2014年12月15日月曜日

【第4回】もっとも難しい言葉・平和③

学生がゼミに入って来て最初に私が話題にするのが、政治学における言葉の問題です。ゼミ生には、3つの観点から言葉の問題に敏感になってもらうように話をします。

ウェストファリアは終わらない』でも言葉の問題に少し触れました。第3章第1節では、「システム」と「構造」の定義が曖昧であり、論者によって異なった使い方をしていると論じました。また、「冷戦」には揺るぎのない定義が存在せず、その結果、冷戦がいつ始まりいつ終わったかについての合意が学者の間にもないことを紹介しました。第4章第2節では、「デモクラシー」を「民主主義」と訳すことに疑問を呈しました。

ゼミ生に注意を促す第1の観点は、自然科学とは違って社会科学の場合は、概念が厳密に定義されているとは言えないということです。特に政治学の概念は日常用語との区別も曖昧です。たとえば、「権力」にしても「制度」にしても、誰もが同じ定義でこれらの概念を用いるわけではありません。ですから、その概念を使用している論者がどのような意味でその概念を用いているかに注意をしなければ誤解が生まれる可能性が高いのです。

日常用語と学問上の用語との区別が曖昧であることは、素人にも話が通じるという点では悪くないのですが、正しい理解には繋がりにくいという欠点があります。それとは逆に、たとえば、法律や役所の用語のように、概念の定義ははっきりとしていても、日常用語から離れてしまうと、誤解は少なくなるものの素人を遠ざけることになります。私たちは「思料する」などと普通言いませんから。

言葉に関する第2の観点は、政治学のキー・ワードのほとんどが翻訳語だということです。そもそも私たちの使っている多くの言葉は、明治以降に福沢諭吉に代表される人たちが大急ぎで西欧の言葉を翻訳して生み出した言葉です。「国家」「政府」「社会」「科学」「権力」「権利」「義務」「憲法」「法律」「支配」「政治」「経済」「組織」「定義」「概念」「人民」「共和国」「教育」「政党」「選挙」、挙げていけば切りがないのですが、こうした社会に係るほとんどの言葉は西欧の言語からの翻訳語なのです。漢字は中国生まれですが、これらの概念は日本生まれで、中国で使われている社会科学の概念はほとんどが明治以降の日本から輸入されたものです。現に国名の「中華人民共和国」の3分の2は日本生まれの言葉です。

日本語のキー・ワードのことごとくが翻訳語であることの弊害は、元々の概念と翻訳語の概念がズレている場合があるということで、このことを意識することが社会科学の勉強をする場合には非常に重要です。漢字は単なる記号ではなくて、一つ一つに意味がありますから、英語やドイツ語やフランス語のキー・ワードを漢字2文字か3文字で翻訳すると、そこにひとつひとつの漢字の意味が濃厚にまとわりついてしまって元々の概念を歪めるということが起きます。このことは今となってはどうしようもないことなのですが、それを知ることが重要です。

言葉に関する第3の観点は、価値の問題です。たとえば、ある政治の現象を「右傾化」という言葉で論じたとたんに、そうした政治現象は否定的に受け止められます。「保守的」とか「急進的」といった言葉もなんらかの価値判断を含んだ言葉と言えます。学問上の議論をする場合には、こうした価値判断を含んだ言葉・概念を不用意に使わないで議論をすることが重要です。選挙などの実際の政治の舞台では、こうした価値を含んだ言葉使いに習熟することが重要なのかもしれませんが。

そこで、前回までお話ししてきた「平和」の概念についてですが、この”peace”を翻訳した概念は極めて曖昧で、ガルトゥング以降、その曖昧の度合いにはさらに拍車がかかりました。さらに、ガルトゥングは平和を「消極的平和」と「積極的平和」とに区別することで、あたかも「消極的平和」が不十分であり間違っているかのような印象を与えました。すなわち、「消極的」「積極的」という言葉には価値が濃厚に絡みついているのです。そこで柴田ゼミではこれらを「狭義の平和」と「広義の平和」と言い換えることで価値判断をひとまず免れようとしているわけです。
次回(12月30日)、平和という概念に結論を出します。

※このブログは毎月2回、15日・30日に更新されます。





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