよそ無視した国境線は今でも紛争の種となっています。しかし、独裁的な政治体制やその政権の腐敗の多くは、アフリカ自身の責任であると私は思います。先進国にもアフリカにも、あらゆることを植民地時代の悪影響のように言う人がいますが、本当でしょうか。むしろ、そうした議論は、アフリカの人々をどこか馬鹿にしていると言えないでしょうか。また、自分たちの腐敗堕落をいまだに植民地時代のヨーロッパ諸国の責任とすることは、それ自体、さらなる精神の腐敗堕落を招くと言えるのではないでしょうか。
2014年度は、現在の国際紛争のルーツの多くが植民地時代の負の遺産にあるとの仮説でテーマを選び、議論をしたのですが、エリトリアの現状が植民地時代の直接的な影響を受けていると私には思われませんでした。

アフリカの他に、カリブ海の島国セント・クリストファー・ネービスをテーマとしたゼミ生もいましたが、東南アジアをテーマとしたゼミ生が案外多くいました。インドネシア、東ティモール、マレーシアに加えて、植民地にならなかった例としてタイを取り上げたゼミ生がいました。

タイは、日本と同様に、アジアで植民地にならなかった例外的な国です。最近即位したラーマ10世の直接の祖先であるラーマ4世・5世の時代のことです。

インドを植民地とし、さらに、ビルマを植民地化したイギリスが西からタイに進出しようとしました。また、東側では、ベトナム、ラオス、カンボジアを植民地化したフランスがタイに迫っていました。こうした状況において、東南アジアの真ん中に位置するタイは、ヨーロッパの植民地大国の、いわば、緩衝地帯となったのです。もちろん、ラーマ4世・5世を先頭にしての、タイの巧みな外交と国内における近代化政策も見逃すわけにはいきません。

このように考えてみると、タイの置かれた状況は、案外、日本の状況に似ていたように思えます。薩長の背後にはイギリスが控え、フランスが幕府を支援する。大きな内戦なしに維新を実現し、その後は一気に近代化に走る。地理的にも、日本は海に囲まれ介入のし難い環境でした。

植民地にされなかった地域自体の、あるいは、それが置かれた状況の特色を一般化することは困難です。しかしながら、その地域の、巧みな外交の存在と、国内における近代化政策の成否は鍵であると思います。ヨーロッパの大国の多様な要求をのらりくらりとかわしながら、ヨーロッパ型の国家作りをスタートさせ、大国の介入をできるだけ避ける。それがタイの成功の要因であったことは間違いありません。インド以西のほとんどすべての地域がこれに成功せず、タイのみがこれを実現したことは極めて印象的なことでした。


次回以降も、ゼミ生の論文のご紹介を続けます。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年6月16日日曜日

第111回【紛争のルーツ――植民地主義③】

植民地と言って、まず思い浮かべるのは何でしょうか。植民地にされた地域でしょうか、あるいは、植民地を持った国々でしょうか。あるいはまた、そうしたこととは異なった多様な事象のうちの何かでしょうか。

私は、ゼミのテーマを、植民地主義と現代の紛争を結びつけて理解していましたので、てっきり中東やアフリカがゼミ生の関心の主要なものとなるはずだと思っていたのですが、その当ては見事に外れました。中東をテーマとしたゼミ生は、前回ご紹介しました通り2人でしたし、今回ご紹介致しますアフリカをテーマとしたゼミ生も2人でした。

アフリカをテーマとしたゼミ生のひとりはシエラレオネをテーマとして取り上げました。日本ではあまり知られていない西アフリカの小国です。少し前ですが、ディカプリオ主演の映画「ブラッド・ダイヤモンド」で、ダイヤモンドをめぐる紛争の舞台となったのがシエラレオネと隣国リベリアでした。これにつきましては、「少年兵」の話題でも触れたところです(107)。

シエラレオネの首都はフリータウンと言いますが、この名称には味わうべきものがあります。つまり、シエラレオネは、アフリカからヨーロッパ諸国によってアメリカ大陸やカリブ海に奴隷として連れて行かれた黒人たちをイギリスがシオラレオネに連れ戻し、彼らを自由にするとしてイギリスが植民地にしたところだからです。ゼミ生はこの経緯を論文としました。

私は昔から、なぜイギリスが奴隷貿易から早々に撤退し、それだけでなく、他国に奴隷貿易をやめるように圧力をかけるようになったのかに興味を持っていました。ちなみに、奴隷貿易を最後まで行っていた国はポルトガルですが、そのポルトガルが奴隷貿易を完全にやめたのは第1次大戦後だったのです。ほんの100年前のことです。

ヨーロッパ諸国は、自国とアフリカ、アメリカ大陸の3者を三角貿易で結びつけることで大きな収益を上げていました。自国から工業製品をアフリカに運び、黒人奴隷と交換し、彼らをアメリカ・カリブに運び、プランテーションで働かせ、そこで生まれる収益を獲得してきたわけです。随分とダイナミックで、野蛮な商売だったように思います。そこでの主体は実は民間の商人たちで、その商人たちは国家からの認可を受けていたのでした。シオラレオネにおいては、シオラレオネ会社がその元締めです。

イギリスがシエラレオネを植民地化したのは、奴隷貿易が利益を生みにくくなり、また、本国において黒人の存在が様々な社会問題を引き起こすようになってからです。つまり、植民地化が奴隷貿易を生んだのではなく、奴隷貿易の行き詰まりを植民地化で打開しようとしたと理解できます。

非常に興味深いことですが、イギリスはアメリカにおける独立戦争を戦っている時に、イギリス軍において戦う黒人に対して、戦後自由を与えるという約束をしています(「ダンモア宣言」)。アメリカ南部においては、多くの黒人奴隷が脱走しイギリス軍のもとに逃げ込んでいます。その一部は戦後、イギリスに渡り、そこで貧民となり大きな社会問題を引き起こします。参戦した黒人奴隷の多くは本物の自由を得られませんでした。このイギリスの黒人に対する約束は、中東における二枚舌・三枚舌(110を参照下さい)に通ずるものがあります。

こうして持て余すようになった黒人たちを、再び、自由を与えるというスローガンの下に、シオラレオネに移送するためにイギリスはシオラレオネを植民地化します。ゼミ生も指摘していますが、持て余した犯罪受刑者をオーストラリアに追放したのと同じように、社会の最底辺にうごめく元奴隷の黒人たちをシオラレオネに追放したかのように見えます。

イギリスは、このようにして、シエラレオネに、解放された奴隷を移住させ、自由の国を作るとしたわけですが、ゼミ生によると、その実態はそれまでの奴隷貿易とさほど変わらないものであったといいます。すなわち、解放した奴隷を再び労働者の確保に利用していたのです。形が変わっただけで、実態はそれほど違うものではありませんでした。

シエラレオネは1961年に独立を果たしますが、その後も内戦などの紛争が絶えませんでした。しかし、ゼミ生の指摘の通り、独立後の紛争とイギリスの植民地支配の影響との関係は深くないように見えます。イギリスの植民地支配に多くの問題があったことは事実ですが、独立後のシエラレオネの紛争はむしろ政権の腐敗やダイヤモンドといった資源をめぐるものだったり、リベリアのような隣国との関係によるものであったということができます。

私にとって非常に興味深かったのは、イギリスのシオラレオネをめぐる政策が、他の地域における政策と非常に似通っているという事実でした。考えてみれば、イギリスという同じ国の政策がある傾向を持っているということは当たり前のことかもしれませんが、シオラレオネにおける政策と第1次大戦時の中東における政策やオーストラリアにおける政策が共通点を持っていることには意外性がありました。

もう一人のゼミ生はエリトリアを取り上げたのですが、これについては次回ご紹介致します。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html


2019年5月30日木曜日

第110回【紛争のルーツ――植民地主義②】

2014年度のテーマ「紛争のルーツ――植民地主義」は、時代・地域など広大な背景を含んだテーマで、私としてはどこかにテーマを絞りたいと思ったのですが、学生の関心を中心に据えて考えてみると、そうもいかないというのが実際でした。

ゼミ生はテーマに惹かれてゼミを選択してやって来るのですが、テーマの間口が広ければ広いほど多様な関心を持ったゼミ生が集まります。何年か前には、ゼミに入ってから「柴田ゼミならアフリカの勉強ができると思った」と告白したゼミ生がいました。研究領域として私はアフリカとは無縁ですが、その学生は2年続けて私の設定したテーマの中でアフリカをテーマとして取り上げてゼミ論を執筆しました。学生たちの間でどのような「噂」が飛び交っているか分かりませんが、柴田ゼミが相当に自由なことは確かでした。

というわけで、2014年度に集まったゼミ生の関心もかなり拡散気味で、私はそれを無理に絞ることを結局はしませんでした。その結果、実に多様なゼミ論が提出されることとなりました。以下、ゼミ生の論文をご紹介致します。

21世紀に入って、「紛争、テロ、植民地時代の歴史」というキーワードから連想する地域は、まず第1に中東であると思います。2014年度は、3年生・4年生を合わせて14名がゼミに所属していましたが、中東をテーマとしたゼミ生はわずかに2人でした。私は、実は、半分くらいのゼミ生が中東をテーマとして様々な地域、時代を掘り下げてくれるのではないかと期待していました。学生の関心というのは読めないものです。

2人のうちのひとりは、紛争が現在進行中のシリアを取り上げ、現在のシリアの紛争を第1次大戦後の体制の継続として論じました。イスラム国(IS、あるいは、ISIS)は、第1次大戦中に結ばれた「サイクス・ピコ協定」の撤廃を繰り返し求めていますが、このゼミ生は、第1次大戦中の「フサイン・マクマホン書簡」と「サイクス・ピコ協定」から「バルフォア宣言」に至るまでのイギリスとフランスの外交的失敗よりは、大戦後のこの地域のフランスによる委任統治にこそ現在の紛争の淵源があると論じています。

これらの一連の協定・宣言は、第1次大戦でドイツと組んだオスマントルコをいわば内部から攻撃するためのイギリスの苦しい努力の結果で、アラブ人には、戦後の独立を約束し(フサイン・マクマホン書簡)、英仏の間では、戦後のこの地域の分割を決め(サイクス・ピコ協定)、さらに、ユダヤ人にはパレスチナにおける独立国家の樹立を支持する(バルフォア宣言)というものでした。このイギリス外交は、現在に至るまで二枚舌、三枚舌と批判されるものです。

シリアはサイクス・ピコ協定においてフランスの勢力圏として位置づけられ、実際に戦後、フランスの委任統治下に入ることとなりました。フランスの委任統治は、イギリスの植民地統治がそうであったように、植民地における民族や宗教の分裂や対立を利用したものでした。シリアにおいては、イスラム教の宗派であるスンニ派とアラウィ―派を対立させそれを煽り、それを利用して統治を行いました。この時以来醸成された宗派対立が現在のシリア内戦に直接繋がっているわけで、このゼミ生は「シリアは今も第1次大戦を戦っている」と表現しています。

この紛争の解決は簡単にはいかないわけですが、オスマン帝国時代の「ミレット」と呼ばれる自治制度がヒントになるとゼミ生は指摘します。オスマン帝国時代には、各民族、各宗派が相互に相手の存在を認め、平和に共存していたと言われますが、第1次大戦終結から100年を経て、そのような過去のアイディアが果たしてどのように実現可能であるのか、難しい問題と言わざるを得ません。

もう一人のゼミ生は、ストレートに「イスラム国とは何か」をテーマとして取り上げました。イスラム国が最終目的とするサイクス・ピコ体制の破壊、すなわち、イギリスとフランスによってイスラム世界に勝手に引かれた国境線を廃し、一つのイスラム国家に統合しようというアイディアは、多くのイスラム教徒に訴えかけるものがあります。しかし、イスラム国の現に行使している手段は到底受け入れられるものではないとゼミ生は論じます。

私は思うのですが、国民国家とは捉え難いものではありますが、その持つ求心力には侮りがたいものがあります。それがいかに不完全なものであるとしても、国民国家として半世紀以上を過ごしたイスラム諸国は、「ひとつのイスラム」という大義に魅せられ続けながらも、国民国家を脱して、統合の道を歩むことができるかと言えば、私は徹底的に悲観的にならざるを得ません。


現在、ヨーロッパにおいてEUは揺らいでいますが、イスラム諸国は、ヨーロッパ諸国が持つ大義以上に大きな大義こそあれ、そのEUにもまったく及ばない分裂の状態で漂っています。オスマン帝国のミレットもそうですが、私には、過去にはヒントこそあれ、答えはないように思えます。『ウェストファリアは終わらない』でも論じましたが、主権国民国家諸国の平和共存を模索する以外に方策はないのではないかと思いますが、確かに、それは簡単なことではないのです。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年5月20日月曜日

第109回【紛争のルーツ――植民地主義①】

2014年度、柴田ゼミでは「植民地主義」をテーマとしました。

今更という感じもしなくはないのですが、世界の紛争の多くの淵源が今も植民地時代の様々な出来事に求められることから、紛争の現代的な表面だけでなく、歴史を遡る必要を常々痛感してきました。2014年度は、そうした問題意識から「紛争のルーツ――植民地主義」と題してゼミを行いました。以下、2014年度のご報告を致します。

ゼミ生には、以下のように、私の問題意識を伝えました。

世界では日々紛争が起きています。それが武器を用いた軍事的な紛争や戦争に発展することもありますが、現代では、国家間の戦争よりも国内の内戦の方が深刻な問題となっています。テロも同様に問題ですが、これも国家間の問題というよりは、ある意味、国内問題という感じもします。むしろ、「国家間」とか、「国内」という表現よりは、「国境を超えた問題」というのが一番正解に近いのかもしれません。

紛争が起きると、その原因について様々な解説がなされます。それらを見ていると、そもそもの紛争の原点が、過去を遡って、ヨーロッパ諸国の植民地主義にたどり着くことが珍しくありません。いかにも21世紀型の紛争のように見えて、実は、そのルーツは20世紀以前にあるという例がよくあるわけです。私たちは依然として20世紀よりも前の時代の延長線上に生きているのではないでしょうか。

私たちの生まれ生きる日本は、幸い、植民地にされる経験をしませんでした。アジア・アフリカ諸国で唯一植民地にならなかった国と言っていいと思います。ですから、「植民地となる」ということがどういうことであるのかということについて、幸いなことに、私たちは骨身に沁みては知らないことになります。

よく、ある国は昔どこそこの(ヨーロッパ諸国のどこか)植民地だった、というようなことを言います。たとえば、シンガポールは昔イギリスの植民地だったことは多くの人が知っています。しかし、それは本当でしょうか。もちろん、間違いではないのですが、話はそんなに単純でしょうか。実は、シンガポールはそもそもはオランダの植民地だったのです。そのオランダがナポレオン戦争で敗れて独立を失った時に、植民地の管理をイギリスに委ねたのです。独立を回復したら返還するという条件付きで。長い時間が掛りましたが、イギリスを始めとする諸国がナポレオンのフランスに勝利したのが1815年、その講和の条件を話し合ったのがウィーン会議でした。約束通りイギリスがオランダに植民地を返還したかと言えば、そうはいきません。イギリスの世界支配にとって重要と思われる場所は結局返還されずイギリスの植民地となったのでした。オランダはすでに落ち目だったのでこれを飲まざるを得ませんでした。だから、シンガポールが単純にイギリスの植民地だったと考えるのは、たぶん、間違っているのです。オランダ時代の影響も残っているに違いない、と考えなければならないと思います。

要するに、私たちは、植民地主義がヨーロッパ以外の地域にどのような影響を与え、今も与え続けているかについて無知なわけです。これで世界中で起きている紛争が真に理解できるわけがありません。まずは、ヨーロッパ諸国の植民地主義がいかなるもので、他の地域にいかなる影響を及ぼしたかについて勉強してみようと思います。

植民地主義の実態とその影響という、2014年度の柴田ゼミのプロジェクトは、どう考えても複雑で膨大になる可能性があります。それらをどう整理してゼミで勉強できるように加工するか(すなわち、どこを取りどこを捨てるか、つまり、いかに絞るか)が私の腕の見せ所となるのですが、もしかしたら、このプロジェクトは1年間のゼミとしては野心的過ぎるかもしれません。


ヨーロッパ以外の地域のすべてがヨーロッパ諸国の植民地になったわけですし(考えてみれば、これは凄い話です)、その歴史はコロンブスの時代にまで遡ります。これを勉強するのはなかなか大変なことです。時代を区切るか、地域を区切るか、様々な方法があると思います。2014年度のゼミの準備のために、私は、でっかい世界地図を買いました。これに這いつくばって色々の地域を見ながら、どうしようか考えようと思っています。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html