2019年9月15日日曜日

第117回【戦争に負けるとはどういうことか①】

2015年度は「戦争に負けるとはどういうことか」をテーマとして1年間ゼミを行いました。以下、ゼミ生募集のために書いた文章です。学生はこのような文章を読んで、自分が所属したいゼミを選択しますが、ゼミには定員がありますので、場合によっては選考があり、2次募集に応募しなければならないということもあります。

半年くらい前に、「戦争になったらどうしますか」という質問に答える調査の結果が新聞に出ていました。詳しく憶えているわけでありませんが、確か、「自衛隊を助ける」「逃げる」「戦う」のような順に答えが出ていたように思います。昔と比べれば、「逃げる」の割合は減っているような気がしましたが、それでも、どこか腰の引けた感じの人が多いと感じました。もっとも、普通の人が「戦う」なんてことができるとは思えません。それにはいくらかの訓練が必要で、スイスは国民皆兵の国ですから、そうした訓練を成人男子のすべてに毎年行っています。

私がこの調査から感じたのは、戦争がいけないことだ、できればしない方がいい、と多くの人が考えてはいるけれど、実際に戦争になることについてはほとんどの人が真面目には考えていないということでした。それは、もしかしたら、そうした質問をした調査元にも言えるのではないかとも思いました。

柴田ゼミは国際政治のゼミですから、テーマは常に「戦争と平和」にかかわります。戦争とは何か、平和とは何か、戦争はなぜ起きるか、平和をどのようにして実現・維持するかというようなことが毎年のテーマの背景にはあります。

人間はこれまで、残念ながら、戦争をし続けてきました。戦争を好んでしようとする人は多くないはずなのに戦争はなくならないのです。国際政治の構造に諸国家に戦争をさせる何か特別の要因が組み込まれているのかもしれません。戦争は避けようがない何ものかであるのかもしれません。そうであるとすれば、日本だって戦争を再びせざるを得ないはめに陥ることがあるかもしれません。

戦争はやらないに越したことはありません。できることなら、全力を尽くして回避するべきものであるとは思います。しかし、戦争が避けられないものであるとすれば、何よりもまず言えることは勝たなければいけないということだと思います。あるいは、絶対に負けてはいけないと思います。逆に言えば、負ける戦争は絶対にしてはならないのです。なぜなら、戦争は確かに悲惨ですが、戦争に負けることは戦争それ自体を上回る悲劇だからです。

日本においては、戦争になりそうになったら、戦わずに降参すればいいとまで言う「平和主義者」がいて、そういう人は実は珍しくないのですが、それは戦争の悲惨さに目を奪われて、戦争に負ける悲劇に思いが至っていないのだと思います。何度も言いますが、確かに戦争はそれ自体で悲惨なものですが、負け戦の悲惨さはそれとは比較にならないほどのものであるのが普通です。だからこそ、負ける可能性のある戦争はとことん避けなければならないし(そして、すべての戦争は負ける可能性があります)、戦争になったら絶対に負けてはならないのです。

さて、こうした関心から、今年度は「戦争に負けるとはどういうことか」ということをテーマとします。

20世紀になって、戦争が社会全体で戦う総力戦になって以降、戦争の処理も社会全体に影響を及ぼすようになりました。それによって、戦争の遂行それ自体が社会全体に大きな影響を及ぼし、また、勝者も敗者も戦争の帰趨から多大の影響を被るようになりました。特に、敗者の受ける傷は容易ではないものとなりました。そうした敗者の戦後の例を詳しく勉強してみたいと思います。具体的には、第1次大戦後のドイツ、ナチス占領下のフランス、第2次大戦後のドイツと日本を想定しています。

日本の第2次大戦後がいかに悲惨であるかについて日本人は薄々感じてはいるものの目を逸らしていると私は思います。これは戦後すぐのことを言っているのではありません。今年(2015年)は戦後70年だそうですが、戦後は続いていると私は思います。このままでは日本人としての私の人生のすべてが戦後の悲惨の中で送られることになりそうです。それほどに戦争に負けたことの影響は深く大きいのです。それにしても、明治の近代化以降、たった1度の敗戦でここまで「へたる」日本とは何でしょうか。こうしたことについても、できれば、深く考えてみたいと思います。

それを対象にするかどうかは追々考えてみたいと思いますが、現在のロシアも、その自覚がどれほどあるか疑問ですが、冷戦の敗者です。冷戦が戦争であったかどうか自体が議論のできるテーマですが、現在のロシアの様子が冷戦における敗北と関わりがないわけがないと思います。敗戦ほど社会に大きな影響を及ぼす事件はないからです。


以上のような問題意識の下、「戦争に負けるとはどういうことか」というテーマに2015年度は取り組みます。まずは、映画などを通じて、戦争の実際を知ってもらおうと思います。ま、ほんとは、イスラム国あたりに行って実戦に参加してみるというのが一番理解が深まるのですが、私には伝手がありませんし、行ったとたんに首を切られて勉強にならない可能性が高いので、映画やドキュメンタリーなどを利用しようと思います。具体的なテーマについては、初めてグループを組んでやらせてみようかとも思っていますが、さて、どうしますか。歩きながら考えようと思います。

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2019年9月1日日曜日

第116回【紛争のルーツ――植民地主義⑧】


「破綻国家」の問題にしても「新しい戦争」の問題にしても、究極的には、そうした地域にまともな国家を打ち立てなければならないという問題で、現在では、「保護する責任」であるとか「暫定統治」といったような処方箋が国際社会では出されて試されているのですが、考えてみれば、処方箋という言葉を使ったことからも分かるように、そこには「野蛮」という病理が存在するのであり、そうした病理にいかに対処するかが問題とされているわけです。

植民地統治について、現在から振り返ってそこに善意を見るのは少数派の立場だと思いますが、破綻国家に対する人道的介入や暫定統治については、それを肯定的に捉える人が多いように思います。しかし、両者の考え方の構造は案外似ているのではないでしょうか。

植民地主義においては、「文明」と「野蛮」が対比され、「文明」が「野蛮」を略奪する場面も珍しくはなかったとはいえ、「文明」が「野蛮」を文明化し、「野蛮」の下に置かれている人々を救済するという「人道主義」的な側面も存在していました。そこにおいては、文明化する主体と文明化される主体に明らかな非対称的な関係が存在していました。上下関係と言っても間違いではない関係です。

これと同じように、平和構築、人道的介入、暫定統治についても、そこには「略奪」の側面は存在しないにしても(あればそれは犯罪として処罰を受けます)、上下関係と言ってもいいような、明確な主体と客体の非対称的な関係が存在しており、「人道主義」という側面が前面に現れた活動であることは間違いないにしても、非対称的な構造については、植民地主義と変わることがないことは明らかです。

つまり、植民地主義のある側面と冷戦後の平和構築のある側面は、明らかに構造的に類似しているのであり、植民地主義を全否定しておきながら平和構築を肯定するのは難しいのではないかとも考えることができるのです。それとも、平和構築は必要悪なのでしょうか。それに携わっている人にそうした自覚はあるでしょうか。あるいは、植民地主義の人道的側面を再評価すべきでしょうか。なかなか難しい問題です。

こうした問題にただちに答えを出す必要はないのですが、植民地主義と平和構築(人道的介入、保護する責任、暫定統治)とには共通して底辺に「人道主義」が一貫して存在していたことは、やはり、見逃してはならないと思います。それを認めることで、植民地主義の役割をいくらか見直すのか、あるいは、平和構築の位置づけを見直すのかは、人によって答えが違うのだと思いますし、それぞれの国の歴史によってもその評価は異ならざるを得ないものと思います。しかし、国際社会における人道的な配慮をなくすわけにはいかないものと思います。もちろん、あらゆる干渉・介入をしない立場があるということは認めなければなりませんが、それにしても、現在の世界にはあまりにも悲惨なことが多すぎます。見て見ぬ振りをして済ますことほど非人道的なことはないわけで、それならば、以上述べたような知的困難があるとしても人道的立場から介入する道を私は選ばねばならないと考えます。

必要ならば、「今一度植民地主義を」、「人道主義をベースにした植民地主義を」と訴えてもいいのではないかと思うわけです。もちろん、植民地主義を批判的に捉えつつ、平和構築を積極的に論じる視点を模索することは重要ですが、発想の構造が似ていることを思えば、そうした区別はなかなか難しいのではないかと思います。今にして分かる植民地統治という感を強くします。

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年勉強して、かなり意外な所に行きつきました。これが勉強の醍醐味であると断言します。

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