2020年8月30日日曜日

第140回【冒険のおわりに】

 2014年から約6年に渡りまして、学習院大学法学部の柴田ゼミにおける知的冒険についてご報告してきました。まさかこんなに長くなってしまうとは思ってもいませんでした。

最も実感したことは、大学の教育は馬鹿にできないなということです。ゼミは他の授業と同じように1年間で25回程度行われます。1回わずかに1時間半の授業に過ぎませんが、この連載でご報告しましたように、かなりの分厚い勉強が出来ることがお分かり頂けたのではないかと思います。どの講義でも教員から学生に伝えられる情報量はかなりのものになりますし、それを基に学生がテストやレポートの準備のためにする勉強を考慮致しますと大学生が学生時代に身に付ける(かもしれない)知識は相当の量になると考えられます。


私のゼミについての報告は、すべてのゼミ生たちのゼミ論(昔風に言うと「卒論」)が文書として残っていることと私の講義メモが詳細であることによって可能となりました。私はどのような授業でもその講義内容を事前に文章にしておくことを自分に課してきました。学生やゼミ生にはレジュメを渡しますが、私の手元にはスクリプトがあったのです。ただし、それを読むようなことをしたことはありません。講義はそれでは生きないからです。カンニングペーパーは作ればそれでお仕舞で、講義中にペーパーを見ることはしません。


学習院の柴田ゼミの場合、ミクシィ型のホームページがありましたから(今もあります)、講義の後にはそこにスクリプトを載せるようにしていました。それが今回の連載では生かされました。ホームページ上の文章は、もっと学生に語り掛けるようなくだけた調子も含まれていたのですが、連載では少し手を入れました。


この連載ですべてのゼミ生の論文をほんの少しでもご紹介できたことは成果でした。これを機にすべてのゼミ生のゼミ論を読み返せたこともとてもよかった。成績を付ける時に不十分に思えた論文も、時間を経て読んでみると、案外よく書けているように思えました。年を取って甘くなったのかもしれませんが。


11年を振り返って、私の関心が移ろったことも、そして、案外一貫していたことも分かりました。ゼミ開始当初は、国際政治システムがこれからどこへ向かうのかに関心がありました。このことに最も影響があったのは「主権国家は大きな問題には小さ過ぎ、小さな問題には大き過ぎる」というダニエル・ベルの有名なセリフでした。つまり、現代に生きる私たちが直面する諸問題に対処する主体として主権国家は適正な規模であるか、という問題です。


この問題については、ゼミでの議論が深まるにつれて、私の中で結論が導き出され、『ウェストファリアは終わらない』という本に結実しました。主権国家は時代遅れの存在であるという定説に対して、主権国家に取って代わる存在は今のところ見当たらない、故に、主権国家からなる国際政治の構造は当分の間(500年位か)変わらないというのが私の結論でした。当初は考えてもみなかった結論で、我ながら意外でしたが、今では確信の域にまで至っています。


この問題に結論を出してから数年間は「ひとを殺すハードとソフト」に関心が向きました。核兵器を始めとする兵器類の話やデモクラシーですら場合によってはひとを殺すソフトになるという話をゼミのテーマとしました。私は戦争と平和に関心があって国際政治の勉強を大学生の時に始めたわけで、ゼミのテーマがこのような方向に向かうのはある意味当然のことでした。


ゼミ最終年はロシアをテーマとしました。国際社会の平和を考える場合、実は、ロシアの位置づけが極めて重要で、冷戦時代はもちろんですが、冷戦後ますますその重要度は高まっているように思います。中国の台頭を考慮すると、ロシアを中国側にではなく、現状維持諸国の側に引き付ける必要がどうしてもあるように私には思えますが、これがうまくいっているようには思えません。それどころか、こうした認識がアメリカを始めとする現状維持諸国の間にきちんと存在しているかどうかも疑問です。最終年にロシアをテーマとしたことは、ロシアそれ自体への興味というよりは、国際社会をより平和に導くためのロシアの位置づけについて考えてみたいということが動機だったのです。


今年2020年はコロナの年として記憶されることは間違いないように思います。大学生の勉強の環境は大きく変化しつつあります。この「つつある」というところが問題で、行きついた先にはそれなりの環境が出来上がるのだと思いますが、現状は明らかに過渡期で不十分です。ロヒンギャ難民にゼミ生たちがインタビューに行ったり、その報告会を焼き肉屋でやったり、アフガニスタンの難民をテーマとしたゼミ生が皆を誘ってアフガン料理の店に食事に行ったりといったことが後々になっても忘れられない記憶なわけですが、こうしたことは今後気楽にできることではなくなる可能性もあります。


大学の4年間は、間違いなく、貴重な勉強の機会です。それは柴田ゼミの冒険を振り返ってみて確信できることです。これからも大学がそうした場を学生たちに提供し続けることを願ってやみません。


最後に、連載をお読み頂きました皆様、本当にありがとうございました。



2020年8月15日土曜日

第139回【ロシアの生理⑫】

 冷戦後のNATOの東への拡大は、NATO側にそんな意図はなくても、ロシア側からはヨーロッパのロシアへの進撃の準備と受け止められます。臆病でヨーロッパに猛烈に劣等意識を持っているロシアは、ヨーロッパとの間に分厚い緩衝地帯を求めます。ポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ウクライナ、ベラルーシ、バルト3国、フィンランドなどをロシアに吸収できないのであれば、少なくとも、ヨーロッパに吸収されることだけは防ぎたいのです。そうでなければ安心ができないのです。

唐突ですが、冷戦後にソルジェニーツィンがロシアに帰国して、ソ連に対する猛烈な反体制派だった彼が、ソ連的な帝国を支持するような主張をし始めました。私には、これがまったく理解できませんでした。ソルジェニーツィンはソ連からアメリカに亡命して、アメリカの文化と社会の醜悪さに顔をしかめていたのは知っていましたし、それはそれでさもありなんと思ったのですが、帝国への回帰とは驚かされたものです。しかし、ロシアが近代化できない以上それに代わる何ものかが必要であることは間違いありません。


ロシア人は、極めて思想好きです。理想に対する過剰な思い入れが目立ち、イデオロギーなくしては生きられないと見えることがあります。近代化がうまくいかず、それでも自分たちの社会を肯定しなければならないとすれば、ヨーロッパの近代化とは異なったイデオロギーを生み出さねばなりません。共産主義はそうした、自分たちの言動を強化し裏付けるためのイデオロギーだったと考えられます。ソルジェニーツィンは、共産主義後のイデオロギーのヒントを与えたのかもしれません。共産主義時代に反体制派だったのだから、西側の私たちはてっきり彼が自由民主主義を選び取ると勘違いしていましたが、ロシアに対する理解と愛情の深いソルジュニーツィンは、ロシア土着の「帝国」しかないと考えたのだろうと今になって思います。共産主義に対する批判もここから来ていたのかもしれません。そう考えると、ソルジェニーツィンは何も変わっていなかったのです。


さきほど少し触れた「ユーラシアニズム」が次世代のイデオロギーの候補であることは間違いないと思います。ロシア人はこうしたイデオロギーなしに生きられないのです。現在のロシアでは、土着のロシア性を肯定した反西欧的なイデオロギーが出現していると考えなければならないのかもしれません。


ロシアの国際社会における多様な行動の奥底には、臆病と劣等感があると論じてきました。こうしたロシアをもっとも理解して、ロシアを世界秩序のどこに位置づけるかについて考えていたのが、私はジョージ・ケナンであったと考えます。過大評価でしょうか。しかし、NATOの拡大に反対した西側の知識人は、私の知る限り、ケナンしかいません。私たちは、ケナンほどにロシアを理解し、その上で、国際秩序を構想してきたでしょうか。


すでに手遅れの感が強くするのですが、私たち西側の人間は、冷戦の終焉直後に「ロシアとは何か」についてもっと真剣に考えるべきだったと思います。ロシアは、仮に冷戦の敗戦国であったとしても、依然として重要な大国でした。それを国際秩序の中にうまく位置づけなければ、混乱が起き、望まぬ秩序の流動が起きるのは仕方のないことでした。勝って謙虚に自己を変革することは確かに難しいことですが、冷戦後の西側諸国が行わねばならなかったのは、負けたロシアを新たな現状にしっかり受け入れるために自己を変革することであったように思います。


人も国家も実に厄介な存在です。人が、そして、国家が、この世界で平和に生きるためには、知的怠慢に陥らず、根気よく他人あるいは他国との付き合いをする以外にありません。そう、シーシュポスのように生きるしかないのです(この件については、『ウェストファリアは終わらない』参照)。


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2020年7月30日木曜日

第138回【ロシアの生理⑪】

この500年は明らかにヨーロッパ基準の時代でした。世界中のすべての国がヨーロッパの諸国に支配されるか、それをモデルとして国家作りをするという時代だったわけです。これを「近代化」と呼ぶとすれば、近代化に成功した国もあれば、失敗した国もあります。ロシアはかなり古くからヨーロッパを目指し、そして、それが実現しない代表的な国です。いつまでも近代以前の帝国的な土着性を拭うことが出来ずにいます。それに対して、日本は「近代化」にもっとも成功した国であると言えます。100年以上前の日露戦争の結果が日露の対照的な差を現したものだったのかもしれません。

現代のイスラムの活動は、この近代のヨーロッパ基準に対抗するものと理解できます。それ故、軍事力によっては雌雄は決しないと考えるべきです。社会とその社会を支える精神の魅力こそが勝負で、「戦う」ことの意味を私たちはよく考えねばなりません。

中国やロシアにも同じことが言えるかもしれません。中国についてはここでは詳しく論じませんし、中国の社会のあり方が近代ヨーロッパに発する社会のあり方に比較してどのように異なり、どこが優れているのかを中国自身がまだきちんと外の世界に向かって提出できているとは思えません。ロシアについては、最近、ユーラシアニズムという考え方が広く受け入れられるようになりつつあるように見えます。ロシアの拭い難い後進性の元凶こそ「帝国」的な国家のあり方なのですが、ヨーロッパに発するリベラリズムに対する防壁こそ「帝国」なのであり、リベラリズムの前進を停止させるためにもユーラシアに帝国を再び築かねばならないという議論が出てきています。ウクライナやベラルーシ、カザフスタンやウズベキスタンといった旧ソ連の諸国とより一体化しようとする最近のロシアの動きは、こうした主張を背景に持っているわけですが、こうした動きの背景にも、ロシアの心の中にあってけっして消え去ることのない劣等感と臆病とが交錯しているはずです。

大げさに言えば、ロシアの臆病と劣等感には1000年の歴史があります。たぶん、拭い去ることは出来ないDNAレベルのものと思います。ロシアはいつだって間違いなく大国なのですが、他国に自国を大国として認めさせたいと強烈に意識する大国主義は、けっして自国を満足に導くことなく、常に「舐められているのではないか」という不安を掻き立てます。その源泉が「臆病」と「劣等感」であることはすでに論じました。厄介な存在です。

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2020年7月15日水曜日

第137回【ロシアの生理⑩】

2016年度の総括の講義のご紹介を続けます。

さて、それでは、ロシアとは何かについて考察してみましょう。
ロシアについてもっとも目立つ特徴は、露骨な「大国主義」であると思います。ロシアは自己認識として当然に自国を大国であると信じ、それ故、他国がロシアを大国として認識し処遇することを当然のことと思い、常にそのようであることを望んでいます。ロシアが必ずしも下に見られているようなことのない場合でも、one of themとして扱われることに不満を抱いているように見えます。たぶん、プーチンはG8にいてもなお、どこか不満だったのではないでしょうか。

この強烈な「大国主義」がどこから来るかを考察することが極めて重要です。私は、その背景には、「劣等感」と「臆病」が潜んでいると考えています。

ロシアの建国がいつかについては諸説あります。10世紀末(998年)の「ルーシの受洗」がロシアの始まりだという人もいれば、1380年のクリコヴォの戦いでの勝利による「タタールのくびき」からの開放をロシアの成立と考える人もいます。いずれにしても、長年に渡って繰り返し遊牧民からの侵略を受けることで、ロシア人の心の中には、ロシアの長い国境線を侵して外から常に敵が侵入してくるというイメージが根付いているのであり、それ故、そうした侵略に常に備えるために、自分たちは強くあらねばならないし、他国を簡単に信じてはならないと考えるようになったように思います。
14世紀に、ロシアがようやくタタールからの侵略の恐れにけりをつけた頃、ヨーロッパでは近代が徐々に芽生え始めていました。ロシアにとって、ヨーロッパのような近代化がそれ以後常に課題となります。それ故、ロシアにとってヨーロッパは常に憧れの存在でした。社交界ではロシア語ではなくフランス語が使われたほどです。サンクトペテルブルグは、ヨーロッパの都市をモデルにして作り上げた人工都市ですが、それは、ヨーロッパへの憧れを表すと同時に、ヨーロッパに向けて、自分たちの近代化された姿をアピールする存在でもあったのです。日本の鹿鳴館を思い出させます。

しかし、ロシアの近代化は、現在に至るまで成功していません。近代化の必要を痛感しながらなお、ロシアの土着性がその実現を阻んでいると言われています。この「近代化の失敗」が強烈なヨーロッパへの劣等感を生み出しています。

タタール=モンゴルからの侵略を退けた後にも、ロシアは西側から介入と侵略を受けてきました。ナポレオン戦争、ロシア革命への干渉、ヒトラー・ドイツの侵略などです。これらの介入・侵略に耐え、それを押し返したものこそ「ロシアの土着性」(これを描いたのがトルストイの『戦争と平和』でした)で、皮肉なことに「近代化の失敗」は近代的なヨーロッパからの侵略への盾となったのです。つまり、民衆や兵士の生命にまったく頓着せずに、ただ最終的に勝利することのみを目指した戦略がこれによって可能になったのです。後進性は、時に、強さに転換するのです。ベトナムがアメリカを退けたのも同じ理由からでした。

「近代化の失敗」が侵略に対しては有効に機能したとしても、ロシアがヨーロッパに憧れ近代化を求めていたことは確かです。ここに猛烈な「劣等感」が生まれます。心の奥底にある劣等感を少しでも拭うということが、ロシアの外に向けての行動に顕著に現れていると私は思います。今年のテーマについての仮説のひとつは、一個の国家をあたかも一個人が考え行動するかのように理解することができるはずだ、というものですが、個々の人間がそうであるように、国家も国民としての無意識の記憶に支配されながら行動をしていると考えられます。

ロシアの大国主義や外の世界に対する積極的な活動や、オリンピックを始めとするスポーツにおける実績、宇宙開発への意欲などはすべて、内なる劣等感に発するものと理解することができます。ロシアが、世界で大国として認められたいと熱望し、大国として認められる可能性のある活動を積極的に行おうとするのは、ロシアがナチュラルに大国だからなのではなく、内なる劣等感を克服するためなのです。

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2020年6月30日火曜日

第136回【ロシアの生理⑨】

外国を真に理解することはそもそも可能でしょうか。無理なのかもしれない、と常々私は思ってきました。ロシアのような「ひとつの世界」と言っていいような広くて深い対象であればなおさらのように思えます。たとえば、ブッシュ政権の前半4年で安全保障担当の補佐官をやり、後半4年で国務長官をやったコンドリーザ・ライスは、まさにソ連研究の専門家として有名だったわけですが、その8年間の中で、ロシアのことが分かっていないのではないかという場面が何度もありました。彼女のような専門家でもロシアを知ることは困難なのかと嘆息したものです。

ロシアを真に理解した人物が誰かと言えば、私にはジョージ・ケナンがまず浮かびます。ケナンは、冷戦時のソ連の封じ込め政策を立案した人物として有名ですが(19462月のモスクワからの長文電報とそれをベースにしたForeign AffairsX論文がその基礎)、その封じ込め政策は、私が思うには、ケナンが思い描いたものとは似ても似つかないものであったと思います。ケナンは利用されたのであり、ケナンのソ連・ロシア理解はついにアメリカ人に理解されなかったのだと私は思います。

そうしたケナンのロシア理解とアメリカ人の無理解が冷戦後にも現れた場面があったのを私は鮮明に記憶しています。今から振り返ると、ここでもケナンは正しかったのではないかと思うのです。

19972月の新聞(New York Times)に、ケナンが短い論文を書いています。簡単に言うと、NATOが東ヨーロッパの旧共産主義諸国の加盟受け入れに踏み出すことが決まったけれど、ロシアの民主化の促進の重要性を思えば、再考するべきであるというものです。

冷戦が終わって、ワルシャワ条約機構が解散し、NATOはその存在意義を問われるようになったわけですが、その後の旧ユーゴなどの混乱への対処など、新たなNATOへの模索がなされていました。そうした中で、ソ連の支配を受けていた東欧の旧共産主義諸国は、NATOと、可能ならばEUへの加盟を強く望んでいました。私は1998年にポーランドに住んでいたのでよくわかりますが、ソ連から解き放たれた喜びと同時に、彼らは再びロシアが襲いかかってくる日がやってはこないかと内心びくびくしていました。それに対する最大の保険がNATOへの加盟で、NATOに加盟できれば、ロシアが攻めて来るようなことがあってもアメリカを始めとする「同盟国」が自分たちを守ってくれるとして、それを強く望んでいたのです。私はワルシャワで生活しながらそれをひしひしと感じました。ソ連の手から逃げ切るためのひとつのゴールラインがNATO加盟であったのです。

ですから、ケナンの主張はあまりにも冷たいものに思えました。旧東欧諸国をNATOとロシアの間の緩衝地帯にするという政策は、東欧諸国にとっては許しがたいものだったはずです。98年のポーランド滞在は私にそのことを確認させました。

1998年にNATOはポーランド、チェコ、ハンガリーを加盟国として正式に受け入れることを決定し、翌1999年初頭には加盟が実現しました。19985月には、アメリカの上院がそれについての承認を行ったのですが、その直後に、同じ新聞の「読者の声」の欄に(日本の新聞で言えば、ですが)、1年以上前のケナンの論文を批判する文章が載りました。『文明の衝突』で有名なサミュエル・ハンチントンの投稿です。ハンチントンは上院のNATO拡大の承認の決議の正しさについて述べて、ケナンはまたも間違ったと断じています。ケナンはNATOの創設に反対して間違い、再びNATOの拡大に反対して間違ったというわけです。

果たしてハンチントンは正しいのでしょうか。私には、どうもケナンの方が正しいのではないかと思えてなりません。アメリカは、第2次大戦後、国際秩序の中にソ連を位置づけることに失敗して冷戦を招きました。そして、冷戦後にもロシアを国際秩序に正しく位置づけることに失敗したのではないでしょうか。その最初の一歩がNATOの拡大であったとは言えないでしょうか。

ハンチントンは、たぶん、NATOの存在が冷戦の最終的な勝利を導いたひとつの要因であると考えているはずです。それは、たぶん、正しいのかもしれません。しかし、冷戦の開始当初にNATOを結成しないという道を西側諸国が歩み、しかも、国際秩序のありかたについて、ソ連との対話が十分になされたとしたら、もしかしたら冷戦はまったく異なったものとなったかもしれないのです。歴史にifは禁物ですが、同じ間違いを繰り返さないためには、ifを問うてみることは無駄ではありません。

私たちは、再び、ロシアを誤解し、あるいは、理解し切れず、ロシアを国際秩序に上手に位置づけることに失敗したのではないでしょうか。冷戦終焉直後に、私たちは「ロシアとは何か」ということについてもっと真剣に考えるべきだったのではないでしょうか。

現在すでに明らかですが、ロシアは現状維持勢力というよりは現状変革勢力となっています。冷戦後に、なぜ西側諸国はロシアを現状維持勢力として国際社会に迎え入れることができなかったのでしょうか。冷戦の勝者が西側諸国だったとしても、その後の国際秩序を描く際には、大国たるロシアを処遇した上で、勝った自分たちも変化しなければならなかったのではないでしょうか。西側諸国はそれを怠ったように思います。それは、たぶん、勝利から来る油断であり、人間に付き物の知的怠慢であったのだと思います。その付けを私たちは今突きつけられているのです。

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2020年6月19日金曜日

第135回【ロシアの生理⑧】

2016年度は、私にとって、学習院での最後の1年間でした。ゼミの最後の総括の講義は、学習院での22年間の授業と11年間のゼミのまさに最後の講義となったわけです。
私は「ロシアの生理と病理」と題して、以下のように、2016年度の総括の講義を行いました。

2016年度のテーマは「ロシアの生理」でした。
実は、このテーマを思いついたのは3年前のことでした。どうにもロシアが気になる、そんな感じがしたのです。理由はよくわかりません。もしかしたら私がこの20年間ポーランドに滞在する機会が多かったからかもしれませんが、それならば、なぜもっと早くからそれを思わなかったのか不思議です。ただ、国際政治について真面目に考えれば考えるほど、ロシアの重要性について一度真剣に考えてみなくてはと思うようになったのです。

2002年に私はダブリンに滞在していました。そこには、EUの各国から勉強に来ている社会人がたくさんいて、フランス、イタリア、ベルギー、スペイン、ドイツ、チェコなどからの留学生(と言っても、皆社会人)と親しくなりました。加えて、ロシア人やベラルーシ人もその中にいました。ある時、カフェで皆でお茶をしていた時に、イタリアの軍人(彼はPKOでコソボにも行っていたのですが)が「ロシアもEUに入ればいいのに」と言ったのです。その時のロシア人(弁護士、女性)の反応が忘れられません。彼女は普段、過激な発言をする人ではまったくありませんでしたが、その時には、「何を言っているのか!ロシアがEUを飲み込んでやる」と真剣に言ったのです。非EUの人間は、その時、そのロシア人以外は私一人だったのですが、「そうでしょ、JUNJI」と言われて、少し呆然としながら「そうかもねえ」と答えました。

ロシアは、EUとは対等でも、その加盟国のone of themになろうとはこれっぽっちも考えていないということを私はその時痛感しました。「ああ、ロシアは本物の大国なのだ」と初めて心から思いました。単なる私の個人的なエピソードに過ぎないわけですが、たぶん、この感じには普遍性があるように私には思えます。ロシアとは何でしょうか。

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2020年5月30日土曜日

第134回【ロシアの生理⑦】

2016年度は「ロシアの生理」と題して国際政治上でのロシアの行動の背景に何があるのかを考察しました。ゼミ生たちは多様な題材からこのテーマにアプローチしました。

ロシアの建築に焦点を当てたゼミ生がいました。モスクワとサンクトペテルブルクの歴史的建築物を比較して、ロシア建築には、様々な特色があるものの、そこに住む人間よりもその建物が外からどう見えるかに重点を置くのがロシア人の特色であるとこのゼミ生は言います。ロシア人にとって他人の目が非常に重要だということです。こうした特色は、他の様々な分野においても共通することのように思います。

ロシアのマフィアを取り上げたゼミ生もいました。ロシアのマフィアの特色は、たとえば、日本のヤクザとは違って、ビジネスの世界に大々的に進出していることだと言えます。ロシアのGDP40%近くがマフィアがらみだという試算があるほどです。

ロシアの国旗・国歌・国章などのシンボルを取り上げて考察したゼミ生もいました。これらのすべてが現在ではロシア正教と密接なつながりを持っています。ソ連時代には無宗教国家だったロシアは、現在、正教会が非常に大きな影響力を持った社会となっています。正教を背景として「強いロシア」が国旗・国家・国章で表現されています。

そのロシア正教をテーマとしたゼミ生もいました。ロシアという国家の起源をロシア人は「ルーシの受洗」に求めます。すなわち、998年にロシア皇帝がクリミア半島においてキリスト教の洗礼を受けたことをロシア国家の始まりとしているわけです。このことからしてもロシアという国家の心髄にはロシア正教が存在していると言っても過言ではないと言えます。また、昨今のウクライナとの紛争におけるクリミア半島の重要性もこうしたところにあると認識する必要があります。

ロシア正教は、ソ連時代には非常に目立たない存在だったわけですが、現在では国家の支援の下で様々な活動を行っています。宗教活動は当然のことですが、ビジネスにも積極的に関与しています。この点、マフィアにも似た存在となっています。国家の支援が公然とある点がマフィアとの大きな違いですが、そのマフィアも背後では国家と太い結びつきを持っているわけで、宗教とマフィアが国家の陰(かげ)と陽(ひなた)であると言えるのかもしれません。

ロシアの広大な領土をテーマとしたゼミ生は、その礎を築いたピョートル1世に焦点を当てました。北方では当時有力だったスウェーデンを破り、黒海から地中海に向けて南方政策を実施したのが皇帝ピョートルで、その後のロシアの対外行動の基礎を作り上げました。このゼミ生は、プーチンはピョートルの再来ではないかと感想を述べています。ただ、その急速な領土拡大の背景には、不安に駆られた臆病者が存在しているように見えるとも述べています。鋭い観察であると私は思います。

ロシアの持つ兵器と戦術をテーマとしたゼミ生は、そこからロシアの勝利至上主義を指摘します。つまり、広い領土の内側に敵を誘い込む戦術がロシアの伝統的な戦争のやり方ですが、その際の大きな特色は、まともに守備をせず、国民の犠牲を一切気に掛けない焦土作戦であると言います。そして、時を得た時の攻撃のみが考慮されます。ロシアの持つ兵器の特色から、このゼミ生は、味方の犠牲をまったく厭わない最終的な勝利のみを目指す勝利至上主義こそがロシアの戦術であると指摘しています。勝利至上主義は、戦争ばかりではなく、すでにご紹介致しましたオリンピックといったスポーツやドーピングにおいても一貫したものということができます。

以上、簡単にではありますが、ゼミ生の論文をご紹介してきました。次回からは2016年度の総仕上げとして、また、11年に及んだ柴田ゼミの掉尾を飾る、総括の講義をご紹介致します。

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