2020年2月19日水曜日

第127回【戦争に負けるとはどういうことか⑪】

アメリカは、戦争に勝って、日本を民主化しました。私は、日本の側にも非常に大きな病的要素があったと信じていますが、日本の民主化は、アメリカから見ても、当の日本から見ても成功したように見えます。この成功体験が、後のアフガニスタンやイラクにおいても大きな影響を及ぼすわけですが、日本においてのようには成功を収めてはいません。アメリカは、日本においては、日本のアイデンティティに手を突っ込んで、それの改造に成功をしたわけですが、アフガンやイラクでは必ずしも成功しなかったわけです。

20世紀の敗者の悲惨の象徴が日本であると私は思います。日本はアメリカによってアイデンティティの改造までもなされました。19世紀までの戦争においては、戦争に負けたからといって、勝者によって露骨に国家体制の変革や国民性の改造までもなされた例はありませんでした。確かに、殺されたり犯されたりすることは悲劇です。しかし、ロボトミー手術がそうであるように、国民全体の頭の中を改造されることほどの悲劇があるでしょうか。アメリカが戦争に勝った後で敗戦国に押し付けようとするアメリカン・デモクラシーは、確かに、他の多くの政治制度に比較すれば、ましなものかもしれません。しかし、国家はそれを外から押し付けられてそれを採用するのではなく、自ら選び取って、しかも、自らに相応しい形に自ら変革をしながら根付かせなければいけません。アメリカがやるロボトミー手術では、それは絶対に歪むのです。

吉田茂は敗戦の時に「戦争に負けても、外交で勝った歴史はある」と言って、アメリカの占領に抗したとされ、一種の美談としてこのセリフが引用されることがあるのですが、果たして、それは正しいでしょうか。私は、日本が本当に負けたのは、戦後の外交においてではなかったかと繰り返し疑っています。

簡単に言えば、戦後日本はアメリカによって骨抜きにされました。勝手に書いた憲法を与えられ、軍隊を持つことを禁じられ、アメリカン・デモクラシーを植え付けられました。戦争で負けたからといって、どうしてこれらに抵抗ができなかったのでしょうか。あるいは、占領が終わった時点で、どうして赤んべーをしてチャラにできなかったのでしょうか。戦争で負けた悲惨が戦後の悲惨を生み出し、それが現在もまだ継続中の状況であるとは、まさに二重の悲惨であると思いますが、多くの国民はそれに気付いていないかのようにも見えます。まさに「愚者の楽園」で、その意味で悲劇は三重の構造からなると言ってもいいのかもしれません。

戦争に負けたことによって被る悲惨には様々なものがあるわけですが、私は、その最大のものを「強いられたアイデンティティの喪失」に求めました。その典型例が日本であると論じました。また、こうした性質はアメリカの国際社会への参入によってもたらされたとも論じました。その背景には、アメリカの建国の歴史が横たわっています。そして、この「強いられたアイデンティティの喪失」という悲劇は、まさに現代の「新しい戦争」にこそ付き纏い、さらに過激さを増していると思います。

私たちは、戦争をどのように戦い、どのように終わらせるべきでしょうか。科学技術の進歩が後戻りすることがない以上、昔に戻るという選択肢はありません。ひとまず考え続けるしかないと考えると、必ずしも未来は明るくないと思われれて憂鬱になります。仕方ないことですが。

以上、「ロボトミーの戦後」と題して行った2015年度の総括の講義をご紹介致しました。

次回から2016年度のゼミのご紹介を致します。2016年度が学習院柴田ゼミの最後の1年となります。最後までお付き合いいただければ幸甚です。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

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