2017年12月30日土曜日

第77回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑰】

3に、核兵器は「勲章」であると言えます。
核兵器を持つようになった国家、政府は核兵器を国民に対する権威付けの道具として利用する場合があります。国際的な反発をはねつけて核兵器を持つようになった政府の、国民に対する権威が上がるわけです。「旗」も「勲章」もどちらかと言えば、内向きの核兵器の効用ということができます。核兵器は単なる武器ではなく、政治的な道具でもあるのです。
4に、これも内向きの機能ですが、核兵器は「餌」であると言えます。
どんな軍部でもそうですが、軍隊というものは核兵器に限らず一般に最新鋭の兵器をほしがるものです。核兵器の保有は多様な意味を持つので単純にそれを欲しがる軍隊ばかりとは言えませんが、それでも、最強の兵器を欲しがらない軍隊があるわけがありません。今の日本ではちょっと考えられないですが(戦前は一般的な課題だったのですが)、政府と軍の関係というのは案外微妙で、最新鋭の兵器の開発が軍部を手なずけるための道具として用いられることは珍しいことではありません。核兵器についても同じことが言えます。

5に、核兵器は「ドレス」であると言えます。
「旗」も「勲章」も「餌」もみな国内向きの機能だったわけですが、北朝鮮に顕著なように、核兵器を他国に対する権力の誇示として使う場合があります。これは対外向けの機能と言えます。確かに、核兵器の威力は大きく、その被害は想像を超えるものなので、それを恐怖して妥協する国家があっても不思議ではありません。しかし、核兵器が使えない兵器であることを考えると、なぜそのような兵器を怖がらねばならないのか私には理解できません。これは後でもう一度議論します。

6に、これも対外向けの機能となりますが、核兵器は「カード」であると言えます。
他国との外交交渉のための道具に核兵器を使うわけです。ただ、これはこれまでの世界ではあまり一般的ではありませんでした。これまた北朝鮮が典型的ですが、核兵器の使用を脅しとするのではなく、核兵器の存在や開発そのものをやめることを条件として外交交渉に臨む国家が出現しつつあります。たとえば、リビアは核兵器の開発を止めることで国際社会における孤立から脱却しました(北朝鮮は、その結果、カダフィのリビアが倒されたと理解しているようですが)。見ようによっては、北朝鮮もこれと似たようなことをしているように見えなくもありません。


私たちが問わなければならない最大の問いは以下のようなものだと思います。

「核兵器は実際に使用できるか?」

国益という言葉があります。核兵器を実際に使用して実現する国益とは何でしょうか。核兵器を実際に使用して、つまり、数十万、数百万の人間の命を奪ってまで実現しなければならない政治的目的とは何でしょうか。私はこれについてずいぶん考えましたが、そんなものはないと思います。仮に、核兵器を使用して何かある目的を達成したとしても、核兵器の使用による被害とその道義的マイナスでその目的は台なしになるというのが真実ではないでしょうか。

核兵器が実際には使用できない兵器であるとすると、その存在の意味・目的とは何でしょうか。核兵器の存在の唯一の意味とは、核兵器が存在する限り、つまり、永遠に、核戦争を抑止することです。これが核兵器の逆説で、核兵器を持つことの唯一の意味は、核兵器を使わせない、使わない(つまり「抑止」すること)ことなのです。今では、その点に少し不安を感じないわけにはいかないのですが、核兵器を保有するすべての国が、以上の核兵器という兵器の存在の持つ意味を理解していなくてはなりません。特に、「抑止」という考え方の持つ意味は重大であると言えます。なぜなら、抑止こそが核兵器が存在する唯一の意味だからです。「抑止」は単純な概念ではありません。それに伴う発想、政策は多くの矛盾を含みます。こうしたグレーゾーンで生き抜く知性なき国家が核兵器を持つことこそが人類最大の脅威なのです。

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2017年12月16日土曜日

第76回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑯】

さて、そもそも核兵器とは何でしょうか。核兵器とは、もちろん、兵器なわけですが、他の兵器とは比較にならない破壊力を持っているために、単なる兵器ではなく、多様な側面を持つ兵器以上の何物かになってしまっています。

まず第1に、核兵器は、当然ながら、「武器」です。

武器は、一般に、攻撃、防御、強要、抑止の4つの機能を持っています。攻撃と防御は、実際に使用する場合の2側面という理解ができます。ただ、何が攻撃で何が防御かということはそれほど易しい問題ではありません。すべての戦争は防衛を理由にして始まることを考えてもそれは分かります。
それに対して、強要と抑止は、実際には武器を使用せず、武器の使用の脅しによって相手に影響力を及ぼそうとするものです。強要と抑止の違いは次のようなことです。強要とは、武器の使用の脅しによって、敵側に、そうしなければやらないであろうことをやらせる、すなわち、do somethingを強制することです。これに対して、抑止とは、放っておいたら敵側がやるかもしれないことを、武器の使用の脅しによってやらせない、つまり、do nothingを強制することです。

武器はこのように、使用することで、あるいは、使用するとの脅しによって4つの機能を果たすわけです。ただ、抑止については、この機能を検証することが困難です。すなわち、「動くな」と命令して相手が動かない、というのが抑止であるということができますが、相手にそもそも動く気がなければ、相手が動かないという事実は、抑止によってもたらされているのか、それと関係なく単に相手が動かないでいるだけなのかは区別がつきません。抑止とは、それが働いているかどうかを確かめにくい機能なのです。核兵器の抑止の場合にも同じことが言えます。

これまでの核兵器の歴史によって、核兵器は抑止にしか使用できない武器である、と核兵器保有国は信ずるようになりました。アメリカは広島・長崎への核兵器の投下の後にその被害について徹底的に調査しましたが、その結論は、核兵器は実際には使用できない、ということだったと言われています。核兵器が製造・使用された当初のこの結論は、今も有効であると考えられます。ただ、アメリカを始めとする核保有国は、自国が保有する核兵器によって相手国よりも常に優位に立とうとしていますから、抑止を超えた核兵器の使用を模索してきました。すなわち、実践で使える核兵器の開発が常に行われてきました。

一般に方向としては、開発は核兵器の小型化と正確化に向かいました。核兵器が使えない兵器であることの最大の理由は、威力が大きすぎるために目的(戦争によって実現しようとする国益)と手段(核兵器の使用)の釣り合いがとれないということです。これを核兵器の小型化によって埋めようというわけですが、ならば、通常兵器で十分で、なにも核兵器をわざわざ用いる理由はないということになります。また、戦争の際の法的義務の最大のものは非戦闘員と戦闘員の区別ですが、核兵器を軍事的ターゲットに正確に打ち込むことで非戦闘員の被害を最小限にしようというのが、正確性を求める開発ということになります。

武器としての核兵器は以上のように
、使えない兵器であるとの暗黙の合意の下で、使える兵器を模索するという歴史を歩んできました。今後も、核兵器の開発は、それを保有する以上続いていくものと思います。愚かなことですが。

2に、核兵器は「旗」であると言えます。これは国によって相当に異なるような気もしますが、たとえば、パキスタンにおいて、また北朝鮮において顕著であるように、核兵器が国民の統合の象徴となる場合があります。自国が最強の武器を手にしたこと、最先端の科学的成果をあげたことが国民の統合を促すのです。こうした国威発揚を必要とする国家が依然として現在の世界では多数派であるということができます。

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2017年11月30日木曜日

第75回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑮】

2011年度のテーマは「彼らはなぜ核兵器を持つか」でした。
年度末に、恒例の総括の講義を行いました。題して「舐め切る!政治学」。その内容を、これから再録致しますが、これは、2011年にした講義で、わずか56年で、核兵器を取り巻く環境がこれほどまでに変化するとは想像もしませんでした。引き返すことはまだ可能にも思えますが、それには相当の犠牲を払わなければなりません。
まずは、2011年の講義をそのままお伝えし、後ほど、現在の視点で補足を致します。


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年間、核兵器とは何か、なぜ核保有国は核兵器を保有し続けるのか、日本は核兵器を持つべきかを考えました。核兵器とは何かということは昔から考えてきたことだったので、それに付け加えるものは何ひとつなかったのですが、考えてみれば、たとえば、イギリスがなぜ核を保有しているのか、というようなことを真剣に考えてみることはなかったように思います。また、日本が核兵器を持つべきか否かということも、実は、自分の中で確固たる結論を出してこなかったように思います。これを機会にそれに答えを出せたのは非常によかったと考えています。

私たちは今、核時代を生きています。核兵器と原子力発電の時代です。原子力発電についてはよくわかりませんが、少なくとも核兵器については、これを完全に凌駕する威力の兵器が生まれない限り、私たちは核時代を生き続けることになります。核時代が終わる見通しは今のところありません。ゼロです。

核時代に生きる前提は、核兵器というものをなくすことはできないということです。これを見誤ってはいけません。核廃絶を猛烈に主張する人たちがいますが、彼らは本気で核兵器がなくなるとでも考えているのでしょうか。人類が核兵器のノウハウを知ってしまった以上、それをなくすことはできません。いかにそれがなかった昔が懐かしくても、私たちは昔に戻ることはできないのです。核兵器はなくならないということを肝に銘じて核兵器の問題を考え続けなくてはなりません。

それ故、核時代の最大の課題は、核兵器をなくすことではなく、いかにして核兵器が使われない状態を保つかということにならざるを得ません。この課題は永遠に続くものなので、いかにうまく対処しても、達成感が得られる可能性はないと言えます。それでもなお「虚しい」と思わずに課題に対処し続けることが要求されるわけで、これは誰にでもできる仕事ではないと私は思います。言い換えると、いかにそれに反発する人がいるとしても、核時代における最大の課題は「核兵器との共存」ということにならざるを得ません。私たちは、核兵器と共存し続けることができるでしょうか。

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2017年11月17日金曜日

第74回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑭】

イスラエルは、核兵器の保有を認めていませんが、否定もしていません。核については「あいまい戦略」を取っています。アラブ諸国のすべてがNPTに加盟しており、国際的な核管理体制の下にありますが、イスラエルは、周辺国が核兵器を獲得することを非常に恐れています。アラブ諸国が核兵器を持っていないことを考えると、イスラエルの核兵器は抑止を目的としたものではないと考えられます。それではなぜ、イスラエルは核兵器を保有しているのでしょうか。ちなみに、イスラエルは200発の核弾頭を保有しているとされています。これはイギリスやフランスに匹敵する数字です。

イスラエルを取り上げたゼミ生はひとりでしたが、イスラエルの核保有の意図について、かなり頭を痛めたようです。
抑止が目的でないとすれば、そして、アラブ諸国が核兵器を保有していない以上、当然抑止ということはあり得ないのですが、ならばイスラエルの核兵器はどこに向けたものなのでしょうか。ゼミ生の説は、それはアメリカに向けられたものだというものです。私は、これは妥当な説であると思いました。

イスラエルとアメリカは極めて緊密な同盟国であると一般には考えられています。また、アメリカ国内には有力なユダヤ人グループが多様に存在していて、常にイスラエルを陰に日向に援助しています。しかし、中東でのアメリカの国益は非常に複雑に絡み合っていて、どんな時にも一方的にイスラエルを支持し続けるわけにはいきません。最近のシリアの内戦やISによるテロとの戦いやサウジアラビアやイランとの関係を考えてみても、利害の絡まり具合は半端でなく複雑であることが分かります。

イスラエルは、こうしたことを心底理解していますから、イスラエルにとって非常に重大な局面においても、アメリカがイスラエルを全面的に援助するわけではないことを知っています。アメリカを究極的なところでは信用していないと言っていいのかもしれません。ゼミ生の議論は、こうした重大な場面でアメリカがイスラエルに手を貸しそうにない時に、自国の核を使用するという選択肢をアメリカに示すことでアメリカに脅しをかける可能性があると言います。つまり、イスラエルの核兵器は、同盟国のアメリカが自国を援助し続けさせるための究極的な脅しとして使用することを考慮しているものだというわけです。通常は、イスラエルがアラブ諸国に対して核兵器を使用することを懸念するわけですが、イスラエルは、核兵器の不使用性を理解しており、その保有は徹底的に政治的なものだと考えるのです。

これに対して、イスラエルの核への反発から核開発を開始したと考えられるのが、イランです。イランはNPT加盟国ですが、核兵器の開発を着々と行ってきたと信じられています。NPT体制の下でも平和的な核開発は許容されているわけですが、イランの行っている様々な行為は核の平和利用を明らかに逸脱しているように思えます。のらりくらりと国際機関の非難や査察を誤魔化し続けているのは、北朝鮮に似ているように思いますが、イランの核開発には、北朝鮮の影がちらついています。国際的に孤立した両者が、核開発において様々に協力をし合っているということは、国際社会では常識です。

イランを取り上げたゼミ生はひとりでしたが、そのゼミ生が指摘したイランの核開発の動機の最たるものはアメリカへの反発であると言います。1979年のイラン革命以来、アメリカとイランは限りなく対立を続けており、近年のオバマ政権における協定の成立後もこの対立は必ずしも解けていません。
イランのアメリカへの反発は、単なるアメリカへの反発ではありません。むしろ、イスラエルの核について、黙認ないしは容認しているアメリカに対する反発と理解するほうが適切です。つまり、イランは、核兵器について言えば、アメリカ自体に対抗する意志はなく、むしろ、中東におけるイスラエルとの争いやそれを通じたアラブ諸国との関係に関心が向いているのです。ただ、そこにアメリカの影響力が多様に及んでいるためにアメリカに対抗する必要が生まれるわけです。核を持ったり、持とうしたりすること自体が政治的な状況に影響を及ぼすわけで、核兵器の政治的側面がここでも重要になります。

イランの核開発には北朝鮮の協力が不可欠であったと思いますが、やはり、北朝鮮絡みで核開発が疑われたのがミャンマーです。今では、この事件自体真偽不明で、ほとんど忘れられていますが、ミャンマーの核疑惑を取り上げたゼミ生は2人でした。

2009年にオーストラリアの新聞にミャンマーの核兵器開発の疑惑の記事が掲載されました。北朝鮮がこれに協力し2014年には核兵器の保有を目指すとされていました。イランにしてもそうですが、北朝鮮もこれ以前のミャンマーも国際的孤立が大きな特色でした。アパルトヘイト時代の南アフリカもそうですが、国際的孤立は自業自得ですが、孤立した国家同士がこういう形で結び合う例は珍しくないことを考えると、国際的あるいは地域的に孤立をいかにして解消するかということは、緊張を緩和する重要な鍵であると思います。問題は、それをどのようにしてもたらすかではあるのですが。

ミャンマーの核開発は情報も少なく、謎に包まれています。ゼミ生のひとりは、南アフリカがそうであったように、大国の関与の誘い水として核疑惑を利用したという説を唱えました。また、不確定な情報ではありますが、麻薬ビジネスの延長線上で北朝鮮からの売込みがあったとも論じています。もうひとりのゼミ生は、国際的孤立からの脱却を目指して、核兵器を保有することで、ミャンマーの国際的地位の向上を目指したのではないかと論じています。どちらも、当時のミャンマーが軍事政権であったことを考えるとあり得る話であると思います。

その後ミャンマーは、一気に民主化の方向に舵を切りました。このゼミが行われた2011年は、民主化がまさに始まった時期で、多くの専門家は、民主化が本物となるかどうかということに、どちらかと言うと悲観的な眼を向けていました。アウン・サン・スー・チーの軟禁は解かれたとはいえ、政治的活動は禁止されるなど、どちらに転ぶか分からない時期でした。とはいえ、ミャンマーが民主化を、ゆっくりながらも、進めていたことは事実で、そうした中で、核兵器開発のうわさは消えていったのでした。

2人のゼミ生は民主化に懐疑的で、民主化が結局は進まず揺り戻しがあった時には、北朝鮮の援助の下に再び核開発が行われるかもしれないと危惧を表明しています。これに対して、私は「民主化の後戻りはない」と断言して反論をしましたが、ゼミ生の懐疑的な感じは払拭されませんでした。

核兵器保有国とその保有・開発が疑われる国家についての学生たちの論文についてご紹介をしました。次回より、私がこの年度の総括として学生たちにした講義を再録致します。


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2017年10月30日月曜日

第73回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑬】

これまで、自他共に核兵器の保有を認める諸国を取り上げてきました。

この他に、核兵器の保有が疑われる国がいくつかあります。疑われるといっても、それが確実視されているイスラエルから、核兵器開発の情報が都市伝説的に現れて、まもなく消えて行ったミャンマーのような存在もあります。

そんな中で、南アフリカはかなり特別な存在です。いったん保有した核兵器を廃棄した唯一の国家です。とはいえ、南アフリカの核兵器の保有は、南アフリカ政府が廃棄を公表するまで誰も気が付きませんでした。核実験は行わず、製造・保有・廃棄を秘密裏に行ったというのです。保有核弾頭数は6個、運搬手段は戦闘機であったとされています。南アフリカを取り上げたゼミ生は2人でしたが、南アフリカが誰にも気付かれることなく廃棄までを行ったため、情報が少なく、かなり苦労した様子でした。

南アフリカは、1991年に核兵器の廃棄を完了し、核の国際的管理のための条約であるNPT(核拡散防止条約)に加盟しました。それにしても、南アフリカはなぜ核兵器を持ったのでしょうか。そして、なぜそれを廃棄したのでしょうか。2人のゼミ生の考察をご紹介致します。

南アフリカが核兵器を持った理由としては、ゼミ生は4つの可能性をあげています。第1に、アンゴラの内戦向けという説があります。アンゴラの内戦では、ソ連の援助を受けたキューバ兵がこれに参戦していました。しかし、アンゴラを始めとする近隣諸国への核兵器の威嚇や使用は、逆効果でしょうし、敵の脅威がゲリラであるような場合にはますますそうです。第2に、その背後にいるソ連向けということも考えられるわけですが、わずか6個の核兵器ではまったく無意味であることは言うまでもありません。第3に、対黒人向けの兵器とする説があるわけですが、そうなると、自国の領域での核の使用となるわけで、あまりにも愚かな選択肢ということになります。南アフリカが核兵器を持つ理由はなかなか明確にならないのですが、第4の説は、核兵器という武器の性質を考える上でも興味深いものです。

すなわち、核兵器を威嚇に用いたり、実際に使用する意図は最初からなくて、もっぱら交渉の道具として使うつもりだったという「廃棄前提説」です。アパルトヘイト政策のために南アフリカは、国際的に孤立していました。この孤立を打破することが南アフリカ政府の最大の課題だったわけですが、アパルトヘイトを廃止することなしには孤立を解消することは困難でした。とはいえ、南アフリカ政府としては、アパルトヘイトを廃止することもまた困難で、そのために、核兵器を利用することを考えたのです。核兵器を廃棄することで、国際社会から譲歩を引き出し、孤立状態からの脱却を考えたというわけです。

秘密裏に獲得した核兵器の廃棄を条件として国際的孤立の突破を図ろうとしたという説ですが、正直言いまして、俄かには信じられません。ただ、こうした説が出てくるくらいに、南アフリカの核兵器獲得の意図は謎なのです。そして、獲得だけでなく、核兵器の廃棄の理由も明らかにはされていません。廃棄の理由については、2人のゼミ生は揃って同じ結論に達しています。冷戦が終了し、90年代に入ると、マンデラの釈放が検討され、アパルトヘイトは廃止が決まりました。アパルトヘイト廃止後の民主的な選挙においては、黒人勢力が政治権力を握ることは確実でした。そんな中で、核兵器の獲得と廃棄の発表がなされたのですが、白人の南アフリカ政府は、黒人の手に核兵器を渡したくなかったのだと2人は論じます。

南アフリカの核兵器獲得と廃棄の真偽は定かではありませんが、こうしたことからも、核兵器が実際に使用される武器としてよりは、政治的な存在として利用され得る兵器であることが実感できます。南アフリカの核兵器が、実際の使用ではなく取引の材料として、廃棄を前提として製造され保有されていたとすれば、その典型的な例であったと考えられます。北朝鮮の場合は果たしてどうでしょうか。

今回は、ミャンマーやイスラエルも取り上げるつもりでしたが、それらは次回に。

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2017年10月15日日曜日

第72回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑫】

国連の安全保障理事会の常任理事国のすべての国が核兵器を保有しています。すでにアメリカ、ロシア、中国を取り上げましたが、フランスとイギリスはなぜ核兵器を保有しているのでしょうか。フランス、イギリスともに2人のゼミ生がこれをテーマとしました。

イギリスは、第2次大戦中のアメリカの核兵器開発に参加していました。しかし、イギリス自体が核兵器を保有することについては、戦後、アメリカの援助を得られませんでした。2人のゼミ生の一致した意見は、イギリスに核兵器を開発し保有させた最大の動機は「大国意識」であるということでした。

イギリスは、戦後、多くの植民地を失い、戦争による疲弊もかなりのものでした。戦後の苦しい財政状況の中で核兵器開発を行った背景には、それに対する強い意志が存在したことは間違いないのですが、その強い意志はどこに由来するのでしょうか。それこそが「大国の意地とプライド」だとゼミ生は論じます。失った広大な植民地に代わる何かを核兵器に見ていたのかもしれません。

イギリスは、核兵器をすべて潜水艦に載せて運用していますが、NATOにおけるアメリカの核兵器の存在を考えると、ソ連・ロシアへの核抑止において、どれほどの意味を持っているかと言えば、ほとんど影響力がないものと考えられます。アメリカの核の傘に対して、後ほど論じるフランスほどに不信感があるかと言えば、必ずしもそうではなく、そもそもイギリスの核兵器の運用自体がアメリカと不可分に結びついているのが実体です。

さらに、冷戦が終結し、ソ連が消滅しロシアが誕生しても、そして、ロシアがアメリカとともに核兵器の削減を行った場合にも、これらの外的事実の変化はイギリスの核保有に影響を及ぼしたようには見えません。ひとりのゼミ生は、ここから、イギリスの核兵器の保有の理由は、むしろ、国内要因によるのではないかと論じています。しかも、核戦略といったものも必ずしも明確でなく、ただ持っているだけに見えるとも論じています。

それでもなお、イギリスが核兵器を保有するのは、核兵器が「大国意識」を支えるものであり、自国を大国であると見せる手段であり、大国である(あるいは、あった)プライドを満たすためであると論じています。

なかなか厳しい見方であると思いますが、確かに、イギリスが核兵器を保有する積極的な理由は、対外関係からは見出せません。しかも、米ロの核バランスにイギリスの核戦力が影響を及ぼす可能性はまったくありません。そのように考えると、イギリスの核兵器は、実は、内向きなのだという説には説得力があります。イギリスの首相は、就任時に、自国が核攻撃を受けた場合の対処の選択肢を示され、軍にそれを命じるのが最初の仕事なのですが、それは、自国が大国であることを首相自らに刷り込むための儀式なのかもしれません。

大国意識と言えば、それが世界でももっとも強烈であるのがフランスかもしれません。フランスを取り上げた2人のゼミ生は、揃ってフランスの大国意識を指摘しています。

フランスが核兵器を独自に開発し獲得した過程においてもっとも影響が大きかったのは、アメリカに対する不信であったと思います。ドゴール大統領は、米英の核独占を批判し、核開発に進みますが、その背景には、フランスがソ連から核攻撃を受けた場合にアメリカがフランスのために報復をしてくれるとは信じられないという対米不信が存在しています。フランスは、1960年に最初の核実験を行いますが、66年にはNATOを脱退しています。

日本やNATO諸国は、アメリカの核の傘が機能すると信じて、あるいは、信じた振りをして核兵器の保有を思い止まっているのですが、フランスは、自国の大国意識と相俟って、アメリカの核の傘を信じることはしません。つまり、フランスは、アメリカの核の傘に入ることを潔しとしないのです。なぜならば、フランスは、自己意識としてアメリカと同じ大国なのであり、大国ならば、自国の政策の選択肢を最大限に広くするために核兵器を持つべきだからです。「偉大なるフランス」というドゴール主義は、単なるスローガンではなく、フランスのあらゆる政策を導く物差しなのです。


次回、南アフリカ、ミャンマー、イスラエルを取り上げたゼミ生の論文をご紹介します。

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2017年9月30日土曜日

第71回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑪】

学生たちの論文を引き続きご紹介致します。

中国を取り上げた学生もひとりでした。
中国が初の核実験を行ったのは、196410月のことで、まさに東京オリンピックの真っ只中のことでした。

今とは違って、当時の中国は極めて貧しい状態の中、かなりの無理をして核兵器開発を行いました。「ズボンを作る金がなくても核兵器を作ってみせる」とは、当時の有名なセリフですが、中国はなぜそこまでして核兵器獲得を目指したのでしょうか。

中国共産化の直後、中国はアメリカとの友好関係を模索した証拠があります。しかし、アメリカは共産化した中国と友好関係を持とうとはしませんでした。むしろ、共産中国を警戒し遠ざけたのでした。これに対して中国もまた警戒を強め、対アメリカの自衛を強烈に意識するようになります。

また、中国のソ連との関係も微妙でした。ソ連は兄弟国として中国に核の技術の援助を行ったかと言えば、むしろそれを渋りましたし、脱スターリン以後は、共産主義の路線としても中ソは別の道を歩むようになっていきました。中国はソ連依存を脱却し、ソ連の弟としてソ連の下に立つようにはなるまいと決意し、それが独自の核兵器開発へと繋がっていったのです。

毛沢東は「人に侮られないためには原爆を持たねばならない」と言って、国際社会で政治的発言力を持つためには核兵器を持つことが必須であると考えていました。また、核実験後の中国は、まさにお祭り騒ぎで、国民の結束を促す手段としても核兵器は大きな効果を持ったのであり、こうした狙いもあったものと考えられます。

この中国の核開発に触発されて核兵器の開発を開始したのがインドでした。インドを取り上げた学生は2人いましたが、インドの核兵器が対中国向けに開発されたものであるという点で2人の意見は一致しました。

インドは、紛れもない大国です。対中国という点からだけでなく、大国として国際社会で十分な発言力を持つためには核兵器を手にしなければならないと考えていたように思われます。そもそもインドは、明白な不平等条約たるNPTに加盟していません。NPTが不平等であり、インドが大国であり続けるためには、そこに加盟せず、核兵器を独自で獲得する道を選んだのです。ただ、中国の存在は圧倒的でした。中国との間には、今も続く国境問題もありますし、当時はそれが実戦になった場合もあったのでした。

インドの核兵器獲得とそれの保持の理由は多様ですが、核兵器保有が大国の資格であり、当面の敵である中国がそれを獲得する以上インドもそれを獲得しなければならないと考えたことは明らかです。中国と同様に、建国以来パキスタンがインドの最大の仮想敵国であるのは間違いありませんが、インドが核を獲得した動機にはパキスタンの存在はかかわりがないというのが定説で、これには間違いがないように思えます。

さて、そのパキスタンですが、ひとりのゼミ生がそれを取り上げました。

核保有国は、現在のところ、非常に限られていますが、保有国の中でもっとも無理をして核開発を行ったのがパキスタンであるように思います。パキスタンの核兵器開発には、中国や北朝鮮が絡んでいたり、そこから核兵器の技術が闇市場で取引されたりと、単にパキスタンが核兵器を開発し保有するという以上の問題があるのも事実です。

ただ、パキスタンが核兵器を開発した動機は、もっぱらインドの核兵器獲得で、それに対する対抗措置であったと学生は分析しました。たぶん、正しいのではないかと私も思います。ゼミ生は、さらに踏み込んで、インドが核を放棄すれば、パキスタンも同様に放棄するであろうと論じています。双方同時に、ということが仮に可能であれば、これは実現するかもしれませんが、パキスタンの核保有の動機がもっぱら対インドであるのに対して、インドの核保有の動機がより多様であるために、これはなかなか実現が困難であると思います。それよりも、私は、パキスタンからの核の技術の流出が今後も大きな脅威であるように思います。

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2017年9月15日金曜日

第70回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑩】

核兵器を世界で最初に手にした国は、言わずと知れたアメリカです。アメリカが核兵器を持とうとした動機はそれほど複雑ではありません。ナチス・ドイツよりも早く核兵器を開発し、ドイツのそれを阻止することが目標でした。マンハッタン計画による核の開発の進捗状況とドイツの降伏と対日戦の様相、さらに戦後のソ連との関係の見通し、そうした多様な状況が広島と長崎への原爆の投下へと繋がっていきました。
アメリカの核兵器保有の理由をテーマとした学生は一人だけでしたが、彼は、核兵器の獲得の理由ではなく、保有の理由に焦点を絞りました。もちろん、アメリカが核兵器を保有する理由は極めて多様です。このゼミ生が焦点を当てたのは、その経済的な理由です。

どのような兵器でも同じですが、兵器とは、軍事的な意味を超えて、社会的な存在となる場合があります。核兵器は、単に兵器というよりは、大規模な社会的システムなのです。核兵器とその運搬手段の開発には大規模な研究施設とスタッフと予算が必要になります。いったん導入すると、それを維持しグレードアップし続けなければならないことは民需の財と同様です。核兵器は、核兵器自体の開発・製造、運搬手段の開発・製造を含めて考えると、それ自体で巨大な裾野を持つ一個の産業なのです。

核兵器に限ってそれを言うわけではありませんが、一般にこれを軍産複合体と言います。これがいったん経済社会の中に出来上がってしまうと、これを排除することは大変に難しくなります。ゼミ生の指摘は、アメリカにおいてはすでに、核兵器を取り巻く産業がすでに抜き難くアメリカ経済にビルト・インされてしまっていて、これを取り除くことは不可能となっているというもので、それ故、アメリカは今や核兵器を保有し続けているのだ、というものでした。

兵器産業には、確かに、こういう側面があります。そして、それが甚だしい場合には、危機に見合った兵器が調達されるのではなく、兵器を供給する企業やそれと結びついた政治家が、場合によっては、火のないところに煙を立ててでも、兵器の必要を叫ぶということが起きます。尻尾が犬を振り回す典型です。アイゼンハワー大統領が退任演説で、軍産複合体による危険を指摘してからまもなく60年になろうとしていますが、この警告は今でも有効です。

核兵器と言えば、まずはアメリカとロシアなわけですが、ロシアを取り上げたゼミ生もひとりでした。

今はなきソ連を継承したのがロシアですが、核兵器はソ連崩壊当初、ロシアとウクライナに分散していました。数年の国際交渉の後に、ウクライナは核兵器のすべてを廃棄することとしました。ウクライナから核兵器が流出するなどの心配がされていたのです。核兵器を廃棄するかわりに、アメリカ・イギリス・ロシアが、ウクライナ国土の保全を保障することを約束しました。この約束をブダペスト覚書と言います。現在のロシアによるウクライナ侵略は、この時の約束を破るものであることは明らかです。

ロシアをテーマとしたゼミ生は、経済力、核兵器を除いた軍事力、特に、その質を取り上げて、ロシアには現在、大国と呼ぶに相応しい経済力・軍事力はないと結論しています。要するに、今では核兵器を除けば恐れるに足りない存在となってしまっているというのです。確かに、経済力においては、GDPで言えば、フランスの半分、インド、ブラジルより下で、韓国よりも少し上という程度です。ひとり当たりのGDPを見ると、ハンガリーよりも下で、アルゼンチンやパナマとほぼ同じ、日本の3分の1です。


それでも、ロシアは、ロシアの自己認識としても、また、私たち日本人のような他者の認識からしても、大国であるように見えます。このゼミ生は、ロシアが核兵器を保有し続けるのは、核兵器が偽大国を支える最後のツールだからだと結論づけました。ロシアにとっては、なかなか厳しい評価です。

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2017年8月30日水曜日

第69回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑨】

「なぜ彼らは核兵器を持つか」というテーマで1年勉強したわけですが、ここからは、ゼミ生の論文のご紹介を致します。

まずは、昨今話題の北朝鮮を取り上げたゼミ生がひとりいました。2011年の北朝鮮の核問題は今よりもはるかに分かりにくいものでした。201112月に金正日が死去、現在の北朝鮮の指導者、金正恩が跡を継いだのですが、将来はまったく不透明でした。

ゼミ生は、北朝鮮が核兵器を持とうとしていることは間違いないけれど、その動機にどのようにアプローチしてよいか、まったく分からないと言って相談に来ました。私は、まずは、どんな可能性があるか並べてみて、そこから可能性のあるものを選んで、仮説を立ててアプローチしてみるように指示をしました。ゼミ生は、北朝鮮の核兵器開発の動機として5つの仮説を提出してきました。すなわち、①アメリカへの抑止、②瀬戸際外交のカード、③先軍思想からの論理的帰結、④国民の象徴としての核兵器、⑤産業としての核兵器、以上です。

私は、ゼミ生に対して、北朝鮮「死の商人」説でアプローチしてはどうかとアドバイスをしました。その線で書かれた論文の内容は以下のようなものでした。

北朝鮮の経済規模は、日本人の私たちにはちょっと想像できないほど小さなものです。GDPが約150億ドル(16000億円程度)に過ぎません。東京都の予算が約10兆円であることを考えてみても、人口約2500万人の国のGDPがこの程度というのは驚くべきことです。北朝鮮は、国家自身が覚醒剤を製造し販売したり、偽札を製造して使用したりと、普通の国家では考えられないようなことをしてきました。最近では、ハッキングによる犯罪にも手を染めていると言われています。

核やミサイルの技術を、国際的に孤立した国家に援助し売っていることも公然の秘密です。イランやミャンマー、シリアなどに技術を流失させたと言われてきました。パキスタンとの繋がりも太いものがあるようです。そのパキスタンも核技術と原材料の流出で有名です。

核兵器の値段を知ることは大変に難しいことですが(なぜなら、普通は売ったり買ったりしないからです)、また、核兵器の完成品を売るのと製造のシステムを売るのとでは、値段が相当に異なるものと思われますが、大雑把に言って、1000億円から5000億円と試算されます。この金額は、もちろん、小さくはありませんが、国際的な孤立を招く行為としては安過ぎるように思えます。しかし、北朝鮮の極端に小さな経済規模とすでに孤立していることを思うと、この数字は魅力的に映るように思えます。北朝鮮の核兵器開発の先には、核技術を販売する構想があるのではないかと想像できます。

以上の北朝鮮「死の商人」説は、けっして荒唐無稽なものではありません。北朝鮮は、たぶん、核の技術を、アメリカやソ連や、分裂後のロシアやウクライナや、あるいは、中国から盗んで来ていると考えられます。また、日本で教育を受けた核関連の技術者が、北朝鮮に核の技術をもたらしたことは間違いありません。その上で、開発した核やミサイルを国家の、いわば、事業に仕立てるつもりであるというのは、たぶん、そう的を外れた議論ではないと思います。

昨今、北朝鮮の核兵器の脅威が現実のものとなり、世界中が一種の緊張を強いられているわけですが、その先には、北朝鮮が「死の商人」として、核を世界中に拡散する可能性が潜んでいることは間違いありません。

北朝鮮の核とミサイル自体が脅威であることは間違いありませんが、私は、本当の脅威は、北朝鮮が核兵器を保有することで、NPTという核管理体制が崩壊し、核が一気に拡散することであると思います。その時、北朝鮮は、核拡散の中心的存在になると考えられます。国際社会は、北朝鮮に核兵器とミサイルを放棄させることができるでしょうか。できるとすれば、それはどのようにして可能となるでしょうか。

北朝鮮が何があっても核を放棄することがないとすれば、かなり悲観的な予想をする以外にないかもしれません。軍事的な解決か、あるいは、核拡散を許容する新しい世界システムかということになると思います。新しいシステムにおいては、それを許容する以上、アメリカの地位は劇的に相対化されることとなります。アメリカはそれを甘受するでしょうか。ロシアと中国が静観するどころか、北朝鮮を目立たない形で陰で援助しているように見えますが、彼らのような現状変革勢力としては、アメリカの転落の可能性がある以上、それに棹差すのは当然のことです。


この年度のゼミのテーマから少し外れました。これ以上、「今」の問題に深入りするのはやめておきますが、アメリカは、日本は、どうしたらよいのでしょうか。

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2017年8月15日火曜日

第68回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑧】

核抑止は非常に複雑で分かりにくい概念、というか、現実です。様々にねじれています。究極的には核兵器を使用する強い意思があるにもかかわらず、先に使用することをとことん嫌悪し、さらに、先制使用はしないということを敵に分からせ、それを信用させようとします。それなのに、その両者の間には、修復しがたい溝、相手がとことん信用できないという現実があったのです。非常に不条理な状況が現実でした。それでもなお米ソの間には、核の均衡と抑止が成立していたのです。信用していないのに信頼している、というような、実に変な関係が数十年続いたわけです。

以上のような関係が出来上がった背景には、核兵器に対するリアルな認識があったと思います。すなわち、これを使うようになったらお仕舞いだという確信です。それを使わないためであれば、たとえ正義にもとるとしても仕方ないというような諦めが存在したと私は思います。それを批判することは容易いことですが、私はこれこそ人生だと思うのです。米ソは正義よりも平和を優先しました。ここで言う平和とは、米ソの間に核兵器を使用するような戦争が起きないという消極的なものです。しかし、実際に核戦争が起きたことを考えれば、この消極的平和に勝る平和が存在するでしょうか。どんな正義がこの平和に優先されるべきでしょうか。私たちはそんな時代を生きていたわけです。あるいは、今も生きているのです。

冷戦が終わって25年。世界は変わりました。ソ連の後継国ロシアとアメリカの関係は大幅に変化しました。米ロ核戦争の可能性はゼロではありませんが、冷戦時代とは比較にならないほど小さくなりました。核をめぐる問題は、米ソ対立の問題から核拡散の問題に移っています。抑止などにまったく関心を持たない、手にしたらそれをすぐにでも使いかねないような国が核兵器の開発をしています。米ソの間にはどこか八百長めいた感じが漂っていましたが、現在の核疑惑国と有力国の間に八百長の雰囲気はありません。核をめぐる問題は冷戦時代よりもはるかに複雑に、そして、難しくなっています。北朝鮮やイランは核を持ってどうするつもりなのでしょう。あるいは、何のために核を持とうとしているのでしょうか。それは抑止のためだ、というような議論がありますが、本当でしょうか。核抑止とは、相手に核を使わせないだけでなく、自分も先制的な攻撃手段としては実は使う気はないのだということを明らかにして初めて成立するものです。しかも、究極的には、使う覚悟がなければならない、という矛盾したものです。疑惑国にそのような綱を渡りきる政治的技(わざ)があるでしょうか。

アメリカはソ連をとことん信用していませんでしたが、それでも、相互抑止という点では、アメリカは、ソ連も同じように考えているはずだと信じていたように思います。そうでなければ相互抑止は機能しなかったはずです。現在の疑惑国をそのように捉えることは可能でしょうか。私は悲観的です。私たちは冷戦時代よりもはるかに難しく危険な時代を生きているのかもしれません。時々ですが、冷戦時代は平和であったとふと思ったりすることがあります。

抑止は非常に難しい概念です。なぜなら、それは一般的な意味の正義に反する部分を含んでいるからです。私たちは、正義が不正義になり、不正義が正義に通じるメビウスの輪のような時代を生きていることを肝に銘じる必要があります。もう単純な昔には帰れないのです。現代に生きるとは、そうしたことを意識してなお生きるということなのです。

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2017年7月30日日曜日

第67回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑦】

兵器には、攻撃、防御、強制、抑止の4つの使用方法があります。

核兵器の最大の特色は、攻撃、防御には使えない可能性が非常に高いことです。核兵器は使用する側もされる側も最終的には壊滅的な被害を被らざるを得ないという点でまさに使えない兵器であるわけです。少なくとも、米ソの核対立にはそのような暗黙の了解のようなものがあったと思います。ですから、核兵器の使い道としては、強制と抑止以外にないわけですが、一般に、核兵器を持った国が核兵器を持たない国に対して、核兵器で脅しをかけて何事かを実現するということはしない了解がこれまでの国際社会にはありました。つまり、強制は行わないということです。これもまた暗黙の了解に近いものですが、そうでなければ、すべての国が核兵器を持つようになるのが必然で、核兵器を持つごく少数の国は、そのような核兵器の拡散を恐れて、核兵器を自国の国益の増進のために非核兵器国に対して使うことはしないできたわけです。核拡散防止条約(NPT)の基礎にはこうした考え方が存在しています。

そうなると、核兵器が何のためにあるかと言えば、核兵器を持つ国同士における抑止以外にないということになります。ただ、核兵器は、それを持ちさえすれば抑止が働くという単純なものではありません。

核兵器はその運搬手段と一体の兵器です。核弾頭だけがあっても、それを敵国の内部に運び込むことが出来なければ意味がありません。運搬手段には、飛行機、地上からのミサイル、戦艦および潜水艦からのミサイルなどが考えられます。もちろん、スーツケース爆弾のような核兵器の可能性も考えられますから、人間が手にもって徒歩で核兵器を敵国に運び込むことも論理的には可能です。核兵器を持つ国にとって運搬手段の開発は必須です。

運搬手段などについてはここで詳しく論じることはしません(ゼミではこれについても詳しい議論を行いました)。問題は、抑止の条件とはどのようなものか、ということです。
まず第1に、核兵器を持つ国は、幾分矛盾しますが、一旦緩急あれば、この兵器を使う覚悟がなければなりません。冷戦時代に米ソは、核兵器は使えない兵器であるとみなしていたと考えられますが、しかし、究極的にはそれを使う覚悟を持っていたように思います。そうでなければ、核兵器は宝の持ち腐れです。そして、使う覚悟をお互いが持っている以上、最大限に運搬手段の開発を行いました。相手が先に自国を攻撃するようなことがあってもなお生き残る運搬手段を持とうとし、そして、現にそれを手にしました。相手を最大限の核攻撃に晒してもなおその相手から報復を受けるという可能性が自国の核の使用を抑制するのです。変な話ですが、自己を抑制するものは敵である相手の真面目な戦略的努力ということになるわけです。逆に、相手の抑制を導くものこそ自国の戦略的な備えであるのです。

こうした戦略は「MAD(相互確証破壊)」と呼ばれました。仮に、自国が核攻撃を受けても十分な核兵器が生き残り、敵に対して耐え難い報復を行うことができる、そんな戦力を保持するというものです。

冷戦時代の米ソは、相手の核兵器のすべてを破壊できるような攻撃力を開発することを目標としていました。精度の高いミサイルの開発もその一環でしたし、核兵器の数が増えたのもそのせいです。また、それとは逆に、すべての核兵器を一度に破壊されることがないように戦略を練りました。陸上の核兵器サイトはぶ厚いコンクリートで覆われました。冗談みたいに思えますが、アメリカ本土にある核兵器が仮に全滅しても報復のために核兵器が生き残るように、核兵器を積んだ潜水艦が海のどこかに常に潜んでいますし、同様に、核兵器を積んだ戦略爆撃機が常に上空を飛んでいるのです。今この時も潜水艦はそのために潜り、戦闘機はそのために飛んでいるのです。陸上の核兵器も、場所を特定されないように常時移動しているものがあります。

たぶん、米ソ両国の核戦略関係者は、こうしたことのすべてが馬鹿げたことであることを知っていたのだと思います。この戦略が「MAD」と呼ばれているのはその表れだと思います。

そんなこんなを突き詰めて考えてみると、核抑止は敵味方が一体となる部分を多様に秘めていてどこか八百長的です。アメリカは本当に隙あらばソ連に核攻撃をしようと考えていたのでしょうか。ソ連はチャンスが到来すればアメリカに核をぶち込む気でいたのでしょうか。どちらも結局核を使用していないために、抑止が効いていたからどちらも核攻撃をしなかったのか、抑止とは関係なく、最初から双方に核攻撃をする気がなかったからそういうことが起きなかったのか、証明することができません。もちろん、証明の時が訪れなかったことは人類にとって幸いであったわけですが。

抑止の条件の第2は、核兵器を持つ国は、相手の核攻撃を完璧に防御しようとしてはならないというものです。国家は国民を守るために存在しているわけですが、核兵器に関してはそれをあたかも放棄するかのように行動しなくてなりません。相手の核攻撃を完璧に防御できるとすれば、自国は相手に核攻撃をし、しかも、相手の報復を免れることができるわけですから、核による攻撃を自制できなくなります。あるいは、そうした防御体制の確立の前に、敵国は必ず攻撃をしかけるはずです。なぜならば、防御体制確立の後では、自国の核保有は意味のないものとなるからです。そこで、核保有国は、自国が敵国に核攻撃をしないことを明確に示すために自国の防御をしないことが必要になります。米ソ間のABM条約では、国内2ヶ所に限り防御ができるとの約束を交わしました。逆に言えば、2ヶ所以外は守らないということを約束したことになります。敵国からの報復が有効に行われる状態をあえて作り出すことによって、自国が核による先制攻撃をしないという証を立てるわけです。彼らは本当に核兵器を使う気があったのでしょうか。

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2017年7月15日土曜日

第66回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑥】

核兵器は、初めて製造をされてから、実験では何千回も使用されているわけですが、実戦では、広島と長崎に使用されたのみです。その用途は、「抑止」のみにあると言われたりすることもあります。他の兵器とは明らかに異なった性質の兵器です。

そもそも、抑止とは理解の難しい概念です。
核兵器に限らず兵器には4通りの使い道があります。
1に、それを使用する方法。第2に、それを実際には使わずに済ます方法です。
さらに、使用する方法に2つの用途があります。その第1が、「攻撃」。そして、第2が、「防御」となります。攻撃と防御は明確に違うようにも思いますが、実は、何が攻撃で何が防御かを区別することは簡単なことではありません。野球やアメリカン・フットボールでは攻撃側と守備側がはっきりと分かれていますが、サッカーやラグビーでは必ずしもはっきりとしません。フォワードがバックスの横パスを奪おうとすることは攻撃でしょうか、それとも、守備でしょうか。軍事において、放っておくと自国を攻撃してくるに違いない敵国の基地を予め攻撃することは攻撃でしょうか、それとも、防御でしょうか。このようにして、古来すべての戦争は「自衛」を理由として開始されます。そして、それはまんざら嘘ではないのです。

使用しない方法にも2つのあり方があります。その第1が「強制」です。武力にものを言わせて相手国を自国の望むように動かすのが強制です。こちらが言わなければけっして相手がしないようなことを相手にさせるのが強制です。概念理解のためには何となく分かるではいけないので、口説く説明しますが、強制の特徴は相手に「to do something」を強いることと言えます。これに対して、使用しない方法の第2が「抑止」です。抑止とは、相手に何事かをしないことを強いるということになります。すなわち、「to do nothing」を強いるのが抑止というわけです。動いていない相手に「そこを動くな」と言うのが抑止なわけですが、難しいのは、動いていない相手に「動くな」と言うわけですから、相手が引き続き動かないのがそう言われたから動かないのか、言われたことと関係なく最初から動くつもりがないから動かないのかが証明できないということです。軍事力の使い道でもっとも検証困難なのが抑止であるということがわかると思います。抑止が効いていたかどうかが証明されるのはその抑止が破られる瞬間ということになるのです。

このように、軍事力には、攻撃、防御、強制、抑止の4つの使い道があるのです。

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2017年6月30日金曜日

第65回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑤】

2011年度は「なぜ彼らは核兵器を持つのか」と題して、核兵器保有国が核兵器を持つ理由について考え、それを通じて、核兵器にまつわる多様な意味を考えようとしました。

人類はいくつかの難問(difficulties)に直面していますが、核兵器の問題がそのひとつであることは明らかです。核兵器とはそもそも何なのでしょうか。核兵器はどのように管理されているのでしょうか。核兵器を廃絶することは可能なのでしょうか。なくならないとすれば、それはなぜなのでしょうか。なぜ日本は核兵器を持たないのでしょうか。イランや北朝鮮はなぜ核兵器を獲得しようとしているのでしょうか。

米ソは冷戦時代、人類を何度も絶滅させるほどの核兵器を保有していました。減ったとはいえ今も米ロの核兵器は十分に削減されていません。なぜこのような愚かなことが起きるのでしょうか。現在、北朝鮮は核を保有し、それの実戦配備を急いでいるように見えますが、国民が飢えていると言われる中でそのような行動をするのはなぜなのでしょうか。

核兵器を国際条約で許容される形で保有しているのは5カ国で、そのすべてが国連の安全保障理事会の常任理事国です。これを許している条約が核拡散防止条約(NPT)で、なぜこのような露骨な差別条約が世界中のほぼすべての国家を加盟国として成立しているのでしょうか。核兵器保有5カ国を除くすべての国家は、この条約によって核兵器の獲得を禁止され、平和利用においても、国際原子力機関(IAEA)の査察を受け入れる約束になっています。保有5カ国だけが核兵器の保有を許されていますが、保有国は、非保有国が保有を禁止されているのと引き換えに、核兵器の削減を義務付けられています。ただ、削減や廃絶のタイムテーブルは用意されていません。非保有国が条約に反すれば大きな不利益を被るのですが、保有国は核兵器を保有し続けても何ら制裁などは受けません。現に、保有国は減っていません。

NPTに加盟しない核兵器保有国も存在します。明らかに核兵器を保有しているのが、インドとパキスタンで、保有を疑われる国としてはイスラエルがあります。最近では、北朝鮮の保有が疑いのないものとなっていますが、北朝鮮は、NPTの加盟国です。1993年と2003年に条約からの脱退を宣言して核兵器の保有に突っ走っていますが、条約加盟諸国は北朝鮮の脱退を承認していません。NPTはこれまで条約違反をした加盟国がなかったのですが、北朝鮮はその初めての国となりそうです。

この他に、南アフリカが過去に核兵器を保有したもののすべて廃棄したことを明らかにしています。保有した核兵器を廃絶した国は南アフリカのみです。保有している期間中は、南アフリカの核保有に気が付いた国はありませんでした。短い期間でしたし、結局は真偽不明のままだったのですが、ミャンマーの核兵器開発がうわさされたこともありました。イランは核兵器の開発を目指していますが、昨年、アメリカを始めとする国々と合意が成立して、開発を一時停止ないしは減速するとされています。この合意が非常に危うい基盤の上に成り立っていることは明らかで、今後どうなるかについての予想はつきません。

それにしても、核兵器を保有する国や獲得しようとする国は、なぜ核兵器を持つのでしょうか、あるいは、持とうとするのでしょうか。

ゼミ生たちには、核兵器を持つ国、あるいは、持とうとしている国をひとりひとつ取り上げて、その国が核兵器を保有する理由を探求するように指示しました。

その作業に取り組む前に、私たちが勉強したのは、核抑止とは何かというテーマでした。次回から核抑止について論じます。

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2017年6月15日木曜日

第64回【彼らはなぜ核兵器を持つか④】

では、国際政治とは何でしょうか。私は、国際政治とは次のようなゲームだと考えています。この「ゲーム」と考える考え方が重要であるように思います。ただし、これは命がけのゲームですが。

それぞれの主権国家には「国益」があります。この国益にはとてつもなく重要なものと、まあそれほど重要でないものとがあります。国家によって優先順位が異なります。自国の優先順位を知ることと同様に他国の優先順位を知ることが重要です。また、国益は時間と共に変化する場合があります。ある時重要だったことが別の時には重要でなくなったり、その逆のことも起きます。国際政治の場とは、これらの国益と国益がぶつかり合う場所なわけです。放置するものは放置し、処理すべきものは処理すべきなわけですが、相手のあることですからどこかで妥協しなくてはなりません。どこで妥協するかを決めるものがパワー(日本語に訳する権力)で、パワーは多様です。軍事力のこともあれば経済力のこともあれば、他の何か無形の力であることもあるかもしれません。ただ、何らかの力(パワー)なくして自己に有利な処理は行われません。処理に第3国や国際機関が関与することもあるかもしれません。

すなわち、国際政治とは、国益をめぐって多様なパワーやアクターが織り成すゲームだということです。ゲームには習熟しなければなりません。ゲームで優位を占めるためにはパワーを貯え多様な人脈を築かなければなりません。総合的な力が試されるわけです。

このゲームを戦うのに忘れてならないことは、このゲームが永遠に続くということです。疲れる話です。勝利も敗北も一時のことです。すなわち、一時の勝利が未来にどう影響するかをも考えなければならないということです。一時の敗北が未来に与える影響も考えねばなりません。つまり、勝ちすぎてはいけないこともあれば、負けたからと言って悲観しなくてもいい場合もあります。絶対に負けてはならない場面も存在するはずです。

ゲームの参加者も永遠です。ある時ある問題でぶつかった相手は、それ以後も交際を続ける相手であり続けます。私たちは国際社会では大人である必要があります。自分とはまったく異なる相手の立場を理解しなくてはいけないし、ぶつかりあった相手ともその後何食わぬ顔で付き合い続けなくてはなりません。

私は、国際政治には「絶対」はないと言いました。しかし、絶対に近いものこそ、永遠に近いものこそ「国益」なのだと思います。ただし、国益は時々刻々変化します。これはゴリゴリのリアリストのものの考え方ですが、長年勉強して私はこれが国際政治の真の姿だと思うようになりました。いや、むしろ、国際政治は、国益のぶつかり合うゲームだと割り切ってものを考えるべきだと思うようになりました。国益をベースに殴りあった相手と次の瞬間には笑顔で握手を交わし、それでいながら次の殴り合いに備えるというような、そんなゲームです。相手も自国と同じように国益をベースにしてものを考え自分と争っている、自分とまったく同じ存在だと心から思うのが心の健康を保つ秘訣です。国家の健康とはそういうものです。

以上の観点からすると、日本はいささか不健康、ないしは、病気です。外から見ると、日本人が本当は何をしたいのかが見えてきません。これは実に気持ち悪い存在です。普通なら何か隠しているのでは、と思われるところで、実際にそのように思っている人が国際社会では珍しくないのですが、私は日本人だから知っていますが、実は、何も考えていないのです。ボーっとしているだけです。私は、そろそろ日本人は日本人として国際社会で何をし何を実現したいかを明確にすべきだと思います。そのためにも、国際政治とは、国益と国益がぶつかり合うゲームだということを肝に銘じて知らねばならないと思います。


脱線が長引きました。次回、6年目のテーマ「なぜ彼らは核兵器を持つか」に戻ります。

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