ハンチントンは、冷戦後の世界では、イデオロギーに代わって「文明と文明の対立」が主たる対立の焦点になると主張しました。
ハンチントンは世界に7つないしは8つの文明があるとしましたが、主な対立は西欧キリスト教文明とイスラム文明、西欧キリスト教文明と儒教(中華)文明の間に起きる可能性が高いとしました。
ちなみに、日本は、日本文明として一か国で一文明をなす存在とされ、唯一の例外に位置づけられました。
確かに、聖徳太子の時代から、日本はアジアにおいて極めて特殊な位置づけにある国で、中華文明の端っこに存在するかのように見えながら、それに対抗する独立した存在であったということができます。現在の日中の対立もより長い歴史の視点で捉える必要があることをこうしたことが教えてくれるように思います。
ところで、ハンチントンの言うような文明の対立が立ち現われた場合には、日本はどこに自らを位置づければよいでしょうか。西欧キリスト教文明でしょうか。それとも、儒教(中華)文明でしょうか。イスラム文明ということはさすがにないと思いますが、中立ということはあり得るのでしょうか。
冷戦終結直後から紛争が起きたバルカン半島や現在紛争の頻発している中東がまさにこれに当たります。インドとパキスタンの間も典型的なフォルト・ラインです。
ハンチントンの予言は的中したのでしょうか。
現在世界中で起きている紛争・戦争の多くは、民族や宗教をベースにしたもののように見えることが珍しくありません。ISIL(または、ISIS、IS、イスラム国)はイスラム文明が西欧キリスト教文明に挑戦をしていることの現れなのでしょうか。ISILは確かにイスラムを語ってはいますが、イスラムを代表しているわけではないと考えるのが正しいように思います。サウジアラビアもエジプトもヨルダンもISILと対立していますし、イランもISIL退治に加わっています。
ハンチントンの「文明の衝突」というアイディアの最大の特色は、その予言の的中にあるのではなく、私たちの思考を節約させて誤らせることにあるように思います。
人間というものは、残念ながら、面倒くさがる動物です。それは思考において極めて顕著です。余計に考えなくていいような便利なツールがあると、ついそれに過剰に依存して考えることをやめて惰性で物事を判断するようになります。
ハンチントンの「文明の衝突」というアイディアの最大の問題は、このアイディアがこうした思考の節約の極めて優れたツールであるということです。世界中の多様な紛争を、いかにも誰にでも分かるように単純化して説明をしてみせます。「これも文明の衝突と言えますねえ」などと言って。
紛争・戦争の原因はそれぞれ極めて多様です。それなのに、自己充足的予言と言いますが、「実は、これも文明の衝突だ」と周りが繰り返し言い続けると、当事者もそれが原因であるかのように考え始め、そのために紛争の解決が難しくなったりすることもあります。文明の衝突というアイディアが厄介なのは、どんな紛争にも幾分かはそうした要素が含まれているということです。ハンチントンは、実は、最大公約数的な要素を指摘したに過ぎないのです。
私たちは、確かに、文明が衝突しているかのような時代を生きているわけですが、重要なことは、大事なことがもっと別にあるかもしれないと考える癖を養うことであると思います。あらゆる紛争を解決する万能薬が存在しないのと同様に、あらゆる紛争の原因を解説してみせる万能の理論も存在しないのです。
※このブログは毎月2回、15日・30日に更新されます。
柴田純志・著『ウェストファリアは終わらない』
0 件のコメント:
コメントを投稿