2016年3月1日火曜日

【第33回】難民は夢を見るか③

この年、2008年度は、ゼミ生が20人もいましたので、ひとりひとりのテーマを詳しくご紹介することはできません。

まずは、以下にゼミ生たちのテーマを列挙して、私が特に面白かったと思うテーマについていくつかご紹介致します。
ゼミ生たちが取り上げた難民は以下のようなものでした。
「今現に」というテーマとしては、チェチェン、チベット、ルワンダ、アンゴラ、シエラレオネ、スーダン、ブータン、ソマリア、モーリタニア、アフガニスタン、ボスニア、パレスチナ、ロヒンギャ(ミャンマー)、カンボジアが2人。
すでに難民の問題としては終息して、歴史となった問題としては、ユダヤとインドシナ。

ユダヤ難民について取り上げた学生の論文は、ナチスドイツの迫害を逃れてリトアニアの日本大使館で、今では有名ですが、杉原千畝大使からヴィザをもらい、日本経由で上海に逃れたユダヤ人の足跡を辿ったものです。

インドシナ難民について取り上げた学生の論文は、ベトナム戦争の終戦に伴って発生した難民についてのもので、日本でも、ボート・ピープルとして多くの人が記憶していると思います。インドシナ難民は、多数ではありませんが、日本に今も在住している人がいますので、ぜひそれらの人に会ってきなさいとそのゼミ生に指示をしたのですが、なかなかうまくいかなかったようです。元インドシナ難民が集まるイベントには出席したようですが、それ以上にはアプローチできなかったそうです。

ゼミ生が実際の難民の方々に会えたのが、ロヒンギャ難民でした。
ゼミ生が「これでいく」とゼミで報告した時に全員が「それって何?」と思ったのが「ロヒンギャ」でした。現在では時々日本でも報道のあるロヒンギャですが、2008年の時点では、日本人のほとんどはロヒンギャのことを知らなかったと思います。実は、変な言い方ですが、国際的には、伝統のある有名な難民がロヒンギャなのです。

ミャンマーにおけるイスラム教徒の少数民族がロヒンギャです。ロヒンギャほどに虐げられた難民はありません。アウン・サン・スーチーの政権獲得でどのような変化が起きるのか、まったく予想がつきませんが、ロヒンギャを難民としているミャンマーの国家の在り方は、非難のしようもなくひどいものです。ロヒンギャは紛れもなくミャンマーにおける少数民族のひとつですが、ミャンマーは国家としてロヒンギャを国民として認めていません。すなわち、あまりないことですが、国家が国民の保護を確信的に放棄しているのです。棄民政策と言っていいと思います。国家が意図して少数民族を難民にしているというのがロヒンギャ問題です。ロヒンギャの多くは同じイスラムの隣国バングラディッシュやサウジアラビアなどに逃れています。

ゼミ生がロヒンギャをテーマとして選んだのは、なるべく知られていないマイナーな難民を取り上げなさいという私の指示を忠実に守った結果なのですが、調べてみると、実は、これが有名な難民の事例であることが分かりました。

さらに、偶然のことですが、ロヒンギャ難民が日本にいることが分かったのです。ロヒンギャをテーマにしたのは4年の男子学生だったのですが、同じ4年の男子学生のお父さんが群馬県の警官で、ある日、出張で東京に来たお父さんが息子と飲みに行って次のような会話を交わしたとのことでした。
「お前、今大学で何勉強してるんだ?」
「難民だよ。(彼はパレスチナをテーマとしました)」
「それじゃ、お前、ロヒンギャって知ってるか?」
「知ってるよ、当然じゃん!」
なぜお父さんがロヒンギャを知っていたかというと、群馬の、お父さんが警官として管轄する地域(館林市)に、なんと、ロヒンギャ難民(日本ではまだ難民認定されていない)が集団(200人程度)で生活をしていたのです。

というわけで、4年生男子全員(3人)が群馬の学生の実家に泊めて頂きながら、ロヒンギャ難民を紹介して頂き、彼らへのインタビューに出掛けたのでした。

実際に難民である人たちに会う経験は日本では稀ですから、学生たちには非常にいい経験となったと思います。こういう偶然の機会を生かす活力がこの年のゼミにはありました。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。







0 件のコメント:

コメントを投稿