2019年7月30日火曜日

第114回【紛争のルーツ――植民地主義⑥】

2014年度は「紛争のルーツ――植民地主義」をテーマとしてゼミで1年間勉強をしました。年度の終わりに私の総括として「今再びの植民地主義」と題して講義を行いました。その講義を以下にご紹介致します。

今年は「植民地主義」をテーマとしました。なかなか難しいテーマであったと思います。イメージとしては、アジアやアフリカに今もある混乱のルーツが実は、植民地時代の遺産であり、そのルーツと今の紛争を結びつけるというものでした。しかし、ゼミで様々な植民地についての知識を得てみると、植民地から独立をして約半世紀が経ったにもかかわらず、そこにいまだにある紛争というものが、植民地時代に直結するという例は必ずしも多くないかもしれないと感じたかもしれません。

皆さんに課題として与えた本が、最初がラス・カサス(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫)、次が日本の朝鮮統治についてのもの(ジョージ・アキタ『「日本の朝鮮統治」を検証する19101945』草思社)でした。今から振り返ると、この2冊の本は、植民地主義の2つの顔を象徴するものだったのかもしれません。

植民地統治の時代は15世紀から約5世紀続いたわけですが、その様相は必ずしも一様ではありません。概ね、植民地統治には2つの顔があったように思います。すなわち、ラス・カサスの著書に象徴されるような「略奪」の側面と、19世紀以降のイギリスや日本の植民地統治に確かに存在したような「人道主義」の側面です。

どちらにしても、植民地主義とは、先進国が劣った地域を「野蛮」であるとか「非文明的」であるとかの観点から、つまり、上から見下ろしたものであることは間違いがありません。植民地にされた地域は「野蛮」「非文明」「無秩序」とされ、そこに「文明」と「秩序」を与えるのが先進国・文明国の役割とされたわけです。もちろん、こうした人道主義的な言説は「略奪」を覆い隠す言い訳とされた場合もあったと考えられます。

先進国が植民地とした地域の地誌や歴史に詳しかったわけではありません。それ故、そこに「文明」をもたらすどころか、植民地統治が却ってその地域を無秩序にする例があったことは間違いがありません。さらに、その当時の境界線が今も独立後の国境として守られている例が多い故に、多様な紛争の元を絶てないということがあることを考えると、植民地主義の遺産とは確かに現在も継続されていると言わざるを得ません。

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2019年7月15日月曜日

第113回【紛争のルーツ――植民地主義⑤】

2014年度は、植民地主義と現代の紛争をテーマとしました。

植民地とされた側ではなくて、植民地を持った側をテーマの中心としたゼミ生が何人かいました。なかでもイギリスをテーマとしたゼミ生が複数いました。先にご紹介しました「シエラレオネ」の論文もそのひとつです。また、オーストラリアをテーマとしたゼミ生、香港を取り上げたゼミ生、アイルランド支配を論じたゼミ生もいます。日本の台湾統治をテーマとしたゼミ生もいましたし、オランダの東インド会社を取り上げたゼミ生もいました。

これらの中でも、もっとも現在と接点があるのが「香港」であると思います。

香港は、1997年にイギリスにより中国に返還されました。「永遠」との意味もあるとされる「99年租借」を満了しての返還でした。

イギリスの香港に対する植民地政策は、経済的な成功としては例外的なものですが、政治的な民主化という点では中途半端で、しかし、イギリスの植民地政策としては一般的なものでした。つまり、イギリスは、インドがもっともいい例ですが、撤退前には植民地に「民主化の種」を残すのです。インドはその後、独自に民主化を成し遂げ、現在ではもっとも巨大な民主国家を現実のものとしています。

これに対して香港は、中国との返還交渉が始まるまでは民主化とは無縁で、イギリス人の総督の独裁体制だったのですが、中国への返還が避け難くなって後、イギリスは「民主化の種」を撒き始めます。それを考えると、香港の民主化の歴史はわずかに30年で、しかも、インドとは異なって、民主化を圧倒的な力で押しとどめようとする中国の存在により、制度としては民主化がむしろ後退する可能性が高いのです。

50年間の「一国二制度」が適用されている香港ですが、返還時に民主化が完成された状態ではなかったために、中国共産党の支配下においては、民主化の進展はなかなか難しいというのが実態です。しかしながら、そうであるが故に、イギリス支配の下では、豊かさを享受するのみで民主化などの政治制度にはほとんど関心を持たなかった香港市民が、現在では、真に民主化を求め、さらに進んで、自らが中国人であるのか香港人であるのかというような、アイデンティティの問題を問うようになっています。ゼミ生が指摘していることですが、困難な現状が市民の政治意識に火を点けていることは間違いのないことで、民主制を当然として受け止めて、逆に、政治に無関心となっている日本人が香港から学ぶことは案外多いと言えるのかもしれません。

イギリスの香港支配の評価として、ゼミ生は、経済的には資本主義を根付かせ豊かさをもたらし、政治的にも「民主化の種」を残したという点で高く評価できるとしていますが、「うまく逃げた」との評価もしており、確かに、そうかもしれないと私も思います。イギリスは、今後も、民主化の後退がうかがわれる場面では、それに対する抗議を行うものと思いますが、果たしてどこまで本気か疑われるところです。

植民地を持った側をテーマとしたゼミ生の中には、宗主国が植民地において行った教育について論じた者もいました。このゼミ生は、フランスの西アフリカにおける教育政策を中心として、イギリスにおけるインド、アメリカにおけるフィリピン、オランダにおけるインドネシア、スペインにおけるパナマでの教育政策を比較して、宗主国の植民地に対する教育政策を考察しました。

宗主国各国の教育政策は、各国の国内事情や国民性によって大きく異なっていることが分かるのですが、共通して言えることは、植民地時代の教育が、現地の言語や生活習慣、宗教などに巨大な影響を及ぼし続けているということです。簡単な例をあげますと、南米でもアフリカでもスペイン語やフランス語が公用語となっていますし、キリスト教が今でも大きな影響を社会生活に及ぼしています。

ただ、皮肉なことに、こうした教育の影響は、人々の独立の意思をも生み出しました。教育とは面白いもので、それが成功すればするほど、教育を受けた人間はより広い世界を求めるようになり、教育する側の手を離れて、思いもよらない方向へと走り出し成長していくのです。宗主国は、意図せず、植民地支配を通じて現地の人々に独立心を植え付け、教育を通じてそれに水をやり続けていたと言えるのかもしれません。

次回より、2014年度の私の総括の講義を再録致します。

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2019年7月1日月曜日

第112回【紛争のルーツ――植民地主義④】

アフリカを対象に論文を書いたもうひとりのゼミ生は、エリトリアを取り上げました。

エリトリアは、日本ではほとんど話題になることのない国です。しかし、地中海を小さな船で渡ろうとする難民にエリトリア人が多く含まれていることが知られています。難民の多くが紛争や内戦の結果祖国を後にするのに対して、エリトリアにおいては、国の独裁体制と貧困が国民、特に、若者を難民として海外に押し出してしまっています。

エリトリアは、もともとはイタリアの植民地、第2次大戦途中からイギリスがこれを引き継ぎ、戦後はエチオピアに合邦されました。1993年にエチオピアからの独立を果たしますが、2001年のエチオピアとの国境紛争以来、独裁体制と孤立主義が顕著になり、「アフリカの北朝鮮」とまで言われるようになっています。ゼミ生は、現在のこうしたエリトリアの独裁体制が植民地経験の影響と言えるかどうかを論文で考察し、植民地時代のトラウマは確かに存在しているとしています。

ゼミでも議論を戦わせましたが、私にはどうにもそうは思われませんでした。アフリカの経験した植民地経験は、確かに、広く深く現在まで影響を残していることは確かです。民族・部族の存在をおよそ無視した国境線は今でも紛争の種となっています。しかし、独裁的な政治体制やその政権の腐敗の多くは、アフリカ自身の責任であると私は思います。先進国にもアフリカにも、あらゆることを植民地時代の悪影響のように言う人がいますが、本当でしょうか。むしろ、そうした議論は、アフリカの人々をどこか馬鹿にしていると言えないでしょうか。また、自分たちの腐敗堕落をいまだに植民地時代のヨーロッパ諸国の責任とすることは、それ自体、さらなる精神の腐敗堕落を招くと言えるのではないでしょうか。
2014年度は、現在の国際紛争のルーツの多くが植民地時代の負の遺産にあるとの仮説でテーマを選び、議論をしたのですが、エリトリアの現状が植民地時代の直接的な影響を受けていると私には思われませんでした。

アフリカの他に、カリブ海の島国セント・クリストファー・ネービスをテーマとしたゼミ生もいましたが、東南アジアをテーマとしたゼミ生が案外多くいました。インドネシア、東ティモール、マレーシアに加えて、植民地にならなかった例としてタイを取り上げたゼミ生がいました。

タイは、日本と同様に、アジアで植民地にならなかった例外的な国です。最近即位したラーマ10世の直接の祖先であるラーマ4世・5世の時代のことです。

インドを植民地とし、さらに、ビルマを植民地化したイギリスが西からタイに進出しようとしました。また、東側では、ベトナム、ラオス、カンボジアを植民地化したフランスがタイに迫っていました。こうした状況において、東南アジアの真ん中に位置するタイは、ヨーロッパの植民地大国の、いわば、緩衝地帯となったのです。もちろん、ラーマ4世・5世を先頭にしての、タイの巧みな外交と国内における近代化政策も見逃すわけにはいきません。

このように考えてみると、タイの置かれた状況は、案外、日本の状況に似ていたように思えます。薩長の背後にはイギリスが控え、フランスが幕府を支援する。大きな内戦なしに維新を実現し、その後は一気に近代化に走る。地理的にも、日本は海に囲まれ介入のし難い環境でした。

植民地にされなかった地域自体の、あるいは、それが置かれた状況の特色を一般化することは困難です。しかしながら、その地域の、巧みな外交の存在と、国内における近代化政策の成否は鍵であると思います。ヨーロッパの大国の多様な要求をのらりくらりとかわしながら、ヨーロッパ型の国家作りをスタートさせ、大国の介入をできるだけ避ける。それがタイの成功の要因であったことは間違いありません。インド以西のほとんどすべての地域がこれに成功せず、タイのみがこれを実現したことは極めて印象的なことでした。


次回以降も、ゼミ生の論文のご紹介を続けます。

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