2017年5月30日火曜日

第63回【彼らはなぜ核兵器を持つか③】

K君のテーマの現状を少しお話しましょう。
現在では国連においても「保護する責任」という考え方が有力になってきています。クルド人救済の際には「人道的介入」という考え方がこの活動に援用されたのですが、現在では、それでは不十分であると考えられています。つまり、人道的な問題がある国家の内部で発生している場合には国際社会がこれに積極的に介入する必要がある、いや、義務があるというのがこの考え方ですが、この認定がなかなか難しい。あるいは、こうした理由で内政不干渉原則を侵していいのかという躊躇いが国際社会には依然としてあります。

ここからさらに一歩踏み込んだのが「保護する責任」という考え方になります。主権国家が主権国家として認められるためには、その主権国家は国民を最低限保護しなくてはならない。その最低限の保護がなされていない場合には、その国家は主権の責任を果たしていないとみなされて、言い換えると、主権国家の要件を満たしていないのだからそんなのは主権国家とは呼ぶことができず、雑に言えば、主権国家ではないとすれば干渉は構わないという考え方です。

主権国家が主権国家として果たさなければならない最低の責任を果たしているか否かを判定するのが国連であり、安全保障理事会ということになるわけですが、もちろん、ここにも問題はある。基準の問題がそうですし、国連や安保理自体にも問題がある。人権問題を考えてみれば、国際社会は中国に介入すべきではないか、ということにもなりかねないわけです。中国は安保理常任理事国で、脛に瑕がありますから、こうした介入に非常に懐疑的です。今回のリビアの問題でも決議に棄権しています。

これらの問題を扱ったのが4年目のゼミで、国連の報告書を英語で読みました。

要するに、問題は「主権」とは何か、という問題だということになります。主権とは近代になって登場した概念ですが、実体は人類の歴史とともにあります。それほどに古いものの考え方なのに近代になって初めて名前が付けられ議論されるようになったわけです。現在も議論されています。つまり、主権とは単純な定義をすることで済まされない捉え所のない概念だということです。あるいは、概念というよりは、捉え所のない実体を持つものと言った方がいいのかもしれません。そして、主権を担っているのが国家であるということがさらに重要です。すなわち、主権国家と主権国家からなる国際社会の問題なわけです。


それぞれの主権国家にはそれぞれに利害や価値があります。国際政治に「答え」が存在せず、「絶対」がありえないのはそのためです。映画の「羅生門」に正しく描かれていますが、真実はひとつではないのです。立場が変われば、同じ事象もまったく異なったものとなります。つまり、国際社会では(人間の世の中と言い換えてもいいですが)、事実は存在せず解釈のみが存在するのです。そして、解釈は無数に存在します。どの解釈がその時点でもっとも適切であるかが争われるわけで、それを決するのは残念ながら必ずしも正義ではありません。だから、「答え」がなく「絶対」が存在しないわけです。

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http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2017年5月15日月曜日

第62回【彼らはなぜ核兵器を持つか②】

ゼミクシィにおけるK君への回答を続けます。

K君の取り上げたクルド難民(国内避難民)救出問題は重要な問題で、重要な問題のほとんどがそうであるように、国際政治の根本問題に繋がっていました。

K君がゼミに所属していたこの年のテーマは「難民は夢を見るか」というものでしたが、そもそも難民とは、K君も言っている通り、国境を超えて他国に逃れ救出を求める人たちのことです。クルド人のほとんどは当時イラクの国境を超えることが出来ずイラク国内において難民的な状況に陥っていたのでした。

国際政治には重要な原則がいくつかありますが、そのひとつが「内政不干渉」原則で、内政に干渉しないことと難民を保護する義務とは実は同じコインの裏表になっています。逆に言えば、ある国家の内側でその国民がいかに悲惨な状況に置かれているとしても、それらの人々を保護するのはその国家の役割で、他国はこれに干渉してはならないわけです。人権といった普遍的な価値が真に普遍的であるとされる以前は、つまり、第2次大戦以前は、ある国家の内部でいかに悲惨なことがあっても他国はそのことに関与しませんでした。しかし、人道的な立場からしてそれではあんまりなので、そこから逃れ出てきた人たちは積極的に保護しなければならないとされていたのです。しかし、世界人権宣言のような、人権が国家にかかわらず普遍的なものだという価値観が国際社会で一般化してからは、仮に国境を出ていなくても非人道的なことが行われていれば諸国家は行動すべきではないかという考え方が徐々に広がってきました。今はまだ過渡期であると思います。

K君は、内政不干渉原則を絶対的と言っていますが、私はそうは思っていません。ちなみに、「国際政治に答えはない」を別の言葉で言えば、「国際政治に『絶対』はない」ということになります。

当時の国連難民高等弁務官は緒方貞子さんで、国境を超えて、つまり、内政不干渉原則を侵して、イラクのクルド国内避難民への援助を決断し、実際にそれを行いました。この行為はある人たちからは賞賛され、ある人たちからは批判に晒されました。私は、こうした行為がこれまでの国際政治の構造を変えるものとなるのではないか、と、正直言って、知的興奮を感じながら事態の推移を眺めました。

これらすべての問題は突き詰めると「主権」をいかに捉えるかという問題に収斂していきます。思い出してみましょう。柴田ゼミの初年度のテーマは「主権の再検討」でした。2年目が「正しい戦争」。3年目が「難民は夢を見るか」。4年目が「保護する責任」。この4年を通じて私が考えたかったのは、国家と戦争と主権と国民と人権の関係だったと思います。K君のテーマは柴田ゼミのツボだったと言えます。ちなみに、5年目の去年のテーマは「1989 時代は角を曲がるか」というもので、5年間を総括するものとなりました(ゼミ生とは関係ないですが)。私は、この5年でこの主権をめぐる問題に自分なりの答えを出したつもりです。今年の1月には現4年生に、そのまとめとなる、この500年の歴史の見取り図の話をしました。ここでそれを詳しく述べられませんが、500年前に角を曲がった人類の歴史はあと500年は角を曲がらない、最近曲がったように見えるのは表面だけの話だ、という話をしました。あれで、世界史に目が啓かれていればいいんですがねえ。(ぜひ『ウェストファリアは終わらない』を読んで下さい。)

さて、その「主権」です。主権国家は主権国家であるが故に、他国からの干渉は受けない、というのがこれまでの国際社会のルールでした。これは近代のヨーロッパに発したルールですが、第2次大戦後までは、ヨーロッパ以外に主権国家がほとんど存在しなかったために、ヨーロッパ以外の地域ではヨーロッパ諸国が好き勝手に振舞いました。それに楯突いたのが日本で、日本は見事に砕け散りましたが、しかし、その後の世界はそれまでの世界と一変し、アジア・アフリカ諸国が独立を果たし主権国家となり、ヨーロッパ諸国が作り出したルールをかつての植民国だったヨーロッパ諸国に強いるという関係が出現することになったわけです。つまり、独立した新興主権国家は、平和5原則や平和10原則に見られるように、ヨーロッパ諸国に対してヨーロッパで生まれた価値である内政不干渉原則を声高に浴びせるようになったわけです。

 しかし、世界を見渡せばすぐに分かることですが、内政干渉は日常茶飯事です。今起きているリビアの問題でも、イギリスやフランスはずぶずぶに干渉をしています(近くその作戦「人魚の夜明け」についてゼミクシィに書きます)。つまり、主権という原則や内政不干渉という原則は言うほどにもなく脆弱なのです。多くの弱小国が主権尊重や内政不干渉を事ある毎に叫びますが、それはそうしなければそれらが守られないか、そうしてもなお守られていないことの証明なのです。要するに、国際政治に「絶対」はないのです。絶対を目指せば、巨大な軍事力が必要となり、それが再び絶対を突き崩す事態を招く、つまり、絶対はない、というのが国際政治なのです。

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