2015年4月15日水曜日

【第12回】「今」はどんな時代か?⑦

私たちが生きる「今」がどんな時代かを考えるために、これまで3冊の本を紹介しました。
4冊目はメアリー・カルドーの『新戦争論』です。
この本が出版されたのは1999年(日本語訳が2003年)、考察の対象の中心は旧ユーゴスラビア、特に、ボスニア・ヘルツェゴビナなのですが、最近の中東やアフリカにおける「新しい戦争」を考える場合にも、極めて重要な議論がこの本の中でなされています。

私たちは、戦争という言葉を何にでも気軽に使いがちですが、真面目に「戦争」に対処しようと思えば、戦争という概念に遡ってものを考えなければなりません。

そもそも戦争とは何でしょうか。

カルドーも論じていることですが、戦争とは、ある限定された時間と空間の中で行われる主権国家同士の合法的な戦いのことです。カルドーはこうした戦争を「旧い戦争」と呼びます。こうした「旧い戦争」は17世紀から18世紀のヨーロッパで確立した制度だと言うことができます。
大変に興味深い逆説ですが、国家が対外的な戦争に備えて暴力を独占するようになると、国家の内部には秩序が生まれ平和が確立されるようになりました。対外的な戦争への準備が国内の平和を生み出したわけです。同時に、国家と国家が戦争をしている時以外の時間が「平和」であると考えられるようになりました。つまり、国家が暴力を独占し戦争に備えることにより、国内的には秩序を通じて平和が生まれ、国際的には戦争と平和が区別されるようになったわけです。戦争への準備が平和という概念を生んだということになります。それ以前の社会は、戦争と平和が混然一体となっていて区別のできない世界であったのです。

戦争とは、それ故、主権国家が行う、国家間の紛争を処理する制度のひとつで、その開始と終結についても、また、戦争のやり方についても徐々にルールが確立し、そのルールに従って行われるゲームのようなものなのです。

しかし、紛争処理のゲームとしての戦争も、ナショナリズムを背景とした国民軍の登場と科学技術の発達による兵器の進歩によって、耐え難い悲惨さを伴うものに変化しました。それをヨーロッパ諸国に痛感させたのが第1次世界大戦でした。

戦争という言葉があまりにも気楽に使われているために意識されることはあまりないのですが、現代においては、戦争は紛争の解決の手段としては禁止されています。
戦争の禁止は、第1次大戦後から議論され始め、1928年のケロッグ・ブリアン協定(いわゆる「不戦条約」)で成果を見、現在の国連憲章に結実しました。しかしながら、今でも世界は「戦争」で溢れているように見えます。

しかし、主権国家と主権国家がルールに則って行う「旧い戦争」は、今では非常に珍しいものとなっています。その意味で、私たちは案外「旧い戦争」をコントロールできるようになったのかもしれません。
今、私たちが「戦争」と受け止めている「戦争」は、実は、内戦であり、テロであり、テロへの対抗としての戦いであり、そこで被害を受けている人は、国家による保護を受けることのできない難民や国内避難民や、テロのターゲットになる一般の市民なのです。こうした紛争は「旧い戦争」の概念では「戦争」とは言えない紛争であると言うことができます。カルドーが言うように、私たちは、こうした新しい暴力の行使に「新しい戦争」の概念を与えて対処しなくてはならない、そういう時代を生きていると言えるのかもしれません。

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