2016年3月15日火曜日

【第34回】難民は夢を見るか④

2008年度は、難民をテーマとしてゼミを展開しましたが、難民と言えば、そこには国家絡みの紛争が存在するのが普通です。あるいは、ソマリアがいい例ですが、破綻国家の典型的な問題とも考えられます。ですから、学生たちの取り上げた難民の問題の背景には、必ず、国際紛争や内戦が存在しているわけですが、例外があることも事実です。つまり、紛争や内戦があるわけでもないのに難民が流出している例です。

ブータンがそれです。

ブータンと言えば、日本では、ヒマラヤの麓にひっそりと、貧しいながらも国民みんなが幸せに暮らす国というイメージが定着しています。どう考えてもブータンの国際的な宣伝は大成功を収めているように思えます。最近では、若くして王位についたブータン国王が新婚旅行を兼ねて日本を訪問して、話題になりました。

ですから、ブータン難民を取り上げると3年生の女子が報告した時には、正直、驚きました。ブータンに難民がいるのかと。しかし、確かに、難民は存在し、しかも、その難民の問題の在り方は、ミャンマーのロヒンギャにそっくりなのです。

ブータン難民の問題はそれほど古い問題ではありません。
ブータンの人口は約60万、小なりといえども、ブータンは多民族国家です。総人口の50%をなす北部のチベット系ブータン人と同じく40%をなす南部のネパール系ブータン人が共存していたわけですが、1990年頃になって、北部の文化・伝統に基づいた国家統合政策(同化政策)が施行されることによって、南部のネパール系の人々が弾圧を受け、ネパール系がそれに反発することで、結局は、ブータン政府による「民族浄化」(異民族・異文化の排除)が行われることになったのです。

実に、難民の数は12万、国民の5分の1が難民として、概ね、ネパールの難民キャンプで暮らしています。ブータン難民をテーマとしたゼミ生は、ネパールの難民キャンプの責任者(日本人ではない)とメールをやり取りすることで、そこでのネパール難民の生活をレポートしました。

ブータン政府が、もともと多民族国家でありながら、なぜこのような強硬な同化政策を突然取るに至ったのかはよくわかりませんが、そのかたくなな同化圧力と棄民政策は、ミャンマーをも上回るような確信犯的なものです。


ブータンは、国民総幸福(Gross National Happiness)という、経済的豊かさとは異なった国民の幸福の指標を提出するなどして、いかにも穏やかで平和な小国を国際社会で演じているのですが、どこの国にも光があれば、影もあります。

それにしても、このような大きくて真っ黒な影がまったく注目されずにいるのはなぜでしょうか。
学生の研究に教えられることは時々あることは事実なのですが、まったく聞いたこともないという話は、このブータン難民の話が初めてで、大変に教えられるものがあったテーマでした。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。




2016年3月1日火曜日

【第33回】難民は夢を見るか③

この年、2008年度は、ゼミ生が20人もいましたので、ひとりひとりのテーマを詳しくご紹介することはできません。

まずは、以下にゼミ生たちのテーマを列挙して、私が特に面白かったと思うテーマについていくつかご紹介致します。
ゼミ生たちが取り上げた難民は以下のようなものでした。
「今現に」というテーマとしては、チェチェン、チベット、ルワンダ、アンゴラ、シエラレオネ、スーダン、ブータン、ソマリア、モーリタニア、アフガニスタン、ボスニア、パレスチナ、ロヒンギャ(ミャンマー)、カンボジアが2人。
すでに難民の問題としては終息して、歴史となった問題としては、ユダヤとインドシナ。

ユダヤ難民について取り上げた学生の論文は、ナチスドイツの迫害を逃れてリトアニアの日本大使館で、今では有名ですが、杉原千畝大使からヴィザをもらい、日本経由で上海に逃れたユダヤ人の足跡を辿ったものです。

インドシナ難民について取り上げた学生の論文は、ベトナム戦争の終戦に伴って発生した難民についてのもので、日本でも、ボート・ピープルとして多くの人が記憶していると思います。インドシナ難民は、多数ではありませんが、日本に今も在住している人がいますので、ぜひそれらの人に会ってきなさいとそのゼミ生に指示をしたのですが、なかなかうまくいかなかったようです。元インドシナ難民が集まるイベントには出席したようですが、それ以上にはアプローチできなかったそうです。

ゼミ生が実際の難民の方々に会えたのが、ロヒンギャ難民でした。
ゼミ生が「これでいく」とゼミで報告した時に全員が「それって何?」と思ったのが「ロヒンギャ」でした。現在では時々日本でも報道のあるロヒンギャですが、2008年の時点では、日本人のほとんどはロヒンギャのことを知らなかったと思います。実は、変な言い方ですが、国際的には、伝統のある有名な難民がロヒンギャなのです。

ミャンマーにおけるイスラム教徒の少数民族がロヒンギャです。ロヒンギャほどに虐げられた難民はありません。アウン・サン・スーチーの政権獲得でどのような変化が起きるのか、まったく予想がつきませんが、ロヒンギャを難民としているミャンマーの国家の在り方は、非難のしようもなくひどいものです。ロヒンギャは紛れもなくミャンマーにおける少数民族のひとつですが、ミャンマーは国家としてロヒンギャを国民として認めていません。すなわち、あまりないことですが、国家が国民の保護を確信的に放棄しているのです。棄民政策と言っていいと思います。国家が意図して少数民族を難民にしているというのがロヒンギャ問題です。ロヒンギャの多くは同じイスラムの隣国バングラディッシュやサウジアラビアなどに逃れています。

ゼミ生がロヒンギャをテーマとして選んだのは、なるべく知られていないマイナーな難民を取り上げなさいという私の指示を忠実に守った結果なのですが、調べてみると、実は、これが有名な難民の事例であることが分かりました。

さらに、偶然のことですが、ロヒンギャ難民が日本にいることが分かったのです。ロヒンギャをテーマにしたのは4年の男子学生だったのですが、同じ4年の男子学生のお父さんが群馬県の警官で、ある日、出張で東京に来たお父さんが息子と飲みに行って次のような会話を交わしたとのことでした。
「お前、今大学で何勉強してるんだ?」
「難民だよ。(彼はパレスチナをテーマとしました)」
「それじゃ、お前、ロヒンギャって知ってるか?」
「知ってるよ、当然じゃん!」
なぜお父さんがロヒンギャを知っていたかというと、群馬の、お父さんが警官として管轄する地域(館林市)に、なんと、ロヒンギャ難民(日本ではまだ難民認定されていない)が集団(200人程度)で生活をしていたのです。

というわけで、4年生男子全員(3人)が群馬の学生の実家に泊めて頂きながら、ロヒンギャ難民を紹介して頂き、彼らへのインタビューに出掛けたのでした。

実際に難民である人たちに会う経験は日本では稀ですから、学生たちには非常にいい経験となったと思います。こういう偶然の機会を生かす活力がこの年のゼミにはありました。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。