2019年6月16日日曜日

第111回【紛争のルーツ――植民地主義③】

植民地と言って、まず思い浮かべるのは何でしょうか。植民地にされた地域でしょうか、あるいは、植民地を持った国々でしょうか。あるいはまた、そうしたこととは異なった多様な事象のうちの何かでしょうか。

私は、ゼミのテーマを、植民地主義と現代の紛争を結びつけて理解していましたので、てっきり中東やアフリカがゼミ生の関心の主要なものとなるはずだと思っていたのですが、その当ては見事に外れました。中東をテーマとしたゼミ生は、前回ご紹介しました通り2人でしたし、今回ご紹介致しますアフリカをテーマとしたゼミ生も2人でした。

アフリカをテーマとしたゼミ生のひとりはシエラレオネをテーマとして取り上げました。日本ではあまり知られていない西アフリカの小国です。少し前ですが、ディカプリオ主演の映画「ブラッド・ダイヤモンド」で、ダイヤモンドをめぐる紛争の舞台となったのがシエラレオネと隣国リベリアでした。これにつきましては、「少年兵」の話題でも触れたところです(107)。

シエラレオネの首都はフリータウンと言いますが、この名称には味わうべきものがあります。つまり、シエラレオネは、アフリカからヨーロッパ諸国によってアメリカ大陸やカリブ海に奴隷として連れて行かれた黒人たちをイギリスがシオラレオネに連れ戻し、彼らを自由にするとしてイギリスが植民地にしたところだからです。ゼミ生はこの経緯を論文としました。

私は昔から、なぜイギリスが奴隷貿易から早々に撤退し、それだけでなく、他国に奴隷貿易をやめるように圧力をかけるようになったのかに興味を持っていました。ちなみに、奴隷貿易を最後まで行っていた国はポルトガルですが、そのポルトガルが奴隷貿易を完全にやめたのは第1次大戦後だったのです。ほんの100年前のことです。

ヨーロッパ諸国は、自国とアフリカ、アメリカ大陸の3者を三角貿易で結びつけることで大きな収益を上げていました。自国から工業製品をアフリカに運び、黒人奴隷と交換し、彼らをアメリカ・カリブに運び、プランテーションで働かせ、そこで生まれる収益を獲得してきたわけです。随分とダイナミックで、野蛮な商売だったように思います。そこでの主体は実は民間の商人たちで、その商人たちは国家からの認可を受けていたのでした。シオラレオネにおいては、シオラレオネ会社がその元締めです。

イギリスがシエラレオネを植民地化したのは、奴隷貿易が利益を生みにくくなり、また、本国において黒人の存在が様々な社会問題を引き起こすようになってからです。つまり、植民地化が奴隷貿易を生んだのではなく、奴隷貿易の行き詰まりを植民地化で打開しようとしたと理解できます。

非常に興味深いことですが、イギリスはアメリカにおける独立戦争を戦っている時に、イギリス軍において戦う黒人に対して、戦後自由を与えるという約束をしています(「ダンモア宣言」)。アメリカ南部においては、多くの黒人奴隷が脱走しイギリス軍のもとに逃げ込んでいます。その一部は戦後、イギリスに渡り、そこで貧民となり大きな社会問題を引き起こします。参戦した黒人奴隷の多くは本物の自由を得られませんでした。このイギリスの黒人に対する約束は、中東における二枚舌・三枚舌(110を参照下さい)に通ずるものがあります。

こうして持て余すようになった黒人たちを、再び、自由を与えるというスローガンの下に、シオラレオネに移送するためにイギリスはシオラレオネを植民地化します。ゼミ生も指摘していますが、持て余した犯罪受刑者をオーストラリアに追放したのと同じように、社会の最底辺にうごめく元奴隷の黒人たちをシオラレオネに追放したかのように見えます。

イギリスは、このようにして、シエラレオネに、解放された奴隷を移住させ、自由の国を作るとしたわけですが、ゼミ生によると、その実態はそれまでの奴隷貿易とさほど変わらないものであったといいます。すなわち、解放した奴隷を再び労働者の確保に利用していたのです。形が変わっただけで、実態はそれほど違うものではありませんでした。

シエラレオネは1961年に独立を果たしますが、その後も内戦などの紛争が絶えませんでした。しかし、ゼミ生の指摘の通り、独立後の紛争とイギリスの植民地支配の影響との関係は深くないように見えます。イギリスの植民地支配に多くの問題があったことは事実ですが、独立後のシエラレオネの紛争はむしろ政権の腐敗やダイヤモンドといった資源をめぐるものだったり、リベリアのような隣国との関係によるものであったということができます。

私にとって非常に興味深かったのは、イギリスのシオラレオネをめぐる政策が、他の地域における政策と非常に似通っているという事実でした。考えてみれば、イギリスという同じ国の政策がある傾向を持っているということは当たり前のことかもしれませんが、シオラレオネにおける政策と第1次大戦時の中東における政策やオーストラリアにおける政策が共通点を持っていることには意外性がありました。

もう一人のゼミ生はエリトリアを取り上げたのですが、これについては次回ご紹介致します。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html