2019年9月1日日曜日

第116回【紛争のルーツ――植民地主義⑧】


「破綻国家」の問題にしても「新しい戦争」の問題にしても、究極的には、そうした地域にまともな国家を打ち立てなければならないという問題で、現在では、「保護する責任」であるとか「暫定統治」といったような処方箋が国際社会では出されて試されているのですが、考えてみれば、処方箋という言葉を使ったことからも分かるように、そこには「野蛮」という病理が存在するのであり、そうした病理にいかに対処するかが問題とされているわけです。

植民地統治について、現在から振り返ってそこに善意を見るのは少数派の立場だと思いますが、破綻国家に対する人道的介入や暫定統治については、それを肯定的に捉える人が多いように思います。しかし、両者の考え方の構造は案外似ているのではないでしょうか。

植民地主義においては、「文明」と「野蛮」が対比され、「文明」が「野蛮」を略奪する場面も珍しくはなかったとはいえ、「文明」が「野蛮」を文明化し、「野蛮」の下に置かれている人々を救済するという「人道主義」的な側面も存在していました。そこにおいては、文明化する主体と文明化される主体に明らかな非対称的な関係が存在していました。上下関係と言っても間違いではない関係です。

これと同じように、平和構築、人道的介入、暫定統治についても、そこには「略奪」の側面は存在しないにしても(あればそれは犯罪として処罰を受けます)、上下関係と言ってもいいような、明確な主体と客体の非対称的な関係が存在しており、「人道主義」という側面が前面に現れた活動であることは間違いないにしても、非対称的な構造については、植民地主義と変わることがないことは明らかです。

つまり、植民地主義のある側面と冷戦後の平和構築のある側面は、明らかに構造的に類似しているのであり、植民地主義を全否定しておきながら平和構築を肯定するのは難しいのではないかとも考えることができるのです。それとも、平和構築は必要悪なのでしょうか。それに携わっている人にそうした自覚はあるでしょうか。あるいは、植民地主義の人道的側面を再評価すべきでしょうか。なかなか難しい問題です。

こうした問題にただちに答えを出す必要はないのですが、植民地主義と平和構築(人道的介入、保護する責任、暫定統治)とには共通して底辺に「人道主義」が一貫して存在していたことは、やはり、見逃してはならないと思います。それを認めることで、植民地主義の役割をいくらか見直すのか、あるいは、平和構築の位置づけを見直すのかは、人によって答えが違うのだと思いますし、それぞれの国の歴史によってもその評価は異ならざるを得ないものと思います。しかし、国際社会における人道的な配慮をなくすわけにはいかないものと思います。もちろん、あらゆる干渉・介入をしない立場があるということは認めなければなりませんが、それにしても、現在の世界にはあまりにも悲惨なことが多すぎます。見て見ぬ振りをして済ますことほど非人道的なことはないわけで、それならば、以上述べたような知的困難があるとしても人道的立場から介入する道を私は選ばねばならないと考えます。

必要ならば、「今一度植民地主義を」、「人道主義をベースにした植民地主義を」と訴えてもいいのではないかと思うわけです。もちろん、植民地主義を批判的に捉えつつ、平和構築を積極的に論じる視点を模索することは重要ですが、発想の構造が似ていることを思えば、そうした区別はなかなか難しいのではないかと思います。今にして分かる植民地統治という感を強くします。

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年勉強して、かなり意外な所に行きつきました。これが勉強の醍醐味であると断言します。

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