2018年10月2日火曜日

第95回【20世紀の悪魔・民族自決⑮】

20世紀を人類史上もっとも野蛮にしたイデオロギーの東の横綱が共産主義でした。共産主義はまず第1に自国の国家内部の敵に向けた暴力へと繋がりました。それがさらに他国に対しても共産主義を広めなければならないということで外に対しても暴力が向かっていったわけです。共産主義という「正しい」思想・体制を世界に広めていくためには、必要ならば(そして必ず必要になるんですが)暴力に訴えてもそれは正しいと考えられたわけです。

対する西の横綱が、今年のテーマ、民族自決(人民の自決の権利)というイデオロギーであったと思います。厄介なのは、この人民の自決の権利というものの考え方が正しいということだと思います。そのくせ、人民とか民族とか自決といった重要な概念が極めて曖昧なのです。その結果、多くの紛争が引き起こされる結果となりました。これはこれから数百年続くものと思います。民族自決の考え方を背景に持った民族解放闘争・戦争が20世紀に盛んに行われました。植民地主義のことを考えれば、そして、植民地帝国が簡単に植民地の独立を認めなかったことを思えば、こうした闘争・戦争はたぶん不可避、あるいは、必要のあったものなのかもしれないとも思います。しかし、その結果、多くの人命が失われました。そして、重要なことは、そこで死んだ多くの人々が、独立のためであれば自分の命は失われても仕方ないと信じながら死んだということです。ひとは何かを信じれば確かに進んで死ぬ存在でもあるのです。しかし、だからといって人間が大量に死んでいいものでしょうか。たとえそれが正しいものの考え方であったとしても、民族自決は間違いなく、20世紀を野蛮な世紀に導いたのでした。

考えてみれば、ヨーロッパの18世紀ははるかに文明的であったと言えます。もちろん、20世紀とは違って、瞬時に大量の人間を殺すような技術がなかったことも幸いしていたことは否定できません。それでも、この時代と20世紀との違いは、ものの考え方の相違であったということも重要であると思います。

18世紀においては、戦争は正しい「何か」のために行われるのではなく、徹底して「利益」のために行われると信じられていました。戦争に伴う被害が戦争で得られる可能性のある利益を上回るようであっては馬鹿げているとすべての関係者が心から信じていました。だから、戦争は正義と悪魔の戦いではないということ、所詮一時の利害のためだということが肝に銘じられていました。こうした戦争は様式化せざるを得ません。つまり、一種のスポーツになるわけです。この時代の戦争は傭兵による戦争ですが、傭兵はもちろん金目当てで、死んでしまっては意味がありません。だからこそ、戦争はぬるく、場合によっては、兵士の展開の状況によって、戦わずして勝敗が決まったりしたわけです。


このようなスポーツとしての戦争の終わりがフランス革命に伴う戦争(ナポレオン戦争、それを終わらせたのが1815年ウィーン会議)で、この革命によってイデオロギーを背景にした戦いと傭兵ではない国民軍が登場し、それまでの戦争を一変させたのです。20世紀はまさに19世紀の延長線上に花開いた野蛮の世紀だったわけです。

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