2014年12月30日火曜日

【第5回】もっとも難しい言葉・平和④

前回まで「平和」という言葉の意味について考えてきました。
平和という言葉は元来「戦争のない状態」という、いわば消極的な意味を示す語だったわけですが、ガルトゥングがこれに異議を唱えることで、その意味は大きく広がりました。あるいは、豊かな意味を持つようになりました。

ところで、言葉が豊かになるということはどういうことでしょうか。平和という言葉の場合で言えば、ひとつの単語の持つ意味が多様になるということはどのようなことだろうか、ということになります。

昔、ワルシャワ大学で教えていたことがあります。日本学科というヨーロッパでも有数の日本研究の学科なのですが、そこに入学してくる学生たちの中には語学の天才がうようよいました。入学時に3か国語4か国語ができるなんていうのは珍しくないのです。その上、日本語まで勉強し始めるのです。3年生までの3年間で日本語を徹底的に勉強させ、45年で文学・歴史・言語学に分かれて日本語を道具にして専門的な勉強をし、最後にポーランド語で論文を提出します。入学者の半分も卒業できないという厳しい学科です。

ワルシャワ大学の学生のひとりが「英語はボキャブラリーが少なくて不便だ」ということを私に言ったことがあります。その時にはピンとこなかったのですが、後になってその意味が分かりました。アイルランドにいた時のことです。ふと、「瓶のフタってなんていうの?」と聞いたら、宿泊先のおばさんが一言「top」と言ったのです。確かに、瓶の一番上の部分にあるのだから「top」というのは分からないではないんですが、ああ、これが「ボキャブラリー不足で困る」ってやつなのだなと納得したのでした。

ひとつの言葉が多くの意味を表すということは、前後関係などからその言葉の意味を推測しなければならないということになります。めったにないことですが、場合によっては、言葉の意味が確定できないということも起きます。

平和という言葉は、ガルトゥング以降、その内容が限りなく豊かになることで、その言葉を使っている人が何について論じているかを確かめなければ、その意味が分からない言葉となってしまいました。平和という言葉の下にたくさんのサブ・カテゴリーがぶら下がるイメージです。どのカテゴリーの話がされているのかを確かめなければ、平和という言葉の意味は確定できなくなりました。つまり、広義の平和とは、戦争がないだけでなく、あまねく人権が保障され、貧困がなく格差もなく、教育が行き渡り、文化や環境が十分に保護され、多くの民族が真に共存し、あらゆる宗教が自由に信仰され、交通機関が発達することで不便がなく、住環境が整い、男女や出生による差別がなく、疫病はもちろんあらゆる病気に対する備えが社会全体に行き渡り、すべての人々が不満なく幸せに暮らす…、そんな世界だということになります。「平和な世界を!」というスローガンは、戦争についてではなく、環境問題について言っているかもしれません。昔ならあり得ない言葉の使い方ですが、今ではむしろ一般的です。

言葉が豊かになるとは皮肉なものです。私が思うには、このようにして平和という言葉は単独では使えない言葉となってしまいました。平和の意味するところを説明して使わざるを得ないからです。ガルトゥングは平和という言葉に新しい意味を吹き込み豊かにすることで平和という言葉を殺してしまったのかもしれません。

柴田ゼミでは、平和とは狭義の平和を指すものとし、「主要な国の間に戦争がないこと」を意味することとしています。つまり、伝統的な平和の概念を採用していることになります。広義の平和の観点からすれば、仮に大国間に戦争がないとしても、この世界には小さな戦争や不正義が溢れており、その世界を平和とは呼べないということになるのですが、それでは、この世に平和は断じて訪れないと私は思います。広義の平和とは、すなわち、実現するものではなく、永遠の努力目標なのです。「平和」はもっとささやかであっていいと思うのですが、いかがでしょうか。


柴田純志・著『ウェストファリアは終わらない
http://www.kohyusha.co.jp/books/item/978-4-7709-0059-3.html

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