2016年12月15日木曜日

第52回【1989 時代は角を曲がるか⑦】

1989年」に戻ることにしましょう。
6月」では、ゼミ生たちは以下のような記事を取り上げました。

「早稲田沈んで慶応浮上」「ホームレスの家づくり手助け カーター大統領も参加」「交配種で自由化に備え(乳牛、和牛)」「小声で宇野首相『公の場では…』」「切符の裏使って最も小さな広告 JR東日本の新商法」「主犯の『19歳』に死刑(アベック殺人)」

1989年は、時代の大きな変化の渦中にあったことは間違いありません。もちろん、その変化の意味を考えることがこの年の課題でした。グローバリズムという言葉がこの時期に使われていたかどうか分かりませんが、レーガン・サッチャー流の自由化が加速していたことは間違いありません。農業の自由化への備えの記事や民営化後のJRの試行錯誤についての記事などは、まさにそうした時代の変化を窺わせるものと言えます。

私は「6月」に、65日の朝刊の記事をいくつかコラージュして学生に示しました。この日の第1面のトップ記事は、北京における天安門事件の発生を伝えるものでした。事件の詳細は不明としながらも、この事件が鄧小平体制に大きな影響を与える可能性を指摘しています。同じ1面の真ん中に小さい記事で、「ホメイニ師が死去」との見出しもあります。天安門事件がもし起きていなければ、この記事がトップにあったはずです。そして、国際面に、わずか500字程度の記事で、ポーランドにおける社会主義国での初めての自由選挙の投票の開始の記事があります。この記事は大変に小さな扱いとなっていますが、他に大きなニュースのない日であれば、間違いなく、1面のトップを飾る記事だと私は思います。
新聞には紙面の制約、テレビには時間の制約があります。ニュースらしいニュースのない日もあれば、この日のように、トップを飾っても不思議でない事件がいくつも重なる日もあります。北京での事件が紙面のほとんどを覆い尽くした結果、冷戦の終わりの最終章の始まりと言ってもいいようなポーランドの自由選挙の記事は小さなコラム程度のスペースとなってしまいました。その日その時に、未来から振り返ってその日の何がより重要であったかを感じ取ることは簡単なことではありません。逆に、ニュースを見、新聞を読む側からすると、記事のスペースの大小に惑わされず、ニュースの価値を見抜く目が必要になります。

7月」にゼミ生たちが取り上げた記事は以下のようなものでした。

「ソ連議長 仏知識人2000人と対話」「東欧難民の子ら救え あす東京で救援コンサート」「部下なし『部・課長』を大幅増」「国際事件簿 マフィアに挑む母親」「カラヤン氏死去 世界に君臨 大指揮者」「生体肝移植に成功 豪州邦人母子?経過は良好」

今から振り返ると、1989年は、世界だけでなく、日本の会社も大きな変化をし始めていました。バブル経済がこの時期の最大の特色ですが、それだけでなく、団塊の世代(昭和22年~24年生まれ)が40歳代になり、その人口の規模が社会の質を転換させざるを得なくなったのだと思います。その遥か前から、団塊の世代の年齢の変化とともに社会全体が変化をしてきたわけで、現在の少子高齢化の問題もその延長線上にあると言えます。

私は「7月」に「『制限主権論』脱却鮮明に」という記事を取り上げました。制限主権論とは、一般にブレジネフ・ドクトリンと呼ばれていますが、1968年に、チェコスロバキアにおける自由化の動き(「プラハの春」)にワルシャワ条約機構軍(主力は圧倒的にソ連)が軍事介入をした際に、当時ソ連共産党書記長であったブレジネフが提示した考え方のことです。「共産主義陣営の利益のためには一国の主権は制限されうる」というものです。


1989年のポーランドにおける円卓会議以降、東欧諸国は自由化を恐る恐る進めてきました。ソ連から再びブレジネフ・ドクトリンをベースにした介入の動きがあり得るのではないかと考えていたからです。これに対して、ゴルバチョフは、すでに1985年に東欧諸国の自主性を認めるという発言をしていたのですが(この路線を「シナトラ・ドクトリン」と当時は呼んでいました)、誰もがこれに懐疑的でした。この記事は、ゴルバチョフがブカレストでの演説で、東欧諸国がそれぞれに改革を進めるよう「激励」の姿勢を示したと伝えています。次の半年で、東欧諸国のすべてが ”my wayを進むことになるとは、まだこの時誰も考えていませんでした。

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http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html 

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