2017年8月15日火曜日

第68回【彼らはなぜ核兵器を持つか⑧】

核抑止は非常に複雑で分かりにくい概念、というか、現実です。様々にねじれています。究極的には核兵器を使用する強い意思があるにもかかわらず、先に使用することをとことん嫌悪し、さらに、先制使用はしないということを敵に分からせ、それを信用させようとします。それなのに、その両者の間には、修復しがたい溝、相手がとことん信用できないという現実があったのです。非常に不条理な状況が現実でした。それでもなお米ソの間には、核の均衡と抑止が成立していたのです。信用していないのに信頼している、というような、実に変な関係が数十年続いたわけです。

以上のような関係が出来上がった背景には、核兵器に対するリアルな認識があったと思います。すなわち、これを使うようになったらお仕舞いだという確信です。それを使わないためであれば、たとえ正義にもとるとしても仕方ないというような諦めが存在したと私は思います。それを批判することは容易いことですが、私はこれこそ人生だと思うのです。米ソは正義よりも平和を優先しました。ここで言う平和とは、米ソの間に核兵器を使用するような戦争が起きないという消極的なものです。しかし、実際に核戦争が起きたことを考えれば、この消極的平和に勝る平和が存在するでしょうか。どんな正義がこの平和に優先されるべきでしょうか。私たちはそんな時代を生きていたわけです。あるいは、今も生きているのです。

冷戦が終わって25年。世界は変わりました。ソ連の後継国ロシアとアメリカの関係は大幅に変化しました。米ロ核戦争の可能性はゼロではありませんが、冷戦時代とは比較にならないほど小さくなりました。核をめぐる問題は、米ソ対立の問題から核拡散の問題に移っています。抑止などにまったく関心を持たない、手にしたらそれをすぐにでも使いかねないような国が核兵器の開発をしています。米ソの間にはどこか八百長めいた感じが漂っていましたが、現在の核疑惑国と有力国の間に八百長の雰囲気はありません。核をめぐる問題は冷戦時代よりもはるかに複雑に、そして、難しくなっています。北朝鮮やイランは核を持ってどうするつもりなのでしょう。あるいは、何のために核を持とうとしているのでしょうか。それは抑止のためだ、というような議論がありますが、本当でしょうか。核抑止とは、相手に核を使わせないだけでなく、自分も先制的な攻撃手段としては実は使う気はないのだということを明らかにして初めて成立するものです。しかも、究極的には、使う覚悟がなければならない、という矛盾したものです。疑惑国にそのような綱を渡りきる政治的技(わざ)があるでしょうか。

アメリカはソ連をとことん信用していませんでしたが、それでも、相互抑止という点では、アメリカは、ソ連も同じように考えているはずだと信じていたように思います。そうでなければ相互抑止は機能しなかったはずです。現在の疑惑国をそのように捉えることは可能でしょうか。私は悲観的です。私たちは冷戦時代よりもはるかに難しく危険な時代を生きているのかもしれません。時々ですが、冷戦時代は平和であったとふと思ったりすることがあります。

抑止は非常に難しい概念です。なぜなら、それは一般的な意味の正義に反する部分を含んでいるからです。私たちは、正義が不正義になり、不正義が正義に通じるメビウスの輪のような時代を生きていることを肝に銘じる必要があります。もう単純な昔には帰れないのです。現代に生きるとは、そうしたことを意識してなお生きるということなのです。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。





0 件のコメント:

コメントを投稿