2019年11月30日土曜日

第122回【戦争に負けるとはどういうことか⑥】

大学生になると、高校までとは違って、こちらがまるで知らないことを勉強しだすという場合があります。柴田ゼミにおいても、私の予想外の、私がほとんど知らない地域や事象や人々をテーマに取り上げるゼミ生が何度も出てきました。これがゼミの楽しみのひとつです。

2015年度は「戦争に負けるとはどういうことか」というテーマで勉強をしましたが、意外性のあるテーマを取り上げたゼミ生が2人いました。偶然にもこの2人はニュージーランドの高校を卒業していました。ニュージーランドでの2人の繋がりはまったくなく、柴田ゼミで出会ったのは偶然だったのですが、あまり知られていない対象をテーマとして選んだのは偶然ではないように私には感じられました。学生はやはり多様な経験をすべきであると思います。

さて、ひとりは、リトアニアをテーマに取り上げました。
リトアニアは、第1次大戦後、ラトビア、エストニアとともに独立を果たしました。しかし、第2次大戦中にソ連に占領され、そのままソ連国家に編入されてしまいました。この背景には、独ソの密約が存在していました。

リトアニアは、ソ連編入に際して、事実上、戦うことをしませんでした。もちろん、戦ったとて詮無い事であったことは事実であると思います。戦いそれ自体の悲惨を避けたことはもしかしたら賢明だったのかもしれません。しかし、戦わなかったことは、もしかしたら、敗戦後に大きな影響があったのかもしれません。それは、ここで詳しくは論じられませんが、この時期に祖国のために徹底的にソ連と戦ったフィンランドの戦後との比較が有効であるように思います。

ソ連編入後、リトアニアは、ゼミ生によれば、ジェノサイドと言っていいようなソ連による過酷な支配を受けることになります。知識人や指導的立場にある人々の虐殺や収容所への移送、地下のパルチザン闘争への支援者たちのシベリアへの強制移住、さらに、ロシア語の強要や歴史・文化の否定。ソ連支配の下で、ゼミ生によれば、リトアニア国民のアイデンティティは完全に崩壊したと言います。もちろん、冷戦終結直後に目にしたように、リトアニア人のアイデンティティは、それでもなお脈々と受け継がれて、ソ連崩壊を前に独立を宣言し、むしろソ連の崩壊に棹差して一矢報いた感がありました。

実は、私はワルシャワ大学で教えている時に、バルト3国を訪問して各国のスカンセン(野外博物館、日本人にはイメージが湧きにくいものですが)を見学しました。スカンセンではそれぞれの民族の歴史的な建物や道具、つまり、長い歴史に渡る生活そのものが展示されているのですが、バルト諸国の展示は非常に印象的でした。つまり、ソ連による文化の徹底した破壊の中で、それらの教会や家や道具などを何とか保存して後世に伝えようと試みていたのです。ソ連支配下では、同じ展示でも「祖先は(今のソ連支配下の文化的な生活に比べて)このような貧しい生活をしていました」という解説文を付けていたということですが、独立後には「私たちの祖先はこのような豊かな文化を持っていたのだ」という解説に付け替えたということでした。涙なくしては見られない展示だったのを覚えています。

戦わずして他国の支配を受けることがいかに過酷であるかをリトアニアの例は示しているように思います。がしかし、それでは徹底的に戦えばいいかと言えば、必ずしもそうでない例をもうひとりのゼミ生が示してくれました。

もうひとりのゼミ生は、19世紀半ばの3国同盟戦争(または、パラグアイ戦争)後のパラグアイをテーマに取り上げました。パラグアイのこと、まして、150年も前の南米の戦争のことを知っている日本人が果たしてどれくらいいるでしょうか。

19世紀の半ば、ここではその経緯には触れませんが、南米の内陸国パラグアイは、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3国同盟と血で血を洗う戦争をしました。少なく見積もっても人口の半分が死亡したと言われています。特に、成人男子のほとんどがこの戦争によって死にました。つまり、パラグアイの戦後は、男性のいない戦後となったのです。戦後のパラグアイの男女比は15になったと言われています。
ゼミ生は、戦後のこの特別な状況がいかにパラグアイ社会の女性差別へとつながっていったかを論じました。非常に興味深い視点であると思います。

スペインによって植民地化された南米地域では、そもそも男尊女卑の弊が存在していました。それをマチスモ・マリアニスモ思想と言ったりすることがありますが、それはつまり、女性に対する男性の肉体的優位を絶対とし、女性には家庭内での良妻賢母を強いる思想と言うことができます。

戦争によってほとんどの成人男性がいなくなることによって、こうしたマチスモ・マリアニスモ思想は極端なまでに高められ強められました。男性が言わば「貴重品」となったためです。それにより男女差別が極限まで高まったのです。こうした差別は現代においてもなお、緩められたとはいえ、継続されているとゼミ生は論じます。敗戦の影響としては、もしかしたら非常に特異なものかもしれませんが、見逃せない重要な視点であると思います。

敗戦のより実質的な影響としては、アルゼンチンやブラジルに対する領土の割譲、河川の使用の制限、さらにイギリスの経済への介入の開始があげられます。パラグアイは、これより前、南米ではもっとも豊かで自立した経済を確立していて、唯一イギリスの介入を受けていない国家でした。アルゼンチン・ブラジルの背景で戦時にこれらの国を援助したイギリスは戦後、ついにパラグアイに介入するチャンスを得たのです。

パラグアイが正常と言える人口構成を取り戻すのに約半世紀を要したと言われています。戦争は、どうやら戦っても戦わなくても、戦いの中で、そして、戦いの後に、大きな負の遺産を残すようです。これらを最小限にするためには、仮に戦争が避けられないにしても、賢明な外交が必要になります。私は、要するに、勝負は外交にあるのだと確信しています。

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2019年11月17日日曜日

第121回【戦争に負けるとはどういうことか⑤】

ベトナム戦争の敗者は、確かに、アメリカでした。ベトナム後のアメリカをテーマとしたゼミ生がいました。

ベトナムでの敗戦はアメリカ社会に大きな影響を及ぼしました。ゼミ生は帰還兵に焦点を当てて論文を書きました。このゼミ生は高校時代に1年間アメリカに留学した経験があり、その時のホストファミリーのお父さんがベトナムからの帰還兵で、それに加えて、お父さんの友人の帰還兵からも話を聞き取りました。

ベトナム戦争後のアメリカ社会はベトナムでの戦争を間違った戦争と捉え直し、また、それに参戦していた兵士を非道徳な存在として排斥しました。ベトナム戦争はテレビカメラが戦場に入った最初の戦争で、アメリカ国民はその戦場の実態に強い拒絶反応を示しました。

その端的な表れが反戦運動でした。

こうした雰囲気は戦争から帰還した兵士たちへの反発と排斥という形で現れました。映画「ランボー」で描かれたのはこうしたアメリカの実態でした。ホストファミリーのお父さんは空軍に所属してベトナムのジャングルに枯葉剤などを撒いたりしていたことで、帰還後、様々な嫌がらせを職場や地域社会で受けたといいます。果ては、職を失い、再就職もままならず、田舎に引っ越し牧場を開いたということです。

また、その友人は海兵隊の兵士で、帰国後PTSDになり、これもまた職を失ったものの、戦場で最前線にいたことが同情を呼び、周囲の援助で農園を経営するようになったということです。PTSDの克服には非常に長い年月を要したといいます。

アメリカは、歴史上初めての敗戦をなかなか受け入れることができなかったせいか、この戦争からの帰還兵に極めて冷たく当たりました。それ以上にむしろ、彼らを自分たちの社会から排斥する雰囲気もあったのです。敗戦の影響は社会全体に渡ったことは間違いありませんが、最大のしわ寄せは個々の帰還兵に向かいました。

中国残留孤児の場合もそうでしたが、戦争と敗戦は末端の個人の人生と幸福に大きな負の影響を与えます。このゼミ生は、自分の知り合いとはいえ、具体的な個人にアプローチすることでテーマを自分のものとすることができました。

この他にも、様々な地域・国の戦後がゼミ生によって取り上げられました。4次にわたる中東戦争とその敗者エジプト、アヘン戦争後の中国、イギリスの支配を受けていたアイルランドなどです。

次回は、日本ではあまり知られていない戦争をそれぞれ取り上げた2人のゼミ生の論文をご紹介致します。

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