2019年7月1日月曜日

第112回【紛争のルーツ――植民地主義④】

アフリカを対象に論文を書いたもうひとりのゼミ生は、エリトリアを取り上げました。

エリトリアは、日本ではほとんど話題になることのない国です。しかし、地中海を小さな船で渡ろうとする難民にエリトリア人が多く含まれていることが知られています。難民の多くが紛争や内戦の結果祖国を後にするのに対して、エリトリアにおいては、国の独裁体制と貧困が国民、特に、若者を難民として海外に押し出してしまっています。

エリトリアは、もともとはイタリアの植民地、第2次大戦途中からイギリスがこれを引き継ぎ、戦後はエチオピアに合邦されました。1993年にエチオピアからの独立を果たしますが、2001年のエチオピアとの国境紛争以来、独裁体制と孤立主義が顕著になり、「アフリカの北朝鮮」とまで言われるようになっています。ゼミ生は、現在のこうしたエリトリアの独裁体制が植民地経験の影響と言えるかどうかを論文で考察し、植民地時代のトラウマは確かに存在しているとしています。

ゼミでも議論を戦わせましたが、私にはどうにもそうは思われませんでした。アフリカの経験した植民地経験は、確かに、広く深く現在まで影響を残していることは確かです。民族・部族の存在をおよそ無視した国境線は今でも紛争の種となっています。しかし、独裁的な政治体制やその政権の腐敗の多くは、アフリカ自身の責任であると私は思います。先進国にもアフリカにも、あらゆることを植民地時代の悪影響のように言う人がいますが、本当でしょうか。むしろ、そうした議論は、アフリカの人々をどこか馬鹿にしていると言えないでしょうか。また、自分たちの腐敗堕落をいまだに植民地時代のヨーロッパ諸国の責任とすることは、それ自体、さらなる精神の腐敗堕落を招くと言えるのではないでしょうか。
2014年度は、現在の国際紛争のルーツの多くが植民地時代の負の遺産にあるとの仮説でテーマを選び、議論をしたのですが、エリトリアの現状が植民地時代の直接的な影響を受けていると私には思われませんでした。

アフリカの他に、カリブ海の島国セント・クリストファー・ネービスをテーマとしたゼミ生もいましたが、東南アジアをテーマとしたゼミ生が案外多くいました。インドネシア、東ティモール、マレーシアに加えて、植民地にならなかった例としてタイを取り上げたゼミ生がいました。

タイは、日本と同様に、アジアで植民地にならなかった例外的な国です。最近即位したラーマ10世の直接の祖先であるラーマ4世・5世の時代のことです。

インドを植民地とし、さらに、ビルマを植民地化したイギリスが西からタイに進出しようとしました。また、東側では、ベトナム、ラオス、カンボジアを植民地化したフランスがタイに迫っていました。こうした状況において、東南アジアの真ん中に位置するタイは、ヨーロッパの植民地大国の、いわば、緩衝地帯となったのです。もちろん、ラーマ4世・5世を先頭にしての、タイの巧みな外交と国内における近代化政策も見逃すわけにはいきません。

このように考えてみると、タイの置かれた状況は、案外、日本の状況に似ていたように思えます。薩長の背後にはイギリスが控え、フランスが幕府を支援する。大きな内戦なしに維新を実現し、その後は一気に近代化に走る。地理的にも、日本は海に囲まれ介入のし難い環境でした。

植民地にされなかった地域自体の、あるいは、それが置かれた状況の特色を一般化することは困難です。しかしながら、その地域の、巧みな外交の存在と、国内における近代化政策の成否は鍵であると思います。ヨーロッパの大国の多様な要求をのらりくらりとかわしながら、ヨーロッパ型の国家作りをスタートさせ、大国の介入をできるだけ避ける。それがタイの成功の要因であったことは間違いありません。インド以西のほとんどすべての地域がこれに成功せず、タイのみがこれを実現したことは極めて印象的なことでした。


次回以降も、ゼミ生の論文のご紹介を続けます。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。

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