2018年11月16日金曜日

第98回【20世紀の悪魔・民族自決⑱】

前回の最後に予告致しました通り、今回は「冒険」の番外編です。

2012年度は「20世紀の悪魔・民族自決」と題してゼミを1年間行いました。テーマの背景には、20世紀が人類の歴史でもっとも野蛮な世紀であって、なぜそんなことになってしまったのか、という関心が常に存在していました。

しかしながら、考えてみれば、20世紀がとりわけ野蛮であるということは、どこまでも印象論に過ぎないものでした。第1次大戦、ロシア革命からスターリンへ、そして、ナチスドイツの所業と第2次大戦、毛沢東による大躍進や文化大革命による自国民虐殺、ビルマ・ポルポトによる毛にならったかのような自国民の大虐殺、さらに、ルワンダなどの虐殺と、20世紀を振り返ると確かに億単位で人が殺されたわけで、これを「野蛮の世紀」と呼ばずしてどの時代を野蛮と呼ぶのかと考えてしまうのは当然のことです。しかしながら、統計的な考慮を勘案して人類の歴史を振り返ってみると、20世紀は、案外、印象ほど悪くないということが人類学者の間では常識であるということを最近になって知るようになりました。

ハーバード大学のスティーブン・ピンカー教授によれば、古代の狩猟採集社会、その後の部族社会から近代国家中心の現代までの戦争や暴力による死者数を推定して比較すると、人口10万人当たりの死者数は、国家の下にある場合の方が、それ以前の伝統的な社会よりもはるかに少ないということで、このことは、ピンカー教授の『暴力の人類史』に詳しく書かれています。日本語訳で上下2巻1200ページを超え、註と参考文献表だけでも100ページ以上になる大著です。

確かに、20世紀は戦争やその他の暴力によって多くの人命が失われたわけですが、死者を分子とし、人口を分母とする統計的な処理をすると、随分とその印象が変わります。そして、印象の変化以上に重要であることは、なぜそうした変化が起きたのか、つまり、印象とは違って、20世紀において理不尽な暴力による死者の割合が減ったのはなぜか、という疑問に対する答えであると思います。

ピンカー教授は、その答えを単一のものに求めてはいませんが、そのうちの最も重要なものとして主権国家の確立を挙げています。それが必ずしも民主的でないとしても、政府の管理下に入ることで、すなわち、法の支配を受け入れることで、殺人は激減するということは、文化人類学者の常識であるとのことです。残念ながら、政治学者の常識とはなっていませんが。

手前みそになりますが、私は自著『ウェストファリアは終わらない』において、未来の平和な世界を、民主的な主権国民国家による外交と国際法の世界として描きました。カント的な平和の発想であり、それはそれほど珍しい主張ではないのですが、ピンカー教授の証明する暴力の減少という現象と響きあうところがあります。国家が暴力を国内において独占することによって国内社会に平和を築き上げ、その国家がことごとく民主化されることによって、国家による対外的な暴力の使用が制限されるようになる世界こそ、私たちが望むことのできる最も平和な世界なのではないでしょうか。私は、20世紀が野蛮な世紀であると信じながらなお、その延長線上にしか平和は存在しないと考えたわけですが、ピンカー教授が提示しているように、20世紀が人類のそれまでの歴史に比較してそう悪くないものだとすれば、ますます希望が湧くというものです。

アフガニスタンやイラク、シリアの問題にしても、また、中米からアメリカへ徒歩で向かう移民の群れにしても、天文学的なインフレで多くの国民が国外に逃れているヴェネズエラの問題にしても、根本的な問題は、そこに民主的な主権国家が確立されていないということに尽きるように思います。20世紀の後半以来、主権国家の時代は終わり新しい時代がやって来るかのような言説が多く登場したのですが、それらは大いに間違っていたのではないでしょうか。21世紀の今もなお、民主的な主権国家による世界は未確立で、その確立こそがまさに現下と将来の課題なのではないでしょうか。

ウェストファリアは終わらない』において私は以上のような問題を考えました。20世紀への評価がピンカー教授の影響によって大いに変化したとしても、そこで論じたことについてはなんら影響を受けなかったことを喜ばしく感じています。今後も勉強をしなければと改めて思いました。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。




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