2015年9月30日水曜日

【第23回】正しい戦争④

コニーの問題を論文のテーマにした学生たちは、正義と平和の問題を中心として論文を書きました。仮に正義を全うできないとしても平和を選択せざるを得ない、そんな場合があるように思えるけれど、それが本当に正しいことなのかがそこでは問われました。

残りのゼミ生たちは、それぞれに戦争や紛争を取り上げ、そこにおける戦争と平和と正義の関係を考察しました。

この世には、間違いなく、対決せざるを得ない「悪」が存在します。たとえば、分かり易い例ですが、ナチス・ドイツと戦わない選択肢があったでしょうか。戦争を回避する道は存在したでしょうか。それが存在したとしてそれが正義に適っている可能性はどの程度あったでしょうか。答えは否定的たらざるを得ません。

ナチスほどの絶対悪に近い存在はそうあるものではありませんし、そのナチスにだって自ら掲げる「正義」は存在しました。だから、戦争は一方の正義と他方の正義が戦うことになってしまいますし、どちらの正義にも幾分かの正当性が存在します。ゼミ生たちは、2つの正義の間で戦われる戦争をどのようにして評価すればいいのか悩みました。

ゼミ生たちが取り上げたテーマは以下のようなものでした。911以後のアフガニスタンとイラクでのアメリカによる戦争、イラク戦争単独が4人、イラン・イラク戦争、スーダン内戦、ベトナム戦争、ボスニア紛争、太平洋戦争、コソボ紛争、そして、パキスタンにおけるブット首相暗殺です。

どんな戦争を取り上げるにしても、終わった戦争を振り返ってみると、その戦争が一方の側の正義一色ということはあり得ません。戦争は、その戦争が正義の戦いだったか否かにかかわらず、罪のない多くの人々に大きな傷を負わせないわけにはいきません。その意味で、戦争は常に悲惨なものです。

学生たちの取り上げたテーマは様々ですが、彼らが共通して指摘していることは、戦争を戦う両者に、ある意味で、正義が存在しており、両者が戦争を通じて目指しているものは、自己の正義をベースにした「平和」であって、戦争と平和と正義の三者の関係を「平和的に」処理することは難しいということでした。

戦争には必ず「悪」が伴います。民間人が巻き込まれることは珍しくありませんし、捕虜が適切に処遇されるとは限りません。要するに、終わった戦争には、正義に反するものがまとわりつかざるを得ないのです。だから、戦後、戦前には厳然として存在するように見えた正義は、間違いなく、曇ってしまうのです。仮に正義の実現に向けて戦ったのだとしても、真面目であればあるほど、後悔の念が生まれます。戦争という悪を通過せずに正義を実現する道はないものか考えるようになるわけですが、その正義は一つではあり得ず、しかも、それらは相容れないのです。

ゼミ生の一部は、色々と考えた挙句、やはり戦争はどんな場合でもいけないという結論に達します。戦争に伴う悲惨が許せないわけです。また、別のゼミ生たちは、正義の観点からして戦わざるを得なかったという結論に達します。戦わなければ、悪がそこを支配する可能性が高いためです。もちろん、戦争がすべてを解決するわけはなく、新たな問題がそこから生まれることを承知の上でのことです。


ゼミ生たちに、以上のような課題を与えて論文を提出させたわけですが、戦争と平和と正義の問題について、私に明確な答えがあるわけではありません。学生たちと同じように、この濃いグレーの三角形の中でうろうろとしているというのが実際のところです。
私は、1年間のゼミの最後に、ゼミ生たちに2つの話をしました。その話を次回からご紹介致します。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。




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