2019年5月20日月曜日

第109回【紛争のルーツ――植民地主義①】

2014年度、柴田ゼミでは「植民地主義」をテーマとしました。

今更という感じもしなくはないのですが、世界の紛争の多くの淵源が今も植民地時代の様々な出来事に求められることから、紛争の現代的な表面だけでなく、歴史を遡る必要を常々痛感してきました。2014年度は、そうした問題意識から「紛争のルーツ――植民地主義」と題してゼミを行いました。以下、2014年度のご報告を致します。

ゼミ生には、以下のように、私の問題意識を伝えました。

世界では日々紛争が起きています。それが武器を用いた軍事的な紛争や戦争に発展することもありますが、現代では、国家間の戦争よりも国内の内戦の方が深刻な問題となっています。テロも同様に問題ですが、これも国家間の問題というよりは、ある意味、国内問題という感じもします。むしろ、「国家間」とか、「国内」という表現よりは、「国境を超えた問題」というのが一番正解に近いのかもしれません。

紛争が起きると、その原因について様々な解説がなされます。それらを見ていると、そもそもの紛争の原点が、過去を遡って、ヨーロッパ諸国の植民地主義にたどり着くことが珍しくありません。いかにも21世紀型の紛争のように見えて、実は、そのルーツは20世紀以前にあるという例がよくあるわけです。私たちは依然として20世紀よりも前の時代の延長線上に生きているのではないでしょうか。

私たちの生まれ生きる日本は、幸い、植民地にされる経験をしませんでした。アジア・アフリカ諸国で唯一植民地にならなかった国と言っていいと思います。ですから、「植民地となる」ということがどういうことであるのかということについて、幸いなことに、私たちは骨身に沁みては知らないことになります。

よく、ある国は昔どこそこの(ヨーロッパ諸国のどこか)植民地だった、というようなことを言います。たとえば、シンガポールは昔イギリスの植民地だったことは多くの人が知っています。しかし、それは本当でしょうか。もちろん、間違いではないのですが、話はそんなに単純でしょうか。実は、シンガポールはそもそもはオランダの植民地だったのです。そのオランダがナポレオン戦争で敗れて独立を失った時に、植民地の管理をイギリスに委ねたのです。独立を回復したら返還するという条件付きで。長い時間が掛りましたが、イギリスを始めとする諸国がナポレオンのフランスに勝利したのが1815年、その講和の条件を話し合ったのがウィーン会議でした。約束通りイギリスがオランダに植民地を返還したかと言えば、そうはいきません。イギリスの世界支配にとって重要と思われる場所は結局返還されずイギリスの植民地となったのでした。オランダはすでに落ち目だったのでこれを飲まざるを得ませんでした。だから、シンガポールが単純にイギリスの植民地だったと考えるのは、たぶん、間違っているのです。オランダ時代の影響も残っているに違いない、と考えなければならないと思います。

要するに、私たちは、植民地主義がヨーロッパ以外の地域にどのような影響を与え、今も与え続けているかについて無知なわけです。これで世界中で起きている紛争が真に理解できるわけがありません。まずは、ヨーロッパ諸国の植民地主義がいかなるもので、他の地域にいかなる影響を及ぼしたかについて勉強してみようと思います。

植民地主義の実態とその影響という、2014年度の柴田ゼミのプロジェクトは、どう考えても複雑で膨大になる可能性があります。それらをどう整理してゼミで勉強できるように加工するか(すなわち、どこを取りどこを捨てるか、つまり、いかに絞るか)が私の腕の見せ所となるのですが、もしかしたら、このプロジェクトは1年間のゼミとしては野心的過ぎるかもしれません。


ヨーロッパ以外の地域のすべてがヨーロッパ諸国の植民地になったわけですし(考えてみれば、これは凄い話です)、その歴史はコロンブスの時代にまで遡ります。これを勉強するのはなかなか大変なことです。時代を区切るか、地域を区切るか、様々な方法があると思います。2014年度のゼミの準備のために、私は、でっかい世界地図を買いました。これに這いつくばって色々の地域を見ながら、どうしようか考えようと思っています。

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http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年4月15日月曜日

第108回【ひとを殺す道具⑩】

人間は、味方を守るために武器を用いて敵と戦い、必要があれば武器によって敵を殺します。また、人間は、社会秩序を守るために、味方の中にいる社会的な敵を処刑の道具によって殺します。人間は誰かを「ひとを殺す道具」を用いることで殺しながら生きてきたと言えるのかもしれません。人間はひとを殺さずに生きられない存在なのでしょうか。

人間が、他の動物とは異なって、同類を殺す行為を行い続けてきたのは、たぶん、本能によっては生きられない存在だからなのだと思います。本能によってこの世界に適応する人間以外の生き物は、人間のように同じ種の生き物を大量に殺すようなことをしません。人間は、たぶん、どこか狂っているのです。私は、それは本能が壊れているからだ、と考えています。その壊れた部分から生み出され発展しているものこそ武器なのだと思います。それを用いて人間が人間を殺すことで人間は辛うじて「人間の世界」に秩序をもたらしてきたのかもしれません。人間の存在そのもの(実存)と関わりがある以上、武器がなくなることはないのだと思います。問題は、それを使わずに済ますことが可能かどうかだと思いますが、人間にそれが可能でしょうか。

ヨーロッパを始めとする多くの国では死刑が廃止されています。もしそれが長く継続されるとすれば、処刑の道具を使わない決意をし、それを実行していることになります。果たして、それは継続されるでしょうか。人を殺すことなく社会秩序が保たれるのであれば、それは画期的なことですし、それが可能であればそれに越したことはないのです。

柴田ゼミは国際政治のゼミだ、とはいつも言うことです。だから、テーマは「戦争と平和」たらざるを得ません。武器は、戦争を戦うために使われ、平和を守るために使われ、また、正義のために使われ、あるいは、不正のためにも使われるという両義的な存在です。問題の核心は武器でしょうか。私は、やはり結局、問題は「ひと」であると思わずにはいられません。人間とは何か、これこそがゼミのテーマだと再確認し確信した一年でした。飛躍しますが、だから、いつも言うように、文学が必要になるのです。

ゼミで時々見せる映画『2001年宇宙の旅』の冒頭シーンでは、猿、あるいは、類人猿が武器である棍棒を空に投げ上げ、その棍棒がパッと宇宙船に変わるシーンがあります。このシーンが意味するものは、道具の進歩に対して人間は実は猿のままなのではないか、というもので、私はキューブリックのこの問いかけに、確かにその通りかもしれないと思うのです。私たち人間は果たして、棍棒で戦っていた類人猿と大きく異なる存在でしょうか。異なる存在ではないとすれば、異常なまでに発達した道具を使いこなしそれを制御する能力を持っているのでしょうか。あるいは、道具の発展と同時に人間はその人間性を発展させてきたのでしょうか。私は現代の人間が過去の人間よりも高級であるとはとても思えません。たぶん、同じなのではないでしょうか。同じように賢く、同じ程度に馬鹿なのではないかと思います。

道具の進歩に人間は適応し続けられるでしょうか。人間そのものが適応できなくなるとすれば、どのようにして道具の進歩を制御すればよいのでしょうか。

結論から言えば、それを制御する制度を生み出し、その制度を発展させる以外にないのだと思います。人間性に期待するのではなく、人間の作り出す道具を制御する制度(これも道具か?)を人間が作り上げるのです。これなら可能でしょうか。私はこれなら辛うじて可能ではないか、いや、これを可能と思わなければ人類は存続できないと考えます。

人間がわざわざ教育を必要とし、社会制度を確立し、文化を生み出し育てるのは、すべて本能によっては生きられないからです。逆にいえば、教育も制度も文化・文明もすべて人間の足りないところ(本能が壊れているというところ)を補うために人間が生み出したもので、いわば、広い意味での人間ないしは人間性の一部なのです。そう考えると、武器も人間の一部なのかもしれません。人間そのものが変わらない存在だとしても、人間の延長線上にある制度を発展させることは可能ではないかと思います。そして、それは、ある意味では、人間性の進歩でもあるのです。人間は武器を、もっと広くは、科学や技術の発展を自ら制御し続けられる存在でしょうか。正直に言いますが、私は、少し怪しいかなと不安に思っています。

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2019年3月30日土曜日

第107回【ひとを殺す道具⑨】

総括の講義のご紹介を続けます。

そもそも武器は道具に過ぎません。いわば中立の存在です。誰が何のために使うかということが、実は、真の問題なのです。その意味で、武器は両義的な存在と言えます。ひとつの武器が、不正に人を殺すこともあれば、正義のために人を殺す場合もあるのです。そう考えると、真の問題とは、「正当に人を殺す」ということの意味であることが分かります。人を殺すことはいけないというのは簡単ですが、それが正義のためであるということがあるのです。戦争がその典型例であると言えます。

それにしても、仮に人を殺すことが正義であることがあるとしても、これほどまでに武器を開発し発展させる必要があるものでしょうか。考えれば考えるほど不思議な感じがします。人間はちょうどいいところで何事かをやめるということができない存在なのかもしれません。

「ひとを殺す道具」は一般に以上のような両義性を持つ存在なのですが、例外があります。この例外を今年のゼミで発見できたことも収穫でした。ひとつは「こども」、もうひとつは「処刑」です。

こども兵の問題はこれまでのゼミでも何人かが取り上げてきました。しかし、こどもそのものを武器と見立てる見方は初めてだったと思います。こども兵の問題を取り上げる場合には、普通、そのこどもの悲惨さやそうしたこどもを生む社会の問題を論じるのが普通です。しかし、今年のゼミでは、こどもそれ自体を武器に見立てて、こどもをいかにして武器に仕立て上げるかというプロセスに着目してFさんが論文を書きました。こどもを武器と見立ててみると、この武器が他の武器とは異なった特色を持つことに気が付きます。すなわち、誰が何のために使うかによってその武器の善悪が分かれる、つまり、武器そのものは中立であるのに対して、こどもという武器は武器そのものが端から不正以外の何物でもありません。人によっては、核兵器が同じ性質をもった兵器だと主張するかもしれませんが、私は核兵器も中立の存在であると思っていますので、こどもという兵器は例外中の例外と言っていい存在であると思います。存在そのものが絶対悪であるような兵器、こどもを兵器に仕立て上げるとはそういう兵器を作り生み出す行為であるということができます。ちなみに、映画「ブラッド・ダイヤモンド」でこうしたシーンをかなり詳細に見ることができます。

もうひとつの例外が処刑の道具です。処刑の道具は、Hさんが論文で詳しくレポートしてくれたように、大昔から様々なものが開発されてきました。とはいえ、それは武器ほどのバラエティと発展の度合いがあるわけではありません。処刑の道具は人を殺すためだけに作られる非常に用途の狭い道具です。ギロチンで大根を切る馬鹿はいません。

処刑の道具が非常に特別であるのは、その用途が正義を前提としているということであると思います。つまり、本来、社会に秩序を与えるために用いられる道具であるということです。もちろん、いかなる権力者の下においても正義がなされるとは限りません。だから、処刑の道具も正義のためだけに使われるとは限らないことになりますが、それでも、他の武器が中立であるのに対して、処刑の道具は中立とは言えないと思います。また、処刑の道具が守っているものは単なる味方ではなく、社会秩序であるので、敵は味方の中にいるということになります。この点がこの道具の特異なところです。

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2019年3月16日土曜日

第106回【ひとを殺す道具⑧】

2013年度は、「人を殺す道具」をテーマとしてゼミを行いました。年度末には「武器の両義性」と題して恒例の締めの講義を行いました。何回かに分けてこの講義をご紹介致します。

今年のゼミのテーマは「ひとを殺す道具」でした。当初考えていたよりもはるかに難しいテーマだったと今になって思います。「ひとを殺す道具」を最初は素直に「武器」と考えていましたが、それについて真面目に考え続けてみると、人を殺す道具が武器だけないことに気が付きました。そもそも私のこのテーマの原点には、「人殺しのハードとソフト」という関心があります。去年のテーマ「民族自決」はそのソフト、一昨年のテーマ「核兵器」はそのハードだったわけで、今年のテーマ「武器」は一昨年の延長戦の感じが濃厚にありました。ところが、核兵器のような単一の武器から、テーマを、武器一般に広げてみると問題意識も拡散してしまったような気がします。

そもそも武器とは何でしょうか。ピストルや大砲、戦闘機や空母、地雷やミサイルというのは非常に分かり易い例です。戦争に使われる、あるいは、使われたものということで言えば、犬や馬、鳩でさえも武器の一部と考えることができるかもしれません。

ゼミの開始前に、つまり、テーマだけ決めてまだ新学期が始まっていない頃には、私は、戦争の仕方、すなわち、戦略、戦術に大きな影響を与えたものとして、腕時計を取り上げてお話をしようかと思っていました。腕時計が初めて使用されたのは、実は、ボーア戦争におけるイギリス軍においてで、時刻を決めて、かなり離れた場所で正確に同時に戦闘の開始を行えるようになったという点で画期的な出来事でした。腕時計のようなものでさえも、すこし遠回りではあるけれど、人を殺す道具たり得るのだという話をかなり詳しくしようと思っていたのです。

しかし、ゼミでこのテーマを考えるうちに、私の考えは別な方向に向かいました。道具そのものよりもむしろそれを使うことの意味を考えるようになったのです。

そもそも武器は両義性を備えた存在です。敵を殺すための道具であると同時に、武器は、味方を守るための道具です。戦争であれば、敵は敵国であり、味方は祖国ということになります。現在ではなかなか単純にはいきませんが、戦争では、敵と味方の軍隊が武器を持って戦うわけです。そこにはルールもあります。ところが、現代においては、話はもっと複雑になりました。軍隊を背後で支える国民も武器のターゲットの一部になりました。ゲリラ戦やテロにおいては、誰が敵で、誰が味方なのかもよく分からない状態です。

武器の両義性――敵を殺し味方を守るということ――を考えると、もっとも重要なことは、敵と味方の峻別、言い換えれば、誰が敵かを確定することです。究極的には、味方を守るために武器を用いて敵を殺さねばならないからです。学生時代にカール・シュミットの『政治的なものの概念』を読んで、政治の核心は「友と敵の区別」であるという有名なテーゼは知ってはいたのですが、今年のテーマを通じてそれを再発見したような気持になりました。いや、身に沁みて分かったと言うべきかもしれません。

人殺しはいけない、と言われます。もちろん、そうです。しかし、究極的な局面でもそれは一貫できるものの考え方でしょうか。できるのならば、なぜ人は「ひとを殺す道具」を作り続け使い続けるのでしょうか。あるいは、場合によっては、人は人を殺さなければならないのでしょうか。そうだとすれば、それはどんな場合でしょうか。私の関心は、道具よりもむしろ「人を殺す」ということの意味の方向に向かったのでした。

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2019年3月1日金曜日

第105回【ひとを殺す道具⑦】

「権力は銃口から生まれる」とは毛沢東の言ですが、その銃を国旗にあしらっている国があります。これに着目して小型武器の代表であるAK47をテーマとしたゼミ生が2人いました。

モザンビークの国旗にはAK47と鍬が描かれています。植民地だったモザンビークはまさにAK47を用いて戦い自らの独立を勝ち取り、それを国旗にも表現したわけですが、日本人にとってはその国旗はいかにも不穏な感じがします。

AK47、通称カラシニコフは、世界で最も多く実戦で使用されている小型武器です。もともとはソ連製で、この銃を設計したカラシニコフ氏の名前が通称として用いられ、あまりにも優秀な銃なので、多くの国でライセンス生産がなされ、また、無断でコピーされて世界中に、特に紛争地に行き渡りました。部品数が少なく、単純な設計なので、扱いが簡単で、故障が少なく、俗に調子が悪くなっても蹴飛ばせば動き出す武器なのです。元国連事務総長であるコフィ・アナンは、この銃を「事実上の大量破壊兵器」と呼びました。この銃の犠牲者はそれほどに大量なのです。

ゼミ生が指摘していますが、銃は確かに、ひとを殺す道具という側面を持っていますが、それはまた、戦って勝ち得た「自由と独立」を象徴するものでもあります。モザンビークの国旗はその武器の両面性を象徴するものだと言えます。

カラシニコフが貧者の武器であるとすると、攻撃ヘリコプターや劣化ウラン弾は、どちらかというと富者の兵器と言えるものです。

ヘリコプターは戦闘機に比較して脆弱な部分もありますが、機動性において極めて優れています。空中の同じ位置に止まることができ、即座に方向転換ができ、超低空を飛ぶことも可能です。ブラックホークがその典型ですが、現在では、攻撃に特化したヘリコプターが登場して戦場で多くの役割を果たしています。

そのヘリコプターからも発射される兵器のひとつですが、禁止されるべき兵器の候補にもあげられることのある劣化ウラン弾をテーマとしたゼミ生がいました。

劣化ウラン弾は、原子力発電や原子爆弾を作る過程で出る劣化ウランを材料とした兵器です。通常の兵器で使用される素材よりもはるかに比重が重い素材であるために(200㏄程度の容量で4㎏の重さがあるそうです)、兵器としての威力が大きくなります。また、それが戦車や戦艦・空母に命中して貫通するときに放射線を発します。それ故、劣化ウラン弾は事実上の核兵器であるとして非難し、その使用を規制すべきだと主張する人たちも存在します。

以上のように、学生たちは多様な「ひとを殺す道具」を取り上げ、それらの実態と、場合によっては、その意味について論文を仕上げました。

正直に言いまして、武器それ自体を取り上げることはそれほど難しいものではなかったと思いますが、それが使われる意味を考える段になると、格段に困難が増したように思います。武器は紛れもなく「ひとを殺す道具」であり、その側面では否定されるべきものであるわけですが、それが使用される文脈を考慮すると、それを単純に否定して済むものでないことは明らかです。


私も1年間この問題を考えて、ゼミ生たちと同じ問題に直面したように思います。次回から、私がゼミ生に話した1年間の総括の講義を再録致します。

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2019年2月15日金曜日

第104回【ひとを殺す道具⑥】

ゼミ生たちは様々な兵器を論文に取り上げましたが、すでに国際条約で禁止された兵器を取り上げたゼミ生が複数いました。

化学兵器を取り上げたゼミ生、化学兵器の中の、特に、マスタードガスを取り上げたゼミ生、地雷を取り上げたゼミ生、クラスター爆弾を取り上げたゼミ生の論文がそれに当たります。

化学兵器は多様ですが、すでに1925年のジュネーブ協定によって、その使用は禁止されています。さらに、1997年にはより包括的な化学兵器禁止条約が締結されていて、化学兵器は、使用のみでなく、開発・生産・貯蔵も禁止されるようになっています。

問題は、それでもなお、その生産を続ける諸国が存在し、最近もシリアでその使用が疑われていますが、使用を躊躇わない国も確かに存在しているということです。そもそも、条約こそ存在しますが、それに加盟していない国も多数存在しており、そうした国には、道義的には、確かにこうした条約の制約が機能すると言えなくもないのですが、実際には、そうした国に対しては、条約の拘束力は存在しないのです。

また、オウム真理教のサリン事件に端的に表れているように、国家とは異なる主体、たとえば、テロ組織のようなものですが、こうした集団に対する、この条約の拘束力は絶無と言ってよいと思います。サリンのような化学兵器の場合は、サリンの製造にしか使用しない薬物を使用するので、その流通を規制することはそれほど困難ではありませんが、それでもなお、日本においてオウムは大規模な形でサリンを製造しました。ゼミ生が取り上げたマスタードガスの場合は、サリンと異なって、かなり汎用性のある一般的な原材料が用いられるために、それを完璧に取り締まることはかなり難しいと言えます。

テロ集団が化学兵器を獲得することは最悪の事態と言えるものですが、私たちの社会はそれを阻むことができるでしょうか。

地雷は、その残虐性はもちろんのこと、その数の多さや撤去の難しさなどから世界中で大きな問題となっています。
1999年に対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)が成立しました。この条約は、NGOが主導し、国家を巻き込んで成立したものとして大きな話題になりました。しかし、他の兵器の禁止条約と同様に、この条約に参加していない国を規制することは当然できませんし、また、地雷の使用目的が近年大きく変化するのに伴って、地雷の使用を抑制することも難しくなってきているようです。

地雷の使用には、戦争時における軍事目的の使用と、ある土地から人を排除するために使用される非軍事目的の使用とがあります。近年、内戦の多発によって、非軍事目的の使用が多く見られるようになりました。ある一国の国境内部の内戦の中で用いられる非軍事目的の地雷の使用を他国が外から抑制することは極めて難しいことです。しかし、内戦が終了した後に与える影響、すなわち、無数の地雷を撤去し、元の土地にそれを戻すことを考えると、地雷の存在が内戦終了後にも大きな障害となることは言うまでもありません。地雷の影響は非常に長く続くものなのです。

一番新しく禁止条約が締結された兵器がクラスター爆弾です。どこかSF的な爆弾ですが、一つの親爆弾の中に子爆弾が数十から数百含まれていて、目標地点の上空で親爆弾が弾けることで子爆弾が広範囲に渡って降り注ぐという爆弾です。この爆弾の最大の問題は、非常に多くの不発弾が発生するということで、それら不発弾を子どもが拾い、それがその後爆発するというような被害が不断に起きているのです。

2008年にオスロにおいてクラスター爆弾禁止条約が締結されましたが、これまでの兵器の禁止条約が抱えているのと同様の問題、つまり、条約に参加していない国家を抑制はできないという問題がこの条約にもつきまとっています。

それでは、条約に参加しない国を抑制できない禁止条約は無意味でしょうか。ごく最近では、核兵器の禁止条約が2017年に結ばれましたが、核兵器を持った国々はどこもこの条約に参加していません。この条約は無意味でしょうか。確かに、無意味であると断言するような人もいます。


しかし、国際社会において、多数の国家が真に禁止すべきであると考える兵器の禁止条約が多数の国家の参加の下に成立するとすれば、それに参加しない国家にも道義的な制約が加わることは間違いのないことです。国家は冷酷に国益を追求する存在でもありますが、また、国際社会において名誉を欲する存在でもあります。そして、この「名誉欲」は案外大きな影響を国家に及ぼすのです。だから、非人道的な兵器の禁止条約は、それに参加しない諸国に対しても何らかの影響力を持っていると考えるのが正しい、と私は思います。ゼミ生の4分の1がこうした「禁止された兵器」を取り上げたのですが、彼らはそうしたことを無意識に感じているような気がしました。


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2019年1月30日水曜日

第103回【ひとを殺す道具⑤】

ゼミ生の中には、従来から存在する兵器であるものの、それが実際にはどのようなものなのかよくわからない、という兵器をとりあげた者もいました。そうした中でも、潜水艦と対潜哨戒機と魚雷はそれぞれが密接にかかわった兵器です。

潜水艦は、どちらかと言えば、地味な印象がありますが、イギリスで刊行される海軍年鑑であるジェーン年鑑では、戦艦や空母を差し置いて、筆頭に記載されています。戦艦がすでに第2次大戦末期には時代遅れになりつつあったことは周知のことですが、空母も最近では、高高度から防ぎようのない高速で飛来し空母を破壊する最新のミサイルの存在から、その戦力としての存在を疑う議論もあります。もちろん、アメリカの空母群の存在は強大ですし、中国も空母をさらに持とうとしていますし、日本も空母(例によって、呼び名は別のものにするようですが)の保有に向けて動き出しました。こうした戦艦・空母とは異なって、潜水艦の重要性は不変であるようです。

潜水艦の最大のポイントは「隠密性」にあります。潜水艦は、自己の存在に誰からも、場合によっては味方からも、気付かれることなく運用され、時が至れば、敵への攻撃を開始できなくてはなりません。「隠密性」が失われれば、潜水艦とは単なる標的に過ぎなくなる存在なのです。

潜水艦は、隠密性が確保される限り、敵国の艦船や、敵が沿岸国であれば、その沿岸にまで接近して確実に攻撃を成功させることができます。攻撃という点では非常に強力な兵器であるということが言えますが、何度も言いますように、それは隠密性が確保された場合の話です。それ故、潜水艦の運用上は、隠密性の確保に最大の労力を割くことが必要になります。

その潜水艦を探し発見し、場合によっては、それを攻撃する存在が対潜哨戒機です。哨戒機は、ソナー(パッシヴとアクティヴがあります)によって、海中の音を分析し、潜水艦の存在を探索するのですが、ソナーによって敵潜水艦を探索するという点では、潜水艦が行っている仕事とまったく同じです。

現代においては、潜水艦の性能が非常に高くなり、また、日本の海上自衛隊などは、その運用が極めて優れているために、哨戒機が潜水艦を発見することは奇跡に近いと言われています。それでも、哨戒機はわずかな可能性を求めて哨戒活動を行っているのです。ちなみに、哨戒機は潜水艦のみならず、自国海域の他国艦船への哨戒も行っています。

潜水艦が他の潜水艦や艦船を発見し、もし攻撃を加えるとすれば、また、哨戒機などが潜水艦の存在を確認し、それを他の戦闘機などが攻撃するとすれば、利用する武器は魚雷ということになります。『レッド・オクトーバーを追え』などの小説で描かれているように、存在を確認され、魚雷のターゲットになった潜水艦や艦船がその魚雷の攻撃をかわすことは、現代においては、非常に難しいと言えます。デコイ(囮の物質)を撒いて回避行動をとるわけですが、潜水艦にしても戦艦や空母にしても魚雷の探知能力やスピードをかわすことは至難の業です。

魚雷の威力を考えると、やはり、隠密性を確保した潜水艦の優位は簡単に揺るがないように思われます。それ故、現代の海での戦いにおいて最大に重要となるのは、潜水艦の乗組員の、自己の隠密性を確保し、敵の隠密性を暴く能力の開発ということになります。つまり、日ごろの訓練と演習が最大に重要となるのですが、知れば知るほど、それは神経戦の様相を強めるものとなります。

日本では、教育の場において、軍事を取り上げる機会が非常に少ないために、潜水艦をめぐる戦力が海上ではもっとも重要なものとなっているという事実は、ほとんどの人が知らないままになっているのではないでしょうか。

また、日本人として知っておかなければならないものとしては、人間魚雷があります。空においては特攻が有名ですが、海の特攻、人間魚雷の存在も忘れられてはならないものです。横山秀夫の小説『出口のない海』は、人間魚雷の乗組員になった若者を描いた小説で、市川海老蔵さんを主役とした映画にもなりました。人間魚雷「回天」は、唯一実物が靖国神社の遊就館で見ることができます。

ゼミ生の論文を読んで痛感したことですが、日本人はもう少し軍事の勉強をしなければならないと思います。

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