2016年4月30日土曜日

【第37回】難民は夢を見るか⑦

さて、ところで、人間の死とは、単に肉体が失われることでしょうか。肉体とともに「内なるmemory」が失われることは確かな事実です。しかし、その時、「共有されるmemory」はどうなるのでしょうか。

これは私が今ここで提出する仮説ですが、人間の最終的な死とは、共有されるmemoryが失われる時ではないでしょうか。
ひとは2度死ぬのです。
肉体が失われる時と、共有されるmemoryが失われる時に。そう考えると、人間は案外長生きだと考えられます。聖徳太子のように、人によっては、1000年でも生きることができます。

葬式にはたくさんの関係者が集まります。葬式とは、失われた「内なるmemory」を、ばらばらに存在する「共有されたmemory」がいったん集合して送る儀式なのではないでしょうか。法事とは、「共有されたmemory」を再びかき集めることで、死者を甦らせようとする儀式なのではないでしょうか。あるいは、時々過去を思い出すことは、そこに登場する人たちを生かし続ける行為なのではないでしょうか。
要するに、私が仮に死んでも、私はたぶんあなたたちのmemoryの中で生き続けるということになります。人によっては、永遠に生き続けることになるのはこのためで、語り伝えられる人々がこれに当たります。

つまり、「死」とは忘れ去られることです。「共有されるmemory」が失われる時こそが最終的な死の瞬間なのです。だから、人は忘れ去られることを恐れることになります。死を恐れるのとまったく同じように。難民が真に悲惨であるのは、忘れ去られかねないからだと言えます。それは、生きて、かつ、死すことであると言えます。

このように考えると、ひとは、間違いなく、ひとりで生きているのではありません。それは、私たちの社会生活が分業によって成り立っているなどというレベルの話ではなく、より深い存在の核の部分で他人と絡まり合って生きているということです。memoryを他人と共有しない人生などあり得るでしょうか。

それ故、飛躍しますが、人間とは、物語を必要とする動物であると言えます。すなわち、歴史とは、公的な「共有された記憶(memory)」なのです。

人間がひとりでは生きられないということは、人間は、徹底的に「私」ではあり得ないということでもあります。つまり、「公」と関わることなく人生は送れないのです。つまり、「私」のmemoryの背景には「公」のmemoryが深く刻印されているのです。時代背景抜きのmemoryなどというものはあり得ません。

人間にとってmemoryこそが存在の核心にあるものであるとすれば、memoryこそが人のアイデンティティの核になっているということが言えるのではないでしょうか。そのmemoryが他人と共有されていることを考慮し、その共有の外側の枠がどこに存在するかを、突き詰めて考えてみると、現代においては、それは国家であることが理解できるのではないでしょうか。すなわち、「共有された記憶」のある場所を「故郷」と呼ぶとすれば、現代においては、祖国抜きに故郷は存在し得ないのではないでしょうか。

人間のアイデンティティの核にmemoryがあるのであるとすれば、memoryを積み重ねた場所こそが故郷であると言えます。もちろん、memoryは自分と自分に関わった他人の脳に記憶されているわけで、ある具体的な土地に存在するわけではないのですが、心情的には、故郷には自分のmemoryがあるように感じられるのが普通です。故郷には、自分のmemoryの背景と、そして、多くの場合、自分とmemoryを共有している人が現に存在しているのです。人が故郷に惹きつけられ、あるいは、故郷に猛烈に反発するのはこのためであると考えられます。

その故郷は、現代において、祖国抜きに考えることができるでしょうか。私たちの生きる現代の世界においては、私たちの人生のあらゆる場面が、国家の存在を抜きにしては考えられません。私たちのmemoryは他人なしには成り立たないことは言うまでもありませんが、国家なくしてもまた成り立たないのです。

すなわち、国家の歴史とは、同じ国家に生きる、あるいは、生きた、互いに縁もゆかりもない人々の「共有された記憶」以外の何物でもないのです。だからこそ、同国人は互いに引き合うのです。

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