2015年10月15日木曜日

【第24回】正しい戦争⑤

2007年度のテーマは「正しい戦争」でした。大変に難しいテーマだったと思います。私は年度末のゼミの最後でゼミ生に対して2つの講義をしました。ひとつ目は「ナウシカの政治学―――悪の根絶を躊躇う政治学」というタイトルです。たぶん、これまででもっとも私らしい話になったと思うのですが、これを再現するのは大変難しい。以下、ゼミでの講義をできるだけ再現してみます。

講義の始めに、ヘーゲルの言葉を掲げました。「たとえ世界が滅ぶとも正義をなすべし」です。日本では表の顔としてこうしたことを平気で言う人がたくさんいます。もちろん、日本人は表と裏とを使い分けますから、口でこんなこと言っていても心の中ではこうしたことをまったく欠片も信じていないという例は珍しくありません。私は、悪の効用を論じる男ですから、こういう使い分けは原則としてしません。ただ、心のどこかに「たとえ世界が滅ぶとも正義をなすべし」という気持ちが存在していて、たま~にですが、それが顔を出すことがあります。

柴田ゼミは戦争を主たるテーマとしています。あるいは、暴力でしょうか。藪から棒ですが、戦争は売春に似ています。同様に、暴力は性と近親の関係にあります。

暴力と性は人間におけるいわば「取扱い注意」の対象で、しかも、それらは人間から切り離すことは不可能な人間の本質の一部です。そもそも、人間の脳において、暴力を司る部分と性を司る部分は隣り合っているそうで、人間の脳は生まれてから徐々に発達して完成に至るので、人によってはこれらが混線して異常を来たすことがあるようです。

たとえば、「サカキバラ事件」の犯人は、鳩や猫を殺してバラバラにするということを人を殺す前にしていたと言われますが、こうした場合、こういう性向の人間は、こういうことをしながら性的に興奮しているということです。つまり、勃起し射精するそうです。人を殺す際にもそうしたことがあったはずで、性的な興奮は鳩や猫を殺すよりも遥かに大きかったはずです。こういう人間がいる、こういう人間が形成されるということを私たちは肝に銘じて知らねばなりません。それは、人間がいかに不完全な形で生まれ、その後、完成された人間になるに際して相当の時間が掛り、しかも、その形成に失敗することがままあるということを知らねばならないということです。

戦争や暴力のことを考えようと思えば、人間とは何かを考えることが、当然のことながら、非常に重要になります。人間は非常に不完全な形で生まれます。三つ子の魂百までと言いますから、3歳くらいには人はすでにその人なのでしょうが、それでもやはり、きちんとした人間になるまでに15年や20年はかかるものです。その間に、親を最筆頭にして様々な周囲の影響を多大に受けながら成長し完成する存在、それが人間なわけです。生まれてすぐ立ち上がり走りだし群れについて行く馬とは相当に違った存在です。しかも、人間の厄介なところは、こうした成長のプロセスを本能によってはたどれないことだと思います。

他のすべての動物が本能によってこの世界に適応するのに対して、ひとり人間のみは本能とは異なったものによって世界を知りそれに適応するのです。つまり、人間の本能は機能していない、壊れていると考えられます。では、本能に代わって人間に世界を教え世界に適応させるものが何かと言えば、それこそが広い意味での「文化」ということになります。私たちは人として生まれるのではなく、生まれてから後、徐々に人になっていくのです。ですから、人間としてきちんと世界に適応し得るようになるまでには、様々な困難があるわけです。それ故、人が成長に失敗することは珍しくないのです。簡単に言えば、変態は案外いるということです。

さて、この後、暴力と性、戦争と売春、という人間にとっての「取扱い注意」の話が続くのですが、この講義は、卒業生が集まると今でも話題になるようなものになりました。長くなりますが、少し辛抱してお付き合い下さい。


※このブログは毎月15日、30日に更新されます。


0 件のコメント:

コメントを投稿