2018年10月15日月曜日

第96回【20世紀の悪魔・民族自決⑯】

さて、以上のことを踏まえて21世紀を展望してみましょう。
20世紀を史上もっとも野蛮にした3つの要因はどうなったでしょうか、あるいは、どのようになる見込みでしょうか。
第1に、武器・兵器は依然として進化し続けています。たぶん、武器・兵器は今後もずっと発展し続けるのだと思います。つまり、より効率よくより大量に人を殺す道具が工夫され続けるということです。人類はどこまで愚かなのでしょうか。

しかし、これにはこれまでの発展と多少違う方向も観察されます。つまり、アメリカが典型ですが、敵はいくら死んでもいいけれども、味方つまりアメリカ人が死ぬのは耐えられない社会が出来つつあります。今はアメリカが典型ですが、いずれどこの国でもそうなっていくものと思います。つまり、敵を一気に大量に殺す技術を発展させると同時に、味方をいかに戦闘で死なせないかという方向の兵器の開発が行われるはずです。無人飛行機の偵察や攻撃が今注目されていますが、これがその典型です。いずれSF映画のように、ロボットの兵士が登場することは間違いないと思います。

第2に、国際法は今後も間違いなく発展していくものと思いますし、それを無視してまともな主権国家が行動し続けられるとは考えられません。どんな国家も何事か行動を起こす場合には国際法を視野に入れないわけにはいきません。ただし、その進歩の歩みは遅々としたもので、そして、時には無力で、国際法が十分に国家の行動を縛るようになるまでには数百年の時を費やさざるを得ないものと思います。何度でも言いますが、それでもなお、国際法の発展にしか国際社会の未来はありません。

第3に、イデオロギーとしての共産主義はさすがに実効性を失いましたが、しかし、共産主義に代わるイデオロギーの登場までもなくなったとは言えないものと思います。イスラムをベースにしたかのようなテロリスト集団の狂信性は、共産主義のイデオロギーを凌ぐもののようにすら感じられます。テロは21世紀の主要テーマとなった感があります。

民族自決というものの考え方は21世紀においても有効で紛争の重要な鍵になるものと思います。だからこそこれを2012年度のテーマとしました。民族自決というものの考え方は間違いなく正義に適っています。問題はその概念が曖昧で、この権利を行使する主体が誰なのかが明確でないということであるように思います。植民地主義の遺産はまだ清算されていません。現に今ある国家の枠組みはどこまでも暫定的ということができます。

何しろ、植民地から独立したわけではない西欧諸国においてすら民族独立を訴える分離主義が珍しくありません。スコットランド、ウェールズは長期的にはイギリスから独立するのではないでしょうか。ベルギーが2つに分裂する可能性はかなり高いと思います。カナダのケベックも分離独立の可能性を依然秘めています。共産主義から解き放たれたチェコスロバキアはすでにチェコとスロバキアに分離しました。バルセロナ有するカタルーニャやバスクはスペインから独立する道を選ぶのでしょうか。かなり成熟した西欧の主権国民国家においてすら現在の国家の枠組みは盤石とは言えないわけです。

まして、50年前、60年前に植民地から独立した諸国においては、現在の国家の枠組み、もっと分かり易く言うと、現在の国境は、むしろ虚構に近いと言ってもいい場合がざらなわけです。こうした諸国においては、無数と言っていいほどの分離独立運動が存在しています。重要なのは、私たちが民族自決が正義だと考えるのであれば、こうした運動を認めなければならないということです。それとも、民族自決というイデオロギーを否定することは可能でしょうか。私はこれを不可能だと考えています。なぜならば、民族自決という考え方は正義に適っていると考えるからです。もちろん、何度も言うように、この概念はあまりにも曖昧なので、もっと明確化しなければならないとは思います。しかし、まるごと否定することは不可能であると考えます。つまり、私たちは、民族自決を疑問の余地のないように定義しなければならないのです。「民族」とは何かという問題です。そして、実は、これこそがまさに困難な問題で、簡単には解決されないと思うわけです。20世紀の悪魔のひとり「民族自決」を21世紀に飼いならすためには、だから、言葉の定義の問題とともに以下のような態度を身に付ける必要があると私は考えます。
(第97回に続く)

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。





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