2019年12月30日月曜日

第124回【戦争に負けるとはどういうことか⑧】

アメリカの国際政治参入までの近代の戦争においては、無差別戦争観が支配的でした。戦争とは、善と悪の戦いではなく、すなわち、交戦国間に正邪の区別はなく、戦争自体も紛解決手段として位置づけられ、まさに政治の延長として機能していたのです。戦争は自国の存在を賭けて戦うものではなく、具体的な争点の処理をめぐるものに過ぎなかったのです。

第1次大戦は、ヨーロッパの諸国がその存在を賭けて戦う戦争となってしまいました。戦争の帰趨を決定づけたのがアメリカの参戦で、これが世界の戦争の在り方を変えたと私は思います。だから、20世紀は、確かに、アメリカの世紀なのです。アメリカは戦争に善悪を持ち込みました。これ以後、戦争は正邪の戦いと変化しました。ある意味で、近代が終わり、中世に逆戻りしたかのような変化です。逆説的ですが、だからこそ、戦争は禁止されるようになったのです。1928年のいわゆる不戦条約によって戦争は禁止されるようになりましたが、それ故、戦争は、それが起きるとすれば、正義の、悪に対する戦いと位置づけられる以外に存在のしようがなくなりました。そして、正義は悪に妥協はできないのです。

日露戦争以降の戦争は、それ自体がそもそも大変に悲惨なものです。戦争を悲惨なものとしたのは、第1に、科学技術が発展し武器が限りなく進化し殺傷能力を高めたことによります。第2に、戦争が限定されたものでなく、国家のすべてを賭けた全面的なものとなりました。戦争があれば、国民のすべてが戦争から大きな影響を受ける時代となったのです。それ故、戦争の悲惨さは、誰もが知るところとなりました。しかし、戦争は、確かに悲惨ですが、敗戦はさらに悲惨であるということは必ずしも意識されていません。

近代の古典時代の戦争においては、必ずしも敗戦は悲惨ではありませんでした。もちろん、戦争自体が現代ほどに悲劇的な被害を及ぼすものではありませんでした。その時代の敗戦とは、紛争の争点における譲歩を意味するに過ぎませんでした。それとて一時的なもので、将来における戦争によって取り返しの出来る譲歩と位置づけられていました。勝者と敗者に正邪の区別はありませんでした。

それに対して、現代における敗戦が悲惨であるのはなぜでしょうか。

私は、それは、戦争に負けた側がアイデンティティの変更を迫られるからだと思います。つまり、現代においては、戦争は、単に戦争が終わって争点が処理されるだけでなく、敗者は過去とは異なったアイデンティティを求められるのです。言い方を変えれば、「アイデンティティの喪失が強いられる」のです。

メアリー・カルドーは、「新しい戦争」という概念を提出して、現代の、以前とは異なった性質を持つ戦争を理解しようとしました。新しい戦争とは、アイデンティティを争う戦争で、現代におけるテロや内戦に特色的に現れているとしています。つまり、ある特定の地域に多様な価値を許さず、その地域を一つの価値観で塗り潰そうとする一種の運動を新しい戦争と考えるわけです。その地域に住む人々は、持ち込まれた自分たちとは異なった価値を受け入れて生き続けるか、あるいは、その土地を捨てて出て行かざるを得なくなるのです。現代の紛争が大量の難民や国内避難民を生んでいる理由がここにあります。

しかし、よくよく考えてみると、「アイデンティティ・ポリティクス」を中心とした「新しい戦争」は、最近になって現れたものでしょうか。私は、今年のテーマを1年間考え続けるうちに、これはけっして新しいものではなく、アメリカの国際政治への登場と共に現れた現象だったと思うようになりました。現代のテロや内戦の根本的な特色は、実は、アメリカ的であると思います。20世紀がアメリカの世紀であるのだとすれば、「新しい戦争」は突然に現れたものでなく、確かに、20世紀的な色彩を帯びているのです。

だから、20世紀における戦争の敗者の悲惨は、間違いなく、アメリカにルーツを持っています。敗者が悲惨な状況に置かれる理由は勝者の論理にこそあると考えられます。勝者としてのアメリカの論理には、どのような特色が、どのような病的な特色があるでしょうか。これこそが、20世紀において、戦争の敗者を必要以上に悲惨に追い込んだものなのです。アメリカを理解せずして20世紀を論じることはできません。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年12月16日月曜日

第123回【戦争に負けるとはどういうことか⑦】

前回までゼミ生たちの論文をご紹介してきました。今回からは、年度末に私が学生たちに講義しました総括の講義の内容をご紹介致します。

今年度(2015年度)のテーマは「戦争に負けるとはどういうことか」でした。

「戦争になったらどうするか」というアンケートに対する日本人の答えの中でかなりの多数を占めるのが、「戦わずに降参する」というものです。日本人は戦争の悲惨さを今や知ってはいても、敗戦の悲惨さは知らないのではないでしょうか。戦争がいかに悲惨であるとしても、戦争に負けることは、戦おうと戦うまいと、戦争それ自体に負けず劣らず悲惨であるに違いありません。今年は、それを確認してみたいと思いました。例年のことですが、テーマに対する答えがあって、ゼミをスタートしたわけではありません。このテーマについて1年間考え続けた末に辿り着いた「仮説」をお話しします。

近代以前の戦争は、ヨーロッパにおいては主として、宗教戦争であり、それ故、善と悪の戦いでした。どちらが勝とうが負けようが戦争それ自体が極めて残酷なものでした。最大の宗教戦争であった30年戦争を終結させた1648年のウェストファリア条約が一つの目安となりますが(これについては、『ウェストファリアは終わらない』で詳しく論じました)、これ以後の近代においては、戦争とは、紛争を処理する政治の道具と位置づけられるようになりました。交戦国に正邪の区別はなく、紛争に見通しがつけば戦争をやめ、交戦諸国は日常に復帰したのです。

戦争の勝者は、紛争の争点に関して有利な処理をし、それ以上に敗戦国に求めることしませんでした。それ以前の、勝者が何をしても許される——たとえば、略奪をし、男を皆殺しにし、女を連れ去るというような——時代とはまったく異なった戦後だったのです。敗者は、紛争の争点については勝者に譲るにしても、戦争が終われば元の立場に戻り、その上で、争点について再び起こるかもしれない次の戦争に備えることとなります。

戦争をした両者が、まったく平等に戦後の国際政治に復帰し、何事もなかったようにとはいきませんが、あたかもそうであるかのように国際政治の日常が継続されたのでした。戦争と平和の結節点に平和条約が存在しました。平和条約においては、戦争において争われた争点の処理が明示され、条約締結以降は、その戦争についての責任を再び問うたり、そこに明示された以上の権利を戦勝国が求めたりということは戒められました。つまり、平和条約とは、戦争を完全に終わらせるだけでなく、戦前の国際政治と戦後の国際政治を改めて結び直すものだったのです。交戦諸国は、まさに、戦後、日常に復帰したのです。

こうした戦争の在り方は、概ね、日露戦争まで続いたのではないかと思います。すべてを変えたのが、第1次世界大戦で、戦争そのものの激しさもさることながら、「戦後の様相」を激変させるにあたって最も影響を及ぼしたのは、アメリカの国際政治への参入でした。現代の「戦後」を考えるためには、アメリカを考えないわけにはいきません。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年11月30日土曜日

第122回【戦争に負けるとはどういうことか⑥】

大学生になると、高校までとは違って、こちらがまるで知らないことを勉強しだすという場合があります。柴田ゼミにおいても、私の予想外の、私がほとんど知らない地域や事象や人々をテーマに取り上げるゼミ生が何度も出てきました。これがゼミの楽しみのひとつです。

2015年度は「戦争に負けるとはどういうことか」というテーマで勉強をしましたが、意外性のあるテーマを取り上げたゼミ生が2人いました。偶然にもこの2人はニュージーランドの高校を卒業していました。ニュージーランドでの2人の繋がりはまったくなく、柴田ゼミで出会ったのは偶然だったのですが、あまり知られていない対象をテーマとして選んだのは偶然ではないように私には感じられました。学生はやはり多様な経験をすべきであると思います。

さて、ひとりは、リトアニアをテーマに取り上げました。
リトアニアは、第1次大戦後、ラトビア、エストニアとともに独立を果たしました。しかし、第2次大戦中にソ連に占領され、そのままソ連国家に編入されてしまいました。この背景には、独ソの密約が存在していました。

リトアニアは、ソ連編入に際して、事実上、戦うことをしませんでした。もちろん、戦ったとて詮無い事であったことは事実であると思います。戦いそれ自体の悲惨を避けたことはもしかしたら賢明だったのかもしれません。しかし、戦わなかったことは、もしかしたら、敗戦後に大きな影響があったのかもしれません。それは、ここで詳しくは論じられませんが、この時期に祖国のために徹底的にソ連と戦ったフィンランドの戦後との比較が有効であるように思います。

ソ連編入後、リトアニアは、ゼミ生によれば、ジェノサイドと言っていいようなソ連による過酷な支配を受けることになります。知識人や指導的立場にある人々の虐殺や収容所への移送、地下のパルチザン闘争への支援者たちのシベリアへの強制移住、さらに、ロシア語の強要や歴史・文化の否定。ソ連支配の下で、ゼミ生によれば、リトアニア国民のアイデンティティは完全に崩壊したと言います。もちろん、冷戦終結直後に目にしたように、リトアニア人のアイデンティティは、それでもなお脈々と受け継がれて、ソ連崩壊を前に独立を宣言し、むしろソ連の崩壊に棹差して一矢報いた感がありました。

実は、私はワルシャワ大学で教えている時に、バルト3国を訪問して各国のスカンセン(野外博物館、日本人にはイメージが湧きにくいものですが)を見学しました。スカンセンではそれぞれの民族の歴史的な建物や道具、つまり、長い歴史に渡る生活そのものが展示されているのですが、バルト諸国の展示は非常に印象的でした。つまり、ソ連による文化の徹底した破壊の中で、それらの教会や家や道具などを何とか保存して後世に伝えようと試みていたのです。ソ連支配下では、同じ展示でも「祖先は(今のソ連支配下の文化的な生活に比べて)このような貧しい生活をしていました」という解説文を付けていたということですが、独立後には「私たちの祖先はこのような豊かな文化を持っていたのだ」という解説に付け替えたということでした。涙なくしては見られない展示だったのを覚えています。

戦わずして他国の支配を受けることがいかに過酷であるかをリトアニアの例は示しているように思います。がしかし、それでは徹底的に戦えばいいかと言えば、必ずしもそうでない例をもうひとりのゼミ生が示してくれました。

もうひとりのゼミ生は、19世紀半ばの3国同盟戦争(または、パラグアイ戦争)後のパラグアイをテーマに取り上げました。パラグアイのこと、まして、150年も前の南米の戦争のことを知っている日本人が果たしてどれくらいいるでしょうか。

19世紀の半ば、ここではその経緯には触れませんが、南米の内陸国パラグアイは、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3国同盟と血で血を洗う戦争をしました。少なく見積もっても人口の半分が死亡したと言われています。特に、成人男子のほとんどがこの戦争によって死にました。つまり、パラグアイの戦後は、男性のいない戦後となったのです。戦後のパラグアイの男女比は15になったと言われています。
ゼミ生は、戦後のこの特別な状況がいかにパラグアイ社会の女性差別へとつながっていったかを論じました。非常に興味深い視点であると思います。

スペインによって植民地化された南米地域では、そもそも男尊女卑の弊が存在していました。それをマチスモ・マリアニスモ思想と言ったりすることがありますが、それはつまり、女性に対する男性の肉体的優位を絶対とし、女性には家庭内での良妻賢母を強いる思想と言うことができます。

戦争によってほとんどの成人男性がいなくなることによって、こうしたマチスモ・マリアニスモ思想は極端なまでに高められ強められました。男性が言わば「貴重品」となったためです。それにより男女差別が極限まで高まったのです。こうした差別は現代においてもなお、緩められたとはいえ、継続されているとゼミ生は論じます。敗戦の影響としては、もしかしたら非常に特異なものかもしれませんが、見逃せない重要な視点であると思います。

敗戦のより実質的な影響としては、アルゼンチンやブラジルに対する領土の割譲、河川の使用の制限、さらにイギリスの経済への介入の開始があげられます。パラグアイは、これより前、南米ではもっとも豊かで自立した経済を確立していて、唯一イギリスの介入を受けていない国家でした。アルゼンチン・ブラジルの背景で戦時にこれらの国を援助したイギリスは戦後、ついにパラグアイに介入するチャンスを得たのです。

パラグアイが正常と言える人口構成を取り戻すのに約半世紀を要したと言われています。戦争は、どうやら戦っても戦わなくても、戦いの中で、そして、戦いの後に、大きな負の遺産を残すようです。これらを最小限にするためには、仮に戦争が避けられないにしても、賢明な外交が必要になります。私は、要するに、勝負は外交にあるのだと確信しています。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年11月17日日曜日

第121回【戦争に負けるとはどういうことか⑤】

ベトナム戦争の敗者は、確かに、アメリカでした。ベトナム後のアメリカをテーマとしたゼミ生がいました。

ベトナムでの敗戦はアメリカ社会に大きな影響を及ぼしました。ゼミ生は帰還兵に焦点を当てて論文を書きました。このゼミ生は高校時代に1年間アメリカに留学した経験があり、その時のホストファミリーのお父さんがベトナムからの帰還兵で、それに加えて、お父さんの友人の帰還兵からも話を聞き取りました。

ベトナム戦争後のアメリカ社会はベトナムでの戦争を間違った戦争と捉え直し、また、それに参戦していた兵士を非道徳な存在として排斥しました。ベトナム戦争はテレビカメラが戦場に入った最初の戦争で、アメリカ国民はその戦場の実態に強い拒絶反応を示しました。

その端的な表れが反戦運動でした。

こうした雰囲気は戦争から帰還した兵士たちへの反発と排斥という形で現れました。映画「ランボー」で描かれたのはこうしたアメリカの実態でした。ホストファミリーのお父さんは空軍に所属してベトナムのジャングルに枯葉剤などを撒いたりしていたことで、帰還後、様々な嫌がらせを職場や地域社会で受けたといいます。果ては、職を失い、再就職もままならず、田舎に引っ越し牧場を開いたということです。

また、その友人は海兵隊の兵士で、帰国後PTSDになり、これもまた職を失ったものの、戦場で最前線にいたことが同情を呼び、周囲の援助で農園を経営するようになったということです。PTSDの克服には非常に長い年月を要したといいます。

アメリカは、歴史上初めての敗戦をなかなか受け入れることができなかったせいか、この戦争からの帰還兵に極めて冷たく当たりました。それ以上にむしろ、彼らを自分たちの社会から排斥する雰囲気もあったのです。敗戦の影響は社会全体に渡ったことは間違いありませんが、最大のしわ寄せは個々の帰還兵に向かいました。

中国残留孤児の場合もそうでしたが、戦争と敗戦は末端の個人の人生と幸福に大きな負の影響を与えます。このゼミ生は、自分の知り合いとはいえ、具体的な個人にアプローチすることでテーマを自分のものとすることができました。

この他にも、様々な地域・国の戦後がゼミ生によって取り上げられました。4次にわたる中東戦争とその敗者エジプト、アヘン戦争後の中国、イギリスの支配を受けていたアイルランドなどです。

次回は、日本ではあまり知られていない戦争をそれぞれ取り上げた2人のゼミ生の論文をご紹介致します。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年10月27日日曜日

第120回【戦争に負けるとはどういうことか④】

現代の国際政治学の始まりは、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間、すなわち、戦間期にあります。それまでの戦争とはまったく違った規模と犠牲を伴った第1次大戦を経験したにもかかわらず、ヨーロッパ諸国は確固たる平和を築き上げることに失敗しました。それが明らかになるに従って、なぜそうなってしまったのかについての考察がなされるようになったのです。E. H. カーの『危機の20年』がその典型で、この書物は第2次大戦直前に出版されました。要するに、ヨーロッパの戦勝諸国は、敗戦国ドイツの処遇に失敗したのです。

1次大戦後のドイツをテーマとしたゼミ生は2人でした。2人とも敗戦後のドイツの悲惨な側面——ハイパーインフレ、貧困化、社会規範の崩壊など——を指摘し、それがナチスドイツを生み、結局は、わずか20年の後に再び世界大戦を引き起こしたことに言及しています。

そのナチスドイツの占領下のギリシアをテーマとしたゼミ生もいました。特に、ギリシアにおけるユダヤ人をドイツがどのように扱ったかに焦点を当てました。ドイツは戦争の過程で占領をした地域において、ユダヤ人を強制的に排除し、収容所に送り、最終的には虐殺をしましたが、ギリシアにおいてもそれは例外ではありませんでした。

このゼミ生がギリシアに注目した理由が私には面白く思えました。最近のことですが、ギリシアが財政危機に陥ってEU、特にドイツから多大の援助を受けた時に、ギリシアはドイツからそのだらしなさを大いに批判されました。ギリシアのチプラス首相はその時に、第2次大戦中のドイツのギリシアに対する賠償が十分になされていないとしてドイツを逆に非難したのです。ゼミ生はこの発言に注目してテーマを決めたということです。

アメリカをテーマとした学生が2人いました。考えてみるとアメリカは第1次大戦以降のべつ戦争をしているように見えます。第2次大戦以降でも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタンとイラクでの戦争、それに加えて、ソ連との「冷戦」を戦いました。しかしながら、アメリカが戦った戦争でもっとも多くの死者を出したのが内戦でもある南北戦争だったのです(戦死者62万人)。ゼミ生のひとりは、この南北戦争における敗者である南部の黒人に焦点を当てました。

このゼミ生も、最近の白人による人種差別をベースにした銃撃事件に触発されて南北戦争をテーマとしたということです。やはり学生は、現在起きていることに強い興味が湧くようです。

敗者の戦後がテーマではありますが、南北戦争は複雑で、内戦であるが故に、単純に勝者と敗者を分けることは不可能です。勝者の北軍は、確かに、奴隷解放をうたってはいましたが、「合衆国の保持」が第1の戦争の動機であって、奴隷解放後のプログラムが具体的にあったのではありません。それ故、戦争後に900万人いた南部の人口のうちの400万人の黒人奴隷が解放されたのですが、彼らには適切な職業教育も職それ自体も与えられないままとなりました。結局は路頭にさ迷ったり、奴隷時代に働かせられていた元のプランテーションに戻って働く黒人もたくさんいたのです。北部に移動した黒人たちによるスラムが形成された都市も存在しました。

南北戦争においては、敗者の半数近くを占める黒人が勝者と利益を共にするという捻じれ現象が存在していました。しかし、勝者北軍の戦った動機の中心は別の所にあったために、敗者の中の勝者と言ってもよい黒人奴隷たちは、自由は得たものの、多くは困窮し、しかも、人種差別は一向になくならないまま宙ぶらりんな状態に置かれました。結局は、元の鞘に収まって相変わらずのプランテーションでの生活を再度送る黒人も多かったのです。

人種差別は、確かに、その後100年をかけて制度的にはなくなったかもしれませんが、今もまだ残存しています。アメリカの歴史上最大の死者を出した南北戦争ですが、奴隷制の終焉には目途をつけたものの、それが必ずしも目的ではなかったために、人種差別には終止符を打つことはできなかったと言えます。

もう一人のゼミ生はベトナム戦争を取り上げました。確かに、この戦争においては、アメリカは敗者だったと言えます。これにつきましては、次回ご報告致します。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html



2019年10月15日火曜日

第119回【戦争に負けるとはどういうことか③】

2次大戦敗戦後の日本をテーマとして取り上げたゼミ生が3人いました。

男子ゼミ生2人は、GHQによる情報の統制を通じての日本社会の洗脳を論じました。ひとりは占領下の映画の検閲をテーマにこれを論じ、もうひとりは現代の中国報道にその名残のあることを論じました。

GHQの言論統制と検閲については今は広く議論がなされていますが、その嚆矢となったのは江藤淳氏の『閉ざされた言語空間』であったと思います。江藤氏がこの本を書いた当時、私は江藤氏が教授をしていた東工大の研究室(永井陽之助研究室)におりましたので、はっきりとその時の雰囲気を記憶しています。拒絶まではいかないにしても多くの人が違和感を持って受け止めていました。ところが、現在では江藤氏の研究を知らない人でもこれについて棹差すような議論をするようになっています。

大学生の卒論は、一般論を論じるだけでは自分の論文とはなりませんので、その「一般論のようなもの」を凝縮して感じさせるような個別の小さな、あるいは、狭いテーマを見つけるように私は指導しておりました。映画と中国報道に2人がそれぞれ議論をフォーカスしたのは、そんな事情からだったわけです。

もうひとりのゼミ生(女性)は、中国残留孤児をテーマとしました。
敗戦の間際に日本の軍隊に見捨てられ、逃げまどい、その中で多くの女性や子供たちが中国に留まる選択をしました。連れて逃げることのできない乳飲み子を後に養父母となる中国人に託して命からがら日本に逃げ帰った人も多くいたのです。そうして残されてきた子供たちが「中国残留孤児」です。

戦争が終わった後もこれらの孤児たちは、日中関係のはざまで放置され、80年代に入るまで自分が日本人であることを知らないまま中国で暮らしていた人もいたのです。これらの人たちの多くが数十年ぶりに日本に帰国を果たしましたが、簡単にブランクを埋められるわけもなく、日本語の壁やアイデンティティの危機に容易に直面したのでした。これらのすべては戦争、特に敗戦が生み出した負の影響だったのです。

以上のような事実は厚生省から出されている資料を読むだけでも分かることですが、私がこのゼミ生に課した課題は、必ず実際の残留孤児の人に会って話を聞いてくることでした。ゼミ生はNGOなどにコンタクトを取り、数人の残留孤児の方々と実際に数度に渡って会いインタビューをしました。そのうちの2人をこの論文で取り上げました。

大学生の卒論においては、こうした頭でっかちでない勉強が非常に重要で、このゼミ生の論文は、前半の歴史の部分と後半のインタビューを基にした「個人史」のコントラストが非常に効果的で、印象深いものとなりました。歴史を十分に勉強してからインタビューをしたことも重要なプロセスでした。知識のないインタビュアーにいいインタビューは望めません。

戦争、特に敗戦が国家や社会というレベルにとどまらず、末端の個々人の人生に大きな、取り返しのつかない傷跡を残すことがよく分かる非常にいい論文となりました。彼女はゼミの最後の報告の時にインタビューに応えてくれた残留孤児の方々のことを報告しながら、それらの人々の人生に思いを馳せて涙ぐんでいました。卒論の醍醐味だなあとつい私もうるうるとしたのを覚えています。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年10月6日日曜日

第118回【戦争に負けるとはどういうことか②】

2015年度は「戦争に負けるとはどういうことか」をテーマとして1年間勉強しました。

皆さんが2015年度の柴田ゼミのゼミ生だったら、「戦後のどこか」に「どこ」を取り上げますか。私は、第1次大戦後のドイツ、第2次大戦後の日本とドイツ、中国に侵略され支配されたチベット、ナチス占領下のフランスなどを想定していました。

ところが、ゼミが始まってゼミ生が自分のテーマを検討し始めると、私が想定していないどころか、私の知らない戦争までがテーマとして取り上げられるということになりました。これが大学のゼミの面白いところです。大学生の興味関心は多様で、ひとりの教員ではカバーしきれないほどの幅と深さを持っているのが普通です。だからこそ学生の自主性が重要になるのです。

さて、以下、柴田ゼミのゼミ生が2015年度に取り上げたテーマを列挙してご紹介致します。次回以降、それぞれのテーマにつきまして具体的にご紹介していこうと思います。

 1 ナチス占領下のギリシア
 2 リトアニアにおけるソ連のジェノサイド
 3 ベトナム戦争後のアメリカ
 4 中国残留孤児
 5 第2次大戦後の日本 2
 6 第1次大戦後のドイツ 2
 7 アメリカ南北戦争
 8 中東戦争とエジプト
 9 イギリス植民地としてのアイルランド
 10 アヘン戦争後の中国

 11 三国同盟戦争後のパラグアイ

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年9月15日日曜日

第117回【戦争に負けるとはどういうことか①】

2015年度は「戦争に負けるとはどういうことか」をテーマとして1年間ゼミを行いました。以下、ゼミ生募集のために書いた文章です。学生はこのような文章を読んで、自分が所属したいゼミを選択しますが、ゼミには定員がありますので、場合によっては選考があり、2次募集に応募しなければならないということもあります。

半年くらい前に、「戦争になったらどうしますか」という質問に答える調査の結果が新聞に出ていました。詳しく憶えているわけでありませんが、確か、「自衛隊を助ける」「逃げる」「戦う」のような順に答えが出ていたように思います。昔と比べれば、「逃げる」の割合は減っているような気がしましたが、それでも、どこか腰の引けた感じの人が多いと感じました。もっとも、普通の人が「戦う」なんてことができるとは思えません。それにはいくらかの訓練が必要で、スイスは国民皆兵の国ですから、そうした訓練を成人男子のすべてに毎年行っています。

私がこの調査から感じたのは、戦争がいけないことだ、できればしない方がいい、と多くの人が考えてはいるけれど、実際に戦争になることについてはほとんどの人が真面目には考えていないということでした。それは、もしかしたら、そうした質問をした調査元にも言えるのではないかとも思いました。

柴田ゼミは国際政治のゼミですから、テーマは常に「戦争と平和」にかかわります。戦争とは何か、平和とは何か、戦争はなぜ起きるか、平和をどのようにして実現・維持するかというようなことが毎年のテーマの背景にはあります。

人間はこれまで、残念ながら、戦争をし続けてきました。戦争を好んでしようとする人は多くないはずなのに戦争はなくならないのです。国際政治の構造に諸国家に戦争をさせる何か特別の要因が組み込まれているのかもしれません。戦争は避けようがない何ものかであるのかもしれません。そうであるとすれば、日本だって戦争を再びせざるを得ないはめに陥ることがあるかもしれません。

戦争はやらないに越したことはありません。できることなら、全力を尽くして回避するべきものであるとは思います。しかし、戦争が避けられないものであるとすれば、何よりもまず言えることは勝たなければいけないということだと思います。あるいは、絶対に負けてはいけないと思います。逆に言えば、負ける戦争は絶対にしてはならないのです。なぜなら、戦争は確かに悲惨ですが、戦争に負けることは戦争それ自体を上回る悲劇だからです。

日本においては、戦争になりそうになったら、戦わずに降参すればいいとまで言う「平和主義者」がいて、そういう人は実は珍しくないのですが、それは戦争の悲惨さに目を奪われて、戦争に負ける悲劇に思いが至っていないのだと思います。何度も言いますが、確かに戦争はそれ自体で悲惨なものですが、負け戦の悲惨さはそれとは比較にならないほどのものであるのが普通です。だからこそ、負ける可能性のある戦争はとことん避けなければならないし(そして、すべての戦争は負ける可能性があります)、戦争になったら絶対に負けてはならないのです。

さて、こうした関心から、今年度は「戦争に負けるとはどういうことか」ということをテーマとします。

20世紀になって、戦争が社会全体で戦う総力戦になって以降、戦争の処理も社会全体に影響を及ぼすようになりました。それによって、戦争の遂行それ自体が社会全体に大きな影響を及ぼし、また、勝者も敗者も戦争の帰趨から多大の影響を被るようになりました。特に、敗者の受ける傷は容易ではないものとなりました。そうした敗者の戦後の例を詳しく勉強してみたいと思います。具体的には、第1次大戦後のドイツ、ナチス占領下のフランス、第2次大戦後のドイツと日本を想定しています。

日本の第2次大戦後がいかに悲惨であるかについて日本人は薄々感じてはいるものの目を逸らしていると私は思います。これは戦後すぐのことを言っているのではありません。今年(2015年)は戦後70年だそうですが、戦後は続いていると私は思います。このままでは日本人としての私の人生のすべてが戦後の悲惨の中で送られることになりそうです。それほどに戦争に負けたことの影響は深く大きいのです。それにしても、明治の近代化以降、たった1度の敗戦でここまで「へたる」日本とは何でしょうか。こうしたことについても、できれば、深く考えてみたいと思います。

それを対象にするかどうかは追々考えてみたいと思いますが、現在のロシアも、その自覚がどれほどあるか疑問ですが、冷戦の敗者です。冷戦が戦争であったかどうか自体が議論のできるテーマですが、現在のロシアの様子が冷戦における敗北と関わりがないわけがないと思います。敗戦ほど社会に大きな影響を及ぼす事件はないからです。


以上のような問題意識の下、「戦争に負けるとはどういうことか」というテーマに2015年度は取り組みます。まずは、映画などを通じて、戦争の実際を知ってもらおうと思います。ま、ほんとは、イスラム国あたりに行って実戦に参加してみるというのが一番理解が深まるのですが、私には伝手がありませんし、行ったとたんに首を切られて勉強にならない可能性が高いので、映画やドキュメンタリーなどを利用しようと思います。具体的なテーマについては、初めてグループを組んでやらせてみようかとも思っていますが、さて、どうしますか。歩きながら考えようと思います。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年9月1日日曜日

第116回【紛争のルーツ――植民地主義⑧】


「破綻国家」の問題にしても「新しい戦争」の問題にしても、究極的には、そうした地域にまともな国家を打ち立てなければならないという問題で、現在では、「保護する責任」であるとか「暫定統治」といったような処方箋が国際社会では出されて試されているのですが、考えてみれば、処方箋という言葉を使ったことからも分かるように、そこには「野蛮」という病理が存在するのであり、そうした病理にいかに対処するかが問題とされているわけです。

植民地統治について、現在から振り返ってそこに善意を見るのは少数派の立場だと思いますが、破綻国家に対する人道的介入や暫定統治については、それを肯定的に捉える人が多いように思います。しかし、両者の考え方の構造は案外似ているのではないでしょうか。

植民地主義においては、「文明」と「野蛮」が対比され、「文明」が「野蛮」を略奪する場面も珍しくはなかったとはいえ、「文明」が「野蛮」を文明化し、「野蛮」の下に置かれている人々を救済するという「人道主義」的な側面も存在していました。そこにおいては、文明化する主体と文明化される主体に明らかな非対称的な関係が存在していました。上下関係と言っても間違いではない関係です。

これと同じように、平和構築、人道的介入、暫定統治についても、そこには「略奪」の側面は存在しないにしても(あればそれは犯罪として処罰を受けます)、上下関係と言ってもいいような、明確な主体と客体の非対称的な関係が存在しており、「人道主義」という側面が前面に現れた活動であることは間違いないにしても、非対称的な構造については、植民地主義と変わることがないことは明らかです。

つまり、植民地主義のある側面と冷戦後の平和構築のある側面は、明らかに構造的に類似しているのであり、植民地主義を全否定しておきながら平和構築を肯定するのは難しいのではないかとも考えることができるのです。それとも、平和構築は必要悪なのでしょうか。それに携わっている人にそうした自覚はあるでしょうか。あるいは、植民地主義の人道的側面を再評価すべきでしょうか。なかなか難しい問題です。

こうした問題にただちに答えを出す必要はないのですが、植民地主義と平和構築(人道的介入、保護する責任、暫定統治)とには共通して底辺に「人道主義」が一貫して存在していたことは、やはり、見逃してはならないと思います。それを認めることで、植民地主義の役割をいくらか見直すのか、あるいは、平和構築の位置づけを見直すのかは、人によって答えが違うのだと思いますし、それぞれの国の歴史によってもその評価は異ならざるを得ないものと思います。しかし、国際社会における人道的な配慮をなくすわけにはいかないものと思います。もちろん、あらゆる干渉・介入をしない立場があるということは認めなければなりませんが、それにしても、現在の世界にはあまりにも悲惨なことが多すぎます。見て見ぬ振りをして済ますことほど非人道的なことはないわけで、それならば、以上述べたような知的困難があるとしても人道的立場から介入する道を私は選ばねばならないと考えます。

必要ならば、「今一度植民地主義を」、「人道主義をベースにした植民地主義を」と訴えてもいいのではないかと思うわけです。もちろん、植民地主義を批判的に捉えつつ、平和構築を積極的に論じる視点を模索することは重要ですが、発想の構造が似ていることを思えば、そうした区別はなかなか難しいのではないかと思います。今にして分かる植民地統治という感を強くします。

1
年勉強して、かなり意外な所に行きつきました。これが勉強の醍醐味であると断言します。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年8月15日木曜日

第115回【紛争のルーツ――植民地主義⑦】

2014年度の総括の講義を続けます。

ところで、冷戦が終了して四半世紀を経た現在、国際社会が直面している最大の問題のひとつが「破綻国家」をどうするかという問題であると思います。植民地から独立を果たした地域が自国だけではどうにもまともな統治を確立できないという問題でもあるのですが、こうした問題は、冷戦時代には、冷凍保存されていたようにあまり表には出てこなかったのです。ところが、冷戦の終了と同時にほぼ解凍されて、今では多くの地域で、あたかも歴史が逆転したかのような様相を見せているのです。こうした「破綻国家」にとってまず第1に必要なものは強い国家そのもので、それの確立を自身ではできないというのが問題なわけです。そこからは極めて非合理的な、つまり、秩序ある社会に生きる我々にはほとんど理解できないような暴力や紛争が噴出しており、まさに人道的な危機が立ち現われています。

現在のこうした「破綻国家」に対する処方箋としては、国連を始めとする、ということは、つまり、先進国や先進国をベースとするNGOなどの外部アクターによる「平和構築活動」が中心となっています。しかしながら、ちょっと考えてみれば分かることですが、この「平和構築活動」とは、19世紀の、人道主義を語る「植民地主義」と極めて似た構造を持つ活動なのではないかと私には思えます。

冷戦後の世界のもう一つの脅威が「新しい戦争」と呼ばれる紛争です。具体的には、破綻国家における内戦やそこから生まれるテロを指すと考えればよいわけですが、これは「新しい野蛮」とも言い換えられるものです。「野蛮」ではあるけれど、そこで使用される武器などは近代的なもので、昔の野蛮とは相当に様相が異なっています。「新しい戦争」と呼ばれるこの戦争は、主権国家同士の従来の戦争とは違って、国家破綻の過程やその結果から生み出される内戦やそうした権力の空白におけるテロ集団の誕生と成長、そして、そのテロが海外で行われる可能性のすべてを指すものです。内戦による難民の流出や国内避難民の問題、そして溢れ出すテロの脅威は、すべてこうした地域に秩序を生み出すべき権力が確立できないことから発生しているわけで、「破綻国家」の問題と根は一緒ということができます。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html




2019年7月30日火曜日

第114回【紛争のルーツ――植民地主義⑥】

2014年度は「紛争のルーツ――植民地主義」をテーマとしてゼミで1年間勉強をしました。年度の終わりに私の総括として「今再びの植民地主義」と題して講義を行いました。その講義を以下にご紹介致します。

今年は「植民地主義」をテーマとしました。なかなか難しいテーマであったと思います。イメージとしては、アジアやアフリカに今もある混乱のルーツが実は、植民地時代の遺産であり、そのルーツと今の紛争を結びつけるというものでした。しかし、ゼミで様々な植民地についての知識を得てみると、植民地から独立をして約半世紀が経ったにもかかわらず、そこにいまだにある紛争というものが、植民地時代に直結するという例は必ずしも多くないかもしれないと感じたかもしれません。

皆さんに課題として与えた本が、最初がラス・カサス(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫)、次が日本の朝鮮統治についてのもの(ジョージ・アキタ『「日本の朝鮮統治」を検証する19101945』草思社)でした。今から振り返ると、この2冊の本は、植民地主義の2つの顔を象徴するものだったのかもしれません。

植民地統治の時代は15世紀から約5世紀続いたわけですが、その様相は必ずしも一様ではありません。概ね、植民地統治には2つの顔があったように思います。すなわち、ラス・カサスの著書に象徴されるような「略奪」の側面と、19世紀以降のイギリスや日本の植民地統治に確かに存在したような「人道主義」の側面です。

どちらにしても、植民地主義とは、先進国が劣った地域を「野蛮」であるとか「非文明的」であるとかの観点から、つまり、上から見下ろしたものであることは間違いがありません。植民地にされた地域は「野蛮」「非文明」「無秩序」とされ、そこに「文明」と「秩序」を与えるのが先進国・文明国の役割とされたわけです。もちろん、こうした人道主義的な言説は「略奪」を覆い隠す言い訳とされた場合もあったと考えられます。

先進国が植民地とした地域の地誌や歴史に詳しかったわけではありません。それ故、そこに「文明」をもたらすどころか、植民地統治が却ってその地域を無秩序にする例があったことは間違いがありません。さらに、その当時の境界線が今も独立後の国境として守られている例が多い故に、多様な紛争の元を絶てないということがあることを考えると、植民地主義の遺産とは確かに現在も継続されていると言わざるを得ません。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html




2019年7月15日月曜日

第113回【紛争のルーツ――植民地主義⑤】

2014年度は、植民地主義と現代の紛争をテーマとしました。

植民地とされた側ではなくて、植民地を持った側をテーマの中心としたゼミ生が何人かいました。なかでもイギリスをテーマとしたゼミ生が複数いました。先にご紹介しました「シエラレオネ」の論文もそのひとつです。また、オーストラリアをテーマとしたゼミ生、香港を取り上げたゼミ生、アイルランド支配を論じたゼミ生もいます。日本の台湾統治をテーマとしたゼミ生もいましたし、オランダの東インド会社を取り上げたゼミ生もいました。

これらの中でも、もっとも現在と接点があるのが「香港」であると思います。

香港は、1997年にイギリスにより中国に返還されました。「永遠」との意味もあるとされる「99年租借」を満了しての返還でした。

イギリスの香港に対する植民地政策は、経済的な成功としては例外的なものですが、政治的な民主化という点では中途半端で、しかし、イギリスの植民地政策としては一般的なものでした。つまり、イギリスは、インドがもっともいい例ですが、撤退前には植民地に「民主化の種」を残すのです。インドはその後、独自に民主化を成し遂げ、現在ではもっとも巨大な民主国家を現実のものとしています。

これに対して香港は、中国との返還交渉が始まるまでは民主化とは無縁で、イギリス人の総督の独裁体制だったのですが、中国への返還が避け難くなって後、イギリスは「民主化の種」を撒き始めます。それを考えると、香港の民主化の歴史はわずかに30年で、しかも、インドとは異なって、民主化を圧倒的な力で押しとどめようとする中国の存在により、制度としては民主化がむしろ後退する可能性が高いのです。

50年間の「一国二制度」が適用されている香港ですが、返還時に民主化が完成された状態ではなかったために、中国共産党の支配下においては、民主化の進展はなかなか難しいというのが実態です。しかしながら、そうであるが故に、イギリス支配の下では、豊かさを享受するのみで民主化などの政治制度にはほとんど関心を持たなかった香港市民が、現在では、真に民主化を求め、さらに進んで、自らが中国人であるのか香港人であるのかというような、アイデンティティの問題を問うようになっています。ゼミ生が指摘していることですが、困難な現状が市民の政治意識に火を点けていることは間違いのないことで、民主制を当然として受け止めて、逆に、政治に無関心となっている日本人が香港から学ぶことは案外多いと言えるのかもしれません。

イギリスの香港支配の評価として、ゼミ生は、経済的には資本主義を根付かせ豊かさをもたらし、政治的にも「民主化の種」を残したという点で高く評価できるとしていますが、「うまく逃げた」との評価もしており、確かに、そうかもしれないと私も思います。イギリスは、今後も、民主化の後退がうかがわれる場面では、それに対する抗議を行うものと思いますが、果たしてどこまで本気か疑われるところです。

植民地を持った側をテーマとしたゼミ生の中には、宗主国が植民地において行った教育について論じた者もいました。このゼミ生は、フランスの西アフリカにおける教育政策を中心として、イギリスにおけるインド、アメリカにおけるフィリピン、オランダにおけるインドネシア、スペインにおけるパナマでの教育政策を比較して、宗主国の植民地に対する教育政策を考察しました。

宗主国各国の教育政策は、各国の国内事情や国民性によって大きく異なっていることが分かるのですが、共通して言えることは、植民地時代の教育が、現地の言語や生活習慣、宗教などに巨大な影響を及ぼし続けているということです。簡単な例をあげますと、南米でもアフリカでもスペイン語やフランス語が公用語となっていますし、キリスト教が今でも大きな影響を社会生活に及ぼしています。

ただ、皮肉なことに、こうした教育の影響は、人々の独立の意思をも生み出しました。教育とは面白いもので、それが成功すればするほど、教育を受けた人間はより広い世界を求めるようになり、教育する側の手を離れて、思いもよらない方向へと走り出し成長していくのです。宗主国は、意図せず、植民地支配を通じて現地の人々に独立心を植え付け、教育を通じてそれに水をやり続けていたと言えるのかもしれません。

次回より、2014年度の私の総括の講義を再録致します。

 ※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html




2019年7月1日月曜日

第112回【紛争のルーツ――植民地主義④】

アフリカを対象に論文を書いたもうひとりのゼミ生は、エリトリアを取り上げました。

エリトリアは、日本ではほとんど話題になることのない国です。しかし、地中海を小さな船で渡ろうとする難民にエリトリア人が多く含まれていることが知られています。難民の多くが紛争や内戦の結果祖国を後にするのに対して、エリトリアにおいては、国の独裁体制と貧困が国民、特に、若者を難民として海外に押し出してしまっています。

エリトリアは、もともとはイタリアの植民地、第2次大戦途中からイギリスがこれを引き継ぎ、戦後はエチオピアに合邦されました。1993年にエチオピアからの独立を果たしますが、2001年のエチオピアとの国境紛争以来、独裁体制と孤立主義が顕著になり、「アフリカの北朝鮮」とまで言われるようになっています。ゼミ生は、現在のこうしたエリトリアの独裁体制が植民地経験の影響と言えるかどうかを論文で考察し、植民地時代のトラウマは確かに存在しているとしています。

ゼミでも議論を戦わせましたが、私にはどうにもそうは思われませんでした。アフリカの経験した植民地経験は、確かに、広く深く現在まで影響を残していることは確かです。民族・部族の存在をおよそ無視した国境線は今でも紛争の種となっています。しかし、独裁的な政治体制やその政権の腐敗の多くは、アフリカ自身の責任であると私は思います。先進国にもアフリカにも、あらゆることを植民地時代の悪影響のように言う人がいますが、本当でしょうか。むしろ、そうした議論は、アフリカの人々をどこか馬鹿にしていると言えないでしょうか。また、自分たちの腐敗堕落をいまだに植民地時代のヨーロッパ諸国の責任とすることは、それ自体、さらなる精神の腐敗堕落を招くと言えるのではないでしょうか。
2014年度は、現在の国際紛争のルーツの多くが植民地時代の負の遺産にあるとの仮説でテーマを選び、議論をしたのですが、エリトリアの現状が植民地時代の直接的な影響を受けていると私には思われませんでした。

アフリカの他に、カリブ海の島国セント・クリストファー・ネービスをテーマとしたゼミ生もいましたが、東南アジアをテーマとしたゼミ生が案外多くいました。インドネシア、東ティモール、マレーシアに加えて、植民地にならなかった例としてタイを取り上げたゼミ生がいました。

タイは、日本と同様に、アジアで植民地にならなかった例外的な国です。最近即位したラーマ10世の直接の祖先であるラーマ4世・5世の時代のことです。

インドを植民地とし、さらに、ビルマを植民地化したイギリスが西からタイに進出しようとしました。また、東側では、ベトナム、ラオス、カンボジアを植民地化したフランスがタイに迫っていました。こうした状況において、東南アジアの真ん中に位置するタイは、ヨーロッパの植民地大国の、いわば、緩衝地帯となったのです。もちろん、ラーマ4世・5世を先頭にしての、タイの巧みな外交と国内における近代化政策も見逃すわけにはいきません。

このように考えてみると、タイの置かれた状況は、案外、日本の状況に似ていたように思えます。薩長の背後にはイギリスが控え、フランスが幕府を支援する。大きな内戦なしに維新を実現し、その後は一気に近代化に走る。地理的にも、日本は海に囲まれ介入のし難い環境でした。

植民地にされなかった地域自体の、あるいは、それが置かれた状況の特色を一般化することは困難です。しかしながら、その地域の、巧みな外交の存在と、国内における近代化政策の成否は鍵であると思います。ヨーロッパの大国の多様な要求をのらりくらりとかわしながら、ヨーロッパ型の国家作りをスタートさせ、大国の介入をできるだけ避ける。それがタイの成功の要因であったことは間違いありません。インド以西のほとんどすべての地域がこれに成功せず、タイのみがこれを実現したことは極めて印象的なことでした。


次回以降も、ゼミ生の論文のご紹介を続けます。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

2019年6月16日日曜日

第111回【紛争のルーツ――植民地主義③】

植民地と言って、まず思い浮かべるのは何でしょうか。植民地にされた地域でしょうか、あるいは、植民地を持った国々でしょうか。あるいはまた、そうしたこととは異なった多様な事象のうちの何かでしょうか。

私は、ゼミのテーマを、植民地主義と現代の紛争を結びつけて理解していましたので、てっきり中東やアフリカがゼミ生の関心の主要なものとなるはずだと思っていたのですが、その当ては見事に外れました。中東をテーマとしたゼミ生は、前回ご紹介しました通り2人でしたし、今回ご紹介致しますアフリカをテーマとしたゼミ生も2人でした。

アフリカをテーマとしたゼミ生のひとりはシエラレオネをテーマとして取り上げました。日本ではあまり知られていない西アフリカの小国です。少し前ですが、ディカプリオ主演の映画「ブラッド・ダイヤモンド」で、ダイヤモンドをめぐる紛争の舞台となったのがシエラレオネと隣国リベリアでした。これにつきましては、「少年兵」の話題でも触れたところです(107)。

シエラレオネの首都はフリータウンと言いますが、この名称には味わうべきものがあります。つまり、シエラレオネは、アフリカからヨーロッパ諸国によってアメリカ大陸やカリブ海に奴隷として連れて行かれた黒人たちをイギリスがシオラレオネに連れ戻し、彼らを自由にするとしてイギリスが植民地にしたところだからです。ゼミ生はこの経緯を論文としました。

私は昔から、なぜイギリスが奴隷貿易から早々に撤退し、それだけでなく、他国に奴隷貿易をやめるように圧力をかけるようになったのかに興味を持っていました。ちなみに、奴隷貿易を最後まで行っていた国はポルトガルですが、そのポルトガルが奴隷貿易を完全にやめたのは第1次大戦後だったのです。ほんの100年前のことです。

ヨーロッパ諸国は、自国とアフリカ、アメリカ大陸の3者を三角貿易で結びつけることで大きな収益を上げていました。自国から工業製品をアフリカに運び、黒人奴隷と交換し、彼らをアメリカ・カリブに運び、プランテーションで働かせ、そこで生まれる収益を獲得してきたわけです。随分とダイナミックで、野蛮な商売だったように思います。そこでの主体は実は民間の商人たちで、その商人たちは国家からの認可を受けていたのでした。シオラレオネにおいては、シオラレオネ会社がその元締めです。

イギリスがシエラレオネを植民地化したのは、奴隷貿易が利益を生みにくくなり、また、本国において黒人の存在が様々な社会問題を引き起こすようになってからです。つまり、植民地化が奴隷貿易を生んだのではなく、奴隷貿易の行き詰まりを植民地化で打開しようとしたと理解できます。

非常に興味深いことですが、イギリスはアメリカにおける独立戦争を戦っている時に、イギリス軍において戦う黒人に対して、戦後自由を与えるという約束をしています(「ダンモア宣言」)。アメリカ南部においては、多くの黒人奴隷が脱走しイギリス軍のもとに逃げ込んでいます。その一部は戦後、イギリスに渡り、そこで貧民となり大きな社会問題を引き起こします。参戦した黒人奴隷の多くは本物の自由を得られませんでした。このイギリスの黒人に対する約束は、中東における二枚舌・三枚舌(110を参照下さい)に通ずるものがあります。

こうして持て余すようになった黒人たちを、再び、自由を与えるというスローガンの下に、シオラレオネに移送するためにイギリスはシオラレオネを植民地化します。ゼミ生も指摘していますが、持て余した犯罪受刑者をオーストラリアに追放したのと同じように、社会の最底辺にうごめく元奴隷の黒人たちをシオラレオネに追放したかのように見えます。

イギリスは、このようにして、シエラレオネに、解放された奴隷を移住させ、自由の国を作るとしたわけですが、ゼミ生によると、その実態はそれまでの奴隷貿易とさほど変わらないものであったといいます。すなわち、解放した奴隷を再び労働者の確保に利用していたのです。形が変わっただけで、実態はそれほど違うものではありませんでした。

シエラレオネは1961年に独立を果たしますが、その後も内戦などの紛争が絶えませんでした。しかし、ゼミ生の指摘の通り、独立後の紛争とイギリスの植民地支配の影響との関係は深くないように見えます。イギリスの植民地支配に多くの問題があったことは事実ですが、独立後のシエラレオネの紛争はむしろ政権の腐敗やダイヤモンドといった資源をめぐるものだったり、リベリアのような隣国との関係によるものであったということができます。

私にとって非常に興味深かったのは、イギリスのシオラレオネをめぐる政策が、他の地域における政策と非常に似通っているという事実でした。考えてみれば、イギリスという同じ国の政策がある傾向を持っているということは当たり前のことかもしれませんが、シオラレオネにおける政策と第1次大戦時の中東における政策やオーストラリアにおける政策が共通点を持っていることには意外性がありました。

もう一人のゼミ生はエリトリアを取り上げたのですが、これについては次回ご紹介致します。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html


2019年5月30日木曜日

第110回【紛争のルーツ――植民地主義②】

2014年度のテーマ「紛争のルーツ――植民地主義」は、時代・地域など広大な背景を含んだテーマで、私としてはどこかにテーマを絞りたいと思ったのですが、学生の関心を中心に据えて考えてみると、そうもいかないというのが実際でした。

ゼミ生はテーマに惹かれてゼミを選択してやって来るのですが、テーマの間口が広ければ広いほど多様な関心を持ったゼミ生が集まります。何年か前には、ゼミに入ってから「柴田ゼミならアフリカの勉強ができると思った」と告白したゼミ生がいました。研究領域として私はアフリカとは無縁ですが、その学生は2年続けて私の設定したテーマの中でアフリカをテーマとして取り上げてゼミ論を執筆しました。学生たちの間でどのような「噂」が飛び交っているか分かりませんが、柴田ゼミが相当に自由なことは確かでした。

というわけで、2014年度に集まったゼミ生の関心もかなり拡散気味で、私はそれを無理に絞ることを結局はしませんでした。その結果、実に多様なゼミ論が提出されることとなりました。以下、ゼミ生の論文をご紹介致します。

21世紀に入って、「紛争、テロ、植民地時代の歴史」というキーワードから連想する地域は、まず第1に中東であると思います。2014年度は、3年生・4年生を合わせて14名がゼミに所属していましたが、中東をテーマとしたゼミ生はわずかに2人でした。私は、実は、半分くらいのゼミ生が中東をテーマとして様々な地域、時代を掘り下げてくれるのではないかと期待していました。学生の関心というのは読めないものです。

2人のうちのひとりは、紛争が現在進行中のシリアを取り上げ、現在のシリアの紛争を第1次大戦後の体制の継続として論じました。イスラム国(IS、あるいは、ISIS)は、第1次大戦中に結ばれた「サイクス・ピコ協定」の撤廃を繰り返し求めていますが、このゼミ生は、第1次大戦中の「フサイン・マクマホン書簡」と「サイクス・ピコ協定」から「バルフォア宣言」に至るまでのイギリスとフランスの外交的失敗よりは、大戦後のこの地域のフランスによる委任統治にこそ現在の紛争の淵源があると論じています。

これらの一連の協定・宣言は、第1次大戦でドイツと組んだオスマントルコをいわば内部から攻撃するためのイギリスの苦しい努力の結果で、アラブ人には、戦後の独立を約束し(フサイン・マクマホン書簡)、英仏の間では、戦後のこの地域の分割を決め(サイクス・ピコ協定)、さらに、ユダヤ人にはパレスチナにおける独立国家の樹立を支持する(バルフォア宣言)というものでした。このイギリス外交は、現在に至るまで二枚舌、三枚舌と批判されるものです。

シリアはサイクス・ピコ協定においてフランスの勢力圏として位置づけられ、実際に戦後、フランスの委任統治下に入ることとなりました。フランスの委任統治は、イギリスの植民地統治がそうであったように、植民地における民族や宗教の分裂や対立を利用したものでした。シリアにおいては、イスラム教の宗派であるスンニ派とアラウィ―派を対立させそれを煽り、それを利用して統治を行いました。この時以来醸成された宗派対立が現在のシリア内戦に直接繋がっているわけで、このゼミ生は「シリアは今も第1次大戦を戦っている」と表現しています。

この紛争の解決は簡単にはいかないわけですが、オスマン帝国時代の「ミレット」と呼ばれる自治制度がヒントになるとゼミ生は指摘します。オスマン帝国時代には、各民族、各宗派が相互に相手の存在を認め、平和に共存していたと言われますが、第1次大戦終結から100年を経て、そのような過去のアイディアが果たしてどのように実現可能であるのか、難しい問題と言わざるを得ません。

もう一人のゼミ生は、ストレートに「イスラム国とは何か」をテーマとして取り上げました。イスラム国が最終目的とするサイクス・ピコ体制の破壊、すなわち、イギリスとフランスによってイスラム世界に勝手に引かれた国境線を廃し、一つのイスラム国家に統合しようというアイディアは、多くのイスラム教徒に訴えかけるものがあります。しかし、イスラム国の現に行使している手段は到底受け入れられるものではないとゼミ生は論じます。

私は思うのですが、国民国家とは捉え難いものではありますが、その持つ求心力には侮りがたいものがあります。それがいかに不完全なものであるとしても、国民国家として半世紀以上を過ごしたイスラム諸国は、「ひとつのイスラム」という大義に魅せられ続けながらも、国民国家を脱して、統合の道を歩むことができるかと言えば、私は徹底的に悲観的にならざるを得ません。


現在、ヨーロッパにおいてEUは揺らいでいますが、イスラム諸国は、ヨーロッパ諸国が持つ大義以上に大きな大義こそあれ、そのEUにもまったく及ばない分裂の状態で漂っています。オスマン帝国のミレットもそうですが、私には、過去にはヒントこそあれ、答えはないように思えます。『ウェストファリアは終わらない』でも論じましたが、主権国民国家諸国の平和共存を模索する以外に方策はないのではないかと思いますが、確かに、それは簡単なことではないのです。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html