2014年12月3日水曜日

【第3回】もっとも難しい言葉・平和②

前回、戦争と平和が必ずしも反対語ではないと書きました。
現代においては、戦争も簡単な概念ではありませんが、平和はそれ以上に複雑な概念です。少し肯定的にとらえれば、非常に豊かな言葉といえるかもしれません。

平和という言葉は、少し前までは、「戦争のない状態」という意味で使われていたのですが、ノルウェー生まれの平和研究(あるいは平和学)の祖ヨハン・ガルトゥングは、こうした平和という言葉の使い方を批判しました。

ガルトゥングは、戦争のない状態を平和とする伝統的な平和という言葉の使い方を「消極的平和」と呼び批判しました。彼は、それに対して、「積極的平和」という概念を提示して平和という言葉の持つ意味を大きく拡大してみせました。現在の「平和」という言葉の使い方は多かれ少なかれガルトゥングの影響を受けていると思います。

さて、それでは、積極的平和とは何でしょうか。
この概念の特色は、伝統的な「消極的平和」の概念が単に戦争がない状態を平和と考えたのに対して、戦争がないだけでは十分でなく、そこには正義が実現されていなくてはならないと考えたことだと思います。つまり、戦争と平和という概念に正義(正邪の区別)という価値を持ち込んだことに特色がありますし、そこが魅力です。

「戦争と平和」と「正邪」という価値を組み合わせると、以下のような4つの概念が生まれます。すなわち、「正しい戦争」「邪悪な戦争」「正しい平和」「邪悪な平和」です。戦争の議論はいずれするとして、ガルトゥングは、戦争がない状態は必ずしも「正しい平和」ではないので(その平和は「邪悪な平和」かもしれないのです)、我々は単に戦争がないだけの「消極的平和」に満足するのではなくて、「正しい平和」を知り、それを目指さなくてはならないと訴えたわけです。私にとってもそうでしたが、若者にはかなり魅力のある議論だと思います。

ガルトゥングは「正しい平和」と「邪悪な平和」の区別を説明する概念として「構造的暴力」という概念を創造しました。戦争とは「物理的暴力」を用いるのが最大の特色です。私たちは、この「物理的暴力」のない状態を伝統的に平和と呼んでいたわけです。ガルトゥングは、「物理的暴力」の不在をすなわち平和とする考え方を退けて、私たちの生きる世界には「物理的」とは異なる「構造的」な暴力が存在していて、この「構造的暴力」から解放されて初めて世界は「平和」になったと言えるのだと主張しました。

では、「構造的暴力」とは何でしょうか。
構造的暴力とは、国際および国内の社会構造に根差すあらゆる不正義のことをいいます。たとえば、貧困や飢餓、男女や階級や人種の差別、あらゆる不平等などなど、こうした社会的不正義の背景にあるものが「構造的暴力」なのです。普通は、ホームレスのおじさんを見てすぐに暴力という概念と結びつけてそれを考えることはしないわけですが、ホームレスを生む社会の背景にはそれを生み出す構造的暴力が存在していると理解しなければいけないというわけです。「(構造的)暴力」という言葉を通じて問題を理解するということがポイントです。そして、こうした(構造的)暴力が存在している以上、私たちの社会は「平和」ではない、「平和」を実現するために構造的暴力を社会から取り除かねば、と思考を進めるのです。

こうして、ガルトゥングによれば、平和とは構造的暴力がない状態のことで、これを「積極的平和」とよびます。それに対して、伝統的な、戦争がない状態を平和とする平和を「消極的平和」とよびます。すでにこの呼び名に優劣の価値が含まれているように思いますが、果たしてそれは正しいことでしょうか。


柴田ゼミでは、積極的平和を「広義の平和」、消極的平和を「狭義の平和」とよんで、できるだけそこに価値を含まないように努めていますが、その理由は次回お話しします。

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