2016年4月15日金曜日

【第36回】難民は夢を見るか⑥

ゼミ3年目のテーマは「難民は夢を見るか」でしたが、1年間のゼミの終わりに、私がゼミ生たちにした総括の講義のタイトルは「Sentimental Politics」でした。今ではこれが私自身の政治学の基礎になっているのですが、『ウェストファリアは終わらない』第1章「人間の条件」のほとんどの部分が、この講義をベースとしています。
あまりないことですが、この年の総括の講義は、原稿を用意してそれを基に講義をしましたので、その原稿をここに再録することにします。

そもそも人間とは何でしょうか。
あるいは、私とは誰なのでしょうか。私とあなたを区別するものは何でしょうか。考えてみると、私とあなたを区別するものは物質ではありえません。人間の体を構成する物質は誰でも同じで、私とあなたも同じ物質から構成されているはずなのです。ならば、私には独自性は存在しないのでしょうか。そんなはずはないので、それならば、私の独自性とはいったい何なのでしょうか。言い換えれば、私を私たらしめているものは何か、ということになります。

私は、少し感傷的な(sentimental)言い方をすれば、それは「思い出」であると思います。より乾いた言い方をすれば「記憶」ということになります。英語では、どちらも「memory」と言います。私とあなたを物質的に区別するものとしてDNAがありますが、DNA上の情報もmemoryと呼ぶことができるかもしれません。

つまり、私を私たらしめているものは私のmemoryなわけです。あなたにはなく私だけにあるものは私のmemoryです。私とは何か。それは、私の中に積み重なった私の「思い出(memory)」なのです。

ところで、私とは私自体で完結するものでしょうか。もっと一般的に言えば、「個人」はそれ自体で完結する存在なのでしょうか。それとも、個人は「全(全体)」の一部となることで完成する存在なのでしょうか。すなわち、古くから哲学で議論されている「全」と「一」の問題ということになります。

このことをmemoryという視点から考えてみましょう。私のmemoryとは私だけのものでしょうか。考えてみれば、私のmemoryとは、人間がひとりでは生きられない存在であることを思えば、その大部分を他人と共有しているはずのものです。すなわち、私のmemoryとは、私の中に積み重なるだけではなく、それらの大部分は、ばらばらに他人と共有されているはずのものなのです。


私は誰かということを考える場合には、2つの方法、あるいは、方向がありえます。
ひとつは、ひたすら自分の内側に自分を求める方法です。もうひとつは、他人の眼に映る自分の断片をかき集めてそれを総合する方法です。自分の「内なるmemory」を追い求めるのが前者であるとすると、自分の外側にある「全」の中に「共有されるmemory」を追い求めるのが後者であると言えます。
しかし、「内なるmemory」の大半は他人と共有しているものであり、その意味では、実はそれは自分だけのmemoryではなく、他人と共有するmemoryであると考えられます。このように考えると、memoryとは孤独ではあり得ないということが分かります。ひとは実は孤独ではあり得ない存在なのです。

※このブログは毎月15日、30日に更新されます。




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